すぐ近くにいる天才
働き始めてわかったことがある。
野上楓は正真正銘の天才だった。
イラストでも文章でも映像でも、何でも人よりも上手にできてしまう。なんの苦労もせずに。
大学在学中にデザインで大きな賞をとって、それがきっかけで社長にスカウトされて鳴り物入りで入社して、大学を出たばかりだというのに、もう一人で仕事していた。
そしてその完璧な仕事ぶりに、みんなが驚いている。
新入社員じゃないみたいだ。
大学は日本で一番良いところだった。ピアノだってあんなに上手かった。噂ではスポーツもできるって聞いた。
それなのに、この仕事でもあっという間に才能を見せつけてしまう。
見た目だって、特別にいいわけではないけど、悪いわけでもない。それなりに人気があると思う。
見た目も良くて、日本で一番の大学を出ていて、ピアノも弾ける。スポーツもできる。
なんでも上手に出来る。
つまり、悪いところがない。
本当に感じが悪い。
この人は自分の希望するどんな仕事にも就けたのだ。なのに、ここにしか居場所のない私と同じ職場に来るなんて……ありえない。本当にひどい。最悪だ。
前向きになろうとしていた気持ちが、後退してしそうになる。
相性が悪い。そしてタイミングも最悪。
私と彼の間の何もかも、うまくいかない。
仕事が始まってすぐに、私は苦い思いをすることになってしまった。
事務所の朝は涼子さんによる野上楓のチェックから始まる。
「野上君、ちゃんとご飯食べた?」
「あ、朝はまだ」
「昨日の夜は?」
「えーと、食べたっけな?」
「ちゃんと食べないとだめって言ったでしょう?」
野上楓はすごい人だけど、その凄さを一番わかっていないのは本人だ。
だけど彼が自分をそう思ってしまう理由は、誰でもすぐにわかる。
彼の唯一にして最大の欠点は生活力がないことだった。
仕事が忙しければ、食事もとらずに寝ずに泊まり込みで仕事をする。きちんとすればそれなりの見た目なのに、放っておけば髭は伸びて、髪の毛も寝ぐせがついたまま夜まで過ごしている。
ほとんど家には帰っていないと思う。あまりにも事務所に泊まるので、いつの間にか事務所の仮眠室は彼の部屋のようになってしまった。今まで大して使われていなかった事務所の洗濯機は、野上楓のためにほぼ毎日稼働している。
だけどそれをみんなが自然に受け入れて、むしろ彼のペースに合わせている気がする。
働き出してまだ1か月にもなっていないのに、やっぱり彼は世界の中心だった。
涼子さんの食事チェックはそのまま身だしなみチェックに入る。
「お風呂は?」
「まだです」
そういう野上楓の髪にはしっかりと寝癖がついている。
「楓、寝癖すごいぞ」
「え、あ、すみません」
見かねたような本田さんの声に、野上楓は急いで手櫛で髪を整えようとする。だけどそんなもので直せる様なものではない。
涼子さんが苦笑いした。
「だめね、早くお風呂入って」
「あ、ですかね?」
ぼんやりとした返事に、涼子さんは黙ってお風呂を指さした。
だけど、彼のそんな力が抜けている部分が、嫌味なくらい完璧な野上楓を憎めない人間にしている気がした。
才能があるくせに、それを自慢するでもない。
ちょっと頼りなくて、この人を一人にしたらいけないと、目が離せなくなってしまう。
彼のことをみんなが優しく見守っている気がした。みんなが彼を好きだと思う。
多分私以外は。
私だけが、彼に優しくできていない。
心が開けない。
笑って話したり、ましてや仲良く一緒に仕事する、なんて。
絶対にできない自信がある。
台所でコーヒーの準備をしていると、野上楓の世話を焼き終えた涼子さんがやってきた。
「本当、楓くんって子供みたいね」
そう言いながらも楽しそうだ。
「涼子さんは面倒見がいいですね」
「そうかな。なんか楓くんって目が離せなくて」
弟みたいっていうのかしら。そう言って笑った。
それから私の方を振り返る。
「私が休みに入ったら、美波ちゃんが面倒見てあげてね」
え、と私は笑顔をひきつらせた。
涼子さんみたいに野上楓の世話をするなんて、想像もできない。断固拒否だ。
「私、そういうの向かないです」
「そうかな?」
「無理です」
私のそっけない返事に涼子さんは苦笑いした。
「楓くん、一人だとヨレヨレのままになっちゃうから」
「彼女とかにやって貰えばいいんじゃないですか?」
少し投げやりに言うと、涼子さんはそれを笑い飛ばした。
「彼女はいないんだって」
そう言って私を見た。
「そうなんです、か」
それ以上はなんとも言えない。涼子さんはコーヒー用のカップを並べながら私を見た。
「ずっと気になっている子がいるんだって」
「はあ……」
返事のしようがなくて、私は言葉を濁した。
野上楓に、好きな人がいる。
それはどうでもいいことのはずなのに、なぜだか心に残った。
私の知らない学生時代の彼は、どんな人を好きになったのだろう。どんな人と付き合ったのだろう。
どうでもいいと思いながら、彼の隣にいる女性を想像してしまう。
だけど、そんなの意味がないと思い立って、首を振る。
「じゃあ、コーヒー持っていきます」
そう言って事務所に戻ってコーヒーを配った。
キッチンの片付けをしていると、野上楓がシャワーから出て、顔を出した。
背の高い彼はいつも猫背でゆっくり歩いてくる。コーヒーを渡そうとすると
