少し足りない距離
「はい。どうぞ」
キッチンに座る野上楓の前に、うどんの器を置くと彼は嬉しそうに目を輝かせた。
「いただきます」
お箸を手にすると、丁寧に綺麗な動作で頭を下げて食べ始める。
私はため息をついてそれを見つめた。
野上楓に押しつぶされた後、私は彼を叩いて起こした。
抱きしめられて顔を真っ赤にさせた私が、思い切り肩を叩いたら、ようやく反応があった。
「お腹、空いた……」
「え?」
彼は弱々しい声でそう言って、また倒れた。
また、私の上に。
どうしてこうなる。
結果、私はもう一度彼を叩き起こすハメになった。
まさかとは思うが、本当に仕事に集中して飲まず食わずで倒れたらしい……。
安心したけれど、何となく気が抜ける。
正直、人騒がせ、とも言えなくもない。いや、十分言える。
思わず大きなため息がでた。
倒れるほど空腹の野上楓のために、私は近くのスーパーまで走って食材を買い込み、事務所のキッチンでうどんを作った。我ながら優しすぎる。
本当はそこまでするつもりはなかったのだ。
適当に食べるものを買って、渡して帰る予定だった。
だけど、スーパーで何が食べたいだろう、と悩んでしまった。散々迷って帰ってうどんを作って、今度はおせっかいだと思われるのではと、また迷う。
いろんなことに迷って、悩んでしまった。
この人のせいで。
野上楓のせいで、散々だった。
だけど、悩み抜いて作ったうどんを見て、野上楓は笑った。
「これ、藤沢さんが作ってくれたの?」
そう言った顔が本当に嬉しそうだったから、私は思わず目を逸らせてしまった。
そして野上楓はよく食べた。お代わりをしたのはさすがに驚いたけど、ずっと食べていなかったからだろう。
でもいっぱい食べてくれるって嬉しい。
たとえ、その人が好きではない人でも。
「驚かせてごめんね」
食べ終わると野上楓はへにゃりと顔を緩めた。
「集中してたら、いつの間にか時間が経ってて、ずっと寝てなくて、なんも食べてなくて…そうしたら、ちょっと力が入らなくなって、倒れちゃって」
私の顔を見ながら、気まずそうに笑う。
「藤沢さんのおかげで助かった」
ありがとう、そう言って頭を下げる。
だけど、反対に私は気まずくなる。
心当たりがあったのだ。
うちの事務所では、昼ごはんはお弁当を食べることが多い。
朝のうちにお弁当を頼む人は私に伝えてもらって、まとめて私がオーダーして取りに行く。だけどその時の気分で適当にコンビニや外のお店に出る人もいる。
この間の金曜日、野上楓はお弁当を頼まなかった。
それが少し、気になったのだ。
野上楓はいつもお弁当だから、今日は頼まなくていいのかな、と思った。
だけど彼は集中して仕事をしていて、そんなことで声をかけるのも気が引けた。私と彼はそこまで仲が良くもないし、何か予定があるのかも、と思うことにした。
変な意地があったのかもしれない。
でも金曜日は昼ごはんを食べていなかったと思う。多分その後もちゃんと食事していなかったのだろう。
だから私にも、彼が倒れた責任はある。
気まずい気持ちを隠すように、本当は自分で食べるつもりで買ったプリンを出したら、嬉しそうに食べてくれて、全部完食したら、さすがに顔には血色が戻ってきた。
それを見て安心するのは、普通の反応だと思う。
ただの人類愛だ。
「おいしかった」
笑顔で御礼をいう彼を、私はやっぱり直視できない。
「うん」
「すごくおいしかった。また、食べたい」
「うん」
私はお茶を飲みながら、少しだけ声を強めた。
「でも、気をつけてね。意識がないのかって驚いたし」
野上楓はそれに困ったような顔をした。
「うん、気を付ける」
あまりにも素直に返事するから、私はつい、お説教をしてしまった。
「大体、何日も何も食べずに寝ずに仕事したら、本当に具合悪くなるよ。気を付けなよ」
そう言ったら、野上楓はあからさまに落ち込んだ顔になる。
だけど、そのあと顔をあげた。
真っ直ぐな瞳でじっと私を見つめる。
「でも、僕はまだ半人前だし。今回の仕事は初めて一人でやらせてもらうから、ちゃんと結果を出したいんだ。もう少し頑張ったら、いいものが出来そうだったから、ここで頑張らないといけないと思って」
野上楓の瞳はまっすぐに私を見ていた。
「お金もらう以上はプロだから。ちゃんとやらないと」
私は言葉を失った。
この間、社長が野上楓に一つの仕事を振っていた。
