初めての
「だめだ。やっぱりだめだ」
私はそう呟いて、大きなため息を吐いた。
今日は日曜日で仕事は休みだ。だけど日曜日の朝、私はため息をついた。
働き出してまだ二度目のお休みで、私は家でのんびりすごす予定だった。だけど、昨日の夜に自分の手帳を事務所に忘れたことに気がついた。
大体のスケジュールは覚えているし、月曜日に回収すればいいかと思っていた。
でも、そうはいかなかった。
親戚の集まりの予定を決めるために、半年後の予定を確認しなくてはいけなくなった。親からは早く返事をするように急かされる。それから大学の後輩に頼まれて、少し歳の離れた先輩の連絡先が必要になった。だけど親しい先輩ではないから、その人の連絡先をスマホに保存していない。手帳にメモしたのは覚えている。
つまり、手帳に書いてある情報がどうしても必要になってしまったのだ。
そんなこんなで日曜日の午前に私は事務所へと出かける羽目になってしまった。
特に予定があるわけでもないのに、職場に行くのは気が進まない。
だけど用事はすぐに済むから、その後で買い物に行こうと思って久しぶりにワンピースを着て出てきた。
事務所の鍵は全員が持っている。誰もいないだろうから、私はそれを使ってドアを開けようとした。
「あれ?」
だけど鍵を開ける前に、ドアが開いていた。
誰か、いる?
だけど静かにドアを開いて覗くと、事務所の中は静まりかえっている。少し怖い気もして、私は音を立てない様に中に入った。
目当ての場所は私の机の引き出しの中だ。いつも机の上に出しているのに、その日に限って何かのタイミングで引き出しの中にいれてしまった。そのせいで忘れてしまったのだ。
できるだけ素早く取って帰ろう。
そう思って早足で歩きながら、誰かいるのかと焦ってしまう。事務所の人ならともかく、泥棒とかだと怖い。
自分の机までたどり着くと、私は引き出しを開けて目当てのものを取り出す。急いでバッグにしまってこれで帰れると思って玄関へと向かおうとした。
ごとり
背中で重く鈍い音がした。
大きな何かが落ちたような、倒れた様な音がする。
何かおかしいと思って、私は振り返る。だけど目の前には何もない。
怖く感じながら、事務所の中をゆっくりと見渡して歩く。事務所の奥に置いてあるソファの下に、何かが動いた。
恐る恐る私はそこへと歩いていって、そこを覗き込んだ。
「え?」
そこにあるものを見て、思わず息を呑んだ。
人が倒れていた。うつ伏せだから顔は見えないけれど、背格好から野上楓だとすぐにわかった。
「の、野上くん……?」
私は近寄って肩に手をかけると、顔を覗き込んだ。その顔が真っ白だった。
瞬間、私たちの頭の中にいやな考えが浮かんでしまった。
まさか……。
肩が動いたから、死んではいない。だけど反応がない。意識がないのかと焦る。
「野上くん?」
私はさっきより大きな声で呼びかけると、肩を揺すった。
「野上くん?大丈夫?ねえ」
返事がないから、顔を叩いたり体を叩いたりする。
「あんまり動かさない方がいいかな」
だけど返事はない。私はもう一度彼の肩を叩いた。
「野上君?」
そう言って体を揺すると、小さなうめき声がしてうっすらと目が開いた。
「あ、意識ある!」
思わずほっとしたように息を吐いた。当の野上楓はゆっくり目を開けた。
「ふ、藤沢さん?」
その黒い瞳が私を見た。
あまりにも真っ直ぐに私を見るから、私は目を逸らすことができなかった。
野上楓は私の顔を見て、弱々しいけど、でもしっかり笑った。
「……藤沢さん」
彼の右手がそっと私へと伸びる。
その手が私の顔を目掛けて伸ばされるのを、まるで魔法にかかったみたいに、私はじっと見ていた。
動けなかった。
だから、彼の手は私の頬に触れた。とても冷たい手で、その冷たさにどきりとした。
「藤沢さん」
彼はもう一度私を呼んだ。
野上楓は左肘を床につけて、それを体の支えにしながらゆっくりと体を起こした。
「の…がみく」
私が彼の名前を呼び終わる前に、彼は私の頬に添えた右手を頭の後ろに移動させて
そっと私を抱きしめた。
左手が伸びて、私の腰を捕らえた。思いの外強い力で引き寄せられる。
「え」
思わず声が出た。
私は腕を伸ばして彼を押しのけようとした。だけど力が強いから、簡単に引き剥がすなんてできなかった。
「野上く」
「藤沢さん」
野上楓はそのまま腕の力を強めて、私は慌てて彼の顔を見た。
「のが……」
野上楓は私の体を抱きしめたまま、体を起こした勢いそのままに、私を下敷きにして床に倒れ込んだ。
「え?」
私は押しつぶされて変な声を出してしまった。
顔のすぐ近くに、野上楓の顔があった。
「ちょっと」
その声に反応はなくて、静かな寝息が聞こえた。
もしかして、寝ている?
私は慌てて背中を叩いた。
「野上くん?ねえ、起きて!」
あろうことか、彼は寝ていた。
あろうことか、私を抱きしめたまま。
「ちょっと、野上くん!起きて」
私はさっきよりも強い力で彼の背中を叩いた。だけどその腕は弱ることなく私を拘束した。
私の体の上の体が重い。囲い込む腕が強い。
それだけじゃない。
その体は細身に見えて意外に大きくて、硬くて。
抱きしめられると私は彼の胸の中にすっぽりと入ってしまう。
圧倒的な体格の差があった。
色々おかしい点はあるけど、形式上は強く抱きしめられて、私は驚いて言葉を失う。
残念ながら、私にはずっと恋人と呼べる人がいなかった。
だから抱きしめられたのも、初めてだ。
こんな時なのに思わず顔が赤くなって、心臓があり得ないくらいドキドキしてしまう。
この人相手に。
だけど、人生で初めて異性に襲われたのが寝ている男性だなんて、あんまりだ。
しかも、この人、だなんて本当にあり得ない。
「ちょっと!」
私は思い切り力を込めて、背中を叩いた。
結局、野上楓を起こすまでに、私はかなりの時間を必要とした。
押しつぶされて着ていたアンピースにはシワができてしまった。
お気に入りのワンピースなのに、ついていない。