「ここで飲んでいい?」
と問いかけた。まだ少し濡れた長めの前髪の下から、黒い瞳が私を見ている。
あの時と同じ、黒い瞳。
あの時と違うのは、今はこの人の背が私より高くなって、じっと私を見降ろしていること。
「あ、うん」
テーブルの上にコーヒーを置くと、野上楓は椅子に座った。この人はいつもミルクを入れる事を思い出して、冷蔵庫から牛乳を取り出して体の向きを変えると、すぐ目の前に白いシャツが見えて、あわてて後ろに後ずさった。
「わ」
私は思いきり野上楓にぶつかってしまった。
「ご、ごめん」
野上楓も体を逸らせる。右腕を伸ばして、私の左肩に触れた。
彼の手が触れた瞬間体がこわばった。それが伝わったのか、野上楓が素早く手を離して、ごめんともう一度謝った。
「ごめん、私も驚きすぎた」
私も俯いたまま謝る。そのまま彼は私から体を離して
「ありがとう」
私の手から牛乳を受け取ると、椅子に座った。
彼がコーヒーを飲むのを、私は呼吸を整えながらじっと見ていた。
私の前で、野上楓は静かにコーヒーを飲んでいた。ぼんやり見ていたら、視線を上げた野上楓と目があった。
視線があって猛烈に気まずくて、私はキッチンから逃げる事にした。
体の向きを変えた時、
「行くの?」
声がかかって振り返ると野上楓が私を見ていた。
その目がなんとなく、私にここにいて欲しいと言っているように思えてしまった。だけどすぐに、その考えを払う。
話すこともないし、楽しくお茶をする理由もないし、そうしたいとも思っていない。
断ろうとして彼の顔を見て、私は言葉に詰まる。
野上楓の困ったような黒い瞳が私を見ていた。
私はこの目で見られると、どうしてだかきっぱり断ることができない。
初めて会った時と同じだ。子犬みたいに無邪気な瞳で見ないでほしい。
この目に本当に弱い。
「お菓子、出そうか?」
結局、口から出たのはそんな言葉だった。
それを聞いて野上楓は表情を緩めた。
「うん、食べる」
うちの社長が甘いもの好きだから事務所にはお菓子がたくさんある。その中から焼き菓子を選んで箱を開けて野上楓の前に出すと、野上楓は一つ取り出して、まず私に渡した。
「はい」
差し出されたそれを、私は信じられない思いでじっと見つめてしまった。
私にくれるとは思わなくて、じっと見ていると、
「はい」
私が戸惑っていると思ったのか、野上楓はさらに私の前にそれを出す。
ゆっくりと手を伸ばしてそれを受け取ると、野上楓は今度こそ自分の分を取り出した。
私はもう一度手の中のお菓子に視線を落とす。
一緒に食べる?ってこと?そう心の中で問いかけて、即座に否定する。
いや、それはない。絶対に、ない。
心の中で決めると、私はそれを手にしたままドアへ向かう。
「藤沢さん、行くの?」
私は野上楓の方を見ないで、返事した。
「うん、仕事あるから」
「そう…」
このせいか元気のない声が聞こえた。視界の端に白いシャツが見えて、それからも目を逸らす。
野上楓はまた子犬のような目で私を見るから、自分がとても彼を傷つけている気がしてしまう。
私は小さく息を吐いて呼吸を整えると
「先に行くね」
そう言い残して出た。
事務所に戻ると涼子さんも驚いた顔をした。
「あれ、楓君は?」
「まだお茶飲んでます」
「それくらいつきあってあげればいいのに」
涼子さんは私を見て苦笑いした。
「美波ちゃんは楓君にはそっけないのね」
そう言われてぎくりとした。
私たちの間にあった事なんて、私と彼しか知らない。だから今の言葉に深い意味はないとわかっていても気まずい。
黙っていると、涼子さんの声が降ってきた。
「同期なんだし、よく話した方が仕事もやりやすくなるよ」
私は笑った。なんでもなく笑っているように見えるように、ふるまう。
「野上くんはデザイナーで私とは立場も違うし、気軽に仲良くできないです」
だけど、そうやって笑うのはやっぱり少し抵抗があった。
仕事を始めて3週間。さっきの会話が、私たちの会話最長記録だ。
もともと野上楓は無口だし、私が接触を避けているから話すこともほとんどない。
この事務所で彼と再会した時、私は彼と初対面であるように振る舞った。野上楓は無表情のまま、強いていうなら少しだけ目を見開いた。
ほんの少し。でも、それだけだった。
私の「初めまして」を向こうも訂正しなかった。
私たちの問題なんて、実際には私しか覚えていない。
だって、野上楓にとっては私の事なんて、なんでもないことなのだ。
かなり昔にコンクールで一度会っただけの人間や、塾ですれ違った程度の人の名前なんて覚えていないだろう。
成績を競い合ったライバルならともかく、彼の完全勝利だったのだから、覚えていなくて当然だ。
そう思っていても、いざその事実を知るとそれはそれでショックだ。
自分勝手だけど、少しくらい覚えてくれていても、と言う気持ちになってしまう。
自分がちっぽけな人間だと思い知らされる。
彼は天才だ。
彼からしたら私なんて、ほんのわずかな合間、追い越す瞬間にだけ視線を向けるだけの存在だ。
天才は追い抜いたたくさんの人間を、覚えている必要はない。
ただ、前だけを向いていればいいのだ。
だけど追い抜かされた人間は、その後ろ姿をいつまでも忘れられない。
忘れられないのは、いつだって、追い抜かされた方なのだ。