最近伸びてきている会社の名刺やホームページ作成の仕事だった。元々は会社のマークを作って欲しいというところから始まっている。月末に試作の提出だから、まだ余裕はある。だけど彼はこの仕事にとても集中していた。
初めてやる独りの仕事だから、だと思う。
彼の言っていることは正しい。
いいものを作る為に努力するのは当然だ。逃げてもいいものはできない。
彼にとって初仕事だから、頑張った、頑張っている、それだけだ。
本当に頑張っているんだな、と実感する。
何もしなくていいはずの天才なのに、こんなに努力している。
きっと今までもこうして頑張ってきたんだろうな、とふと思った。
だから、いつもいい結果がでて
だから、ずっと天才でいられるのかもしれない。
私と違う。
逃げてしまった私とは、違う。
努力している人に、逃げた私が注意なんてできない。
そう思ったら、少し気持ちが落ち込んで、私は黙りこむ。
だけど、それを怒っていると勘違いしたのか、野上楓はしょぼんとした顔をした。
「でもこれからは気を付ける」
「うん……」
怒ったのは私なのに、なんだかいたたまれなくなってしまった。
「でも、良かった」
「え?」
顔をあげると、目の前の顔がほっとしたように微笑む。
「藤沢さんとこうやって話す時間なかったから、ゆっくり話せてよかった」
私は息を飲んだ。反対に彼はなんでもないことのように口を開いた。
「あんまり僕と話したくないのかと思った」
まるで、心の中を見透かされたような気がした。
私は野上楓と関わりたくないと思っていた。
だけど、それが彼に伝わっていたなんて驚いてしまう。急に自分がとても冷たい人間になった気がした。
「野上くんの方が立場が上だから、簡単に話しかけられないよ」
この間も言った言い訳をすると野上楓は安心したように笑った。
「同期なのに、気にすることじゃないよね」
そんな風に言われると、仕事内容の違いなんて本当になんでもないことのように感じてしまう。
私が考えすぎなのか、この人が気にしていないだけなのか、わからない。
「ホッとしたら眠くなった」
そう言って野上楓は眠そうに机の上に上半身を倒して、大きな欠伸をする。
「眠いの?」
「うん」
「そこで寝るの?」
返事はしないまま、彼は目を閉じた。すぐに眠ってしまいそうで、だけどその顔がとても穏やかだったから、止めることもできなかった。
「ねえ」
「え?」
横になったまま、野上楓が目を開けた。
右手を出して私の座る場所、机の上に置いた私の手のすぐ近くまで手を伸ばす。
だけど、触れるほんの少し手前で、その手は止まる。
もう少しで触れそうな距離に、私はどきりとした。
だけど、私の驚きなんて知ることもない野上楓は、そっと視線を上げて私をみた。
「ありがとう」
微笑んだ顔は真っ直ぐに私を見ていて、私はどうしてか目を逸らせなかった。
立ち上がることも、そこからいなくなることもできなかった。
「本当に美味しかった。ありがとう」
「うん」
私が戸惑いながら返事すると、また大きなあくびをした。
「また……作ってくれる?」
それは、眠くなりながら言っているせいか、とても甘えたような声だった。
だからつい、私は首を縦に振ってしまった。
「……うん」
頷いた自分に驚く。どうして断らないんだ、とも思う。
だけど、それを聞いて、野上楓はもう一度笑って目を閉じると、今度こそ眠ってしまった。
「ねえ、こんな姿勢で寝たら、体痛くなっちゃうよ」
そう言ったけど、起きる気配はない。
右手は私の目の前で止まったままだ。
少し手前。
もう少し伸びたら触れるのに、そのもう少し、が足りない。
彼はこの手をどうしたかったのだろう。
もし、あと少しだけ、この手が伸びていたらどうなっていたのだろう。
もし、伸びていたら。
その時、私はどうしたのだろう。
きっと触れてしまった手を、私はどうするのだろう。
「ねえ、野上くん」
だけど、自分からその手を取ることもできない。大きな声で起こそうとするけど、全く返事がない。
さっきみたいに体を叩いて起こせばいいのに、それもできない。
すぐ近くの手に触れるのさえ、勇気がいる。
「野上くん?」
動かない彼に向かって、もう一度声を掛ける。
でも返事はない。よく眠っていた。
「どうしよう……」
帰ることも、ここから離れることもできなくて。
私はため息をついた。
眠っている彼の顔は、とても幼く見えた。
その顔には子供の時の面影が残っていた。
今晩中にもう1話投稿します。