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世界で一番相性の悪い人  作者: 史音
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最悪の再会

人と競うことを逃げ続けた結果、私には何事からも逃げる癖がついてしまった。


そのせいか困ったのは就職活動だった。どこも内定が取れず、苦戦した。

確かに特別成績がいいわけでも、資格もない、ゼミや部活でリーダーシップを発揮するでもない、無いものづくしの人間を積極的に取るところなんてない。


このまま行ったら、就職できないかも。

そんな不安に押しつぶされそうな時、知り合いの紹介で就職先が決まった。


それは東京の小さなデザイン事務所の事務職だった。

デザイナーが二人と事務が一人の小さな職場で、大手ではないけど、その業界では有名なところらしい。

幅広くいろんな仕事を手がけているらしく、そこの社長がつくった過去の作品を聞いたら、以前テレビや雑誌でよく見た物だった。

父の大学の友人が、そこの創業者兼社長兼筆頭デザイナーの指導者で、その縁でやって来た話だった。


そこの社長の奥様が事務職をやっていたけれど、妊娠されて産休に入るとなって急ぎ代理を探していたらしい。

大手ではないから給料がいいわけではない。事務職と言っても、ほとんど雑用ばかりということで、紹介してくれた人は申し訳なさそうにしていた。

コネといえばコネだけど、仕事を選べる状況でもない。私は飛びつくようにその申し出を受けた。



就職が決まった時、家族でささやかなお祝いの会をした。

「本当によかったわね」

母はそう言って安心したように笑い、そして父も同じように笑う。

「美波ちゃん、仕事落ち着いたら、また、初めて見たら?」

母はそう言ってリビングの隅に置いたままのピアノを見る。

あれ以来弾いていないピアノは、もう何年も蓋すら開けられていない。だけどそれを綺麗にしてくれているのは母だ。


母は私がピアノを弾くのが好きだったから。


だけど、私は首を横に振った。

「もう、捨てちゃおうよ。ピアノ」

何年も目を逸らし続けたそれを、私は横目に見る。

「どうせもう弾けないし、弾くことないから」


実は、あれ以来私はピアノをちゃんと見ることができなかった。

ピアノは輝いていた私の象徴で、見ることも、ましてや弾くことも、まだ、とても辛い。


母は少しうつむいた。

「お母さん、美波ちゃんのピアノ、好きだったのよ」

まだ物言いたげな母を、隣に座った父がさりげなく止めた。私は二人に向かって笑いかけた。

「まずは仕事がきちんとできるようにならないとね」

その言葉に、両親はほっとしたように顔を見合わせた。


一つだけ、心に決めていることがある。


当たり前だけど、仕事にはしっかり取り組むつもりだ。

それ以外にも、何かやりたいものが見つかったら、やってみようと思っている。


逃げてばかりいたけど、私はまだ頑張れるはずだ。

頑張りたい。素直にそんな気持ちが湧き上がっている。

「仕事、頑張るね」

そう言って、私は笑った。



***


「藤沢美波です。よろしくお願いします」

勤務初日、私はこの事務所の社長兼デザイナーに挨拶した。

「よろしくね。美波ちゃん」

社長はメガネをかけた顔立ちのはっきりした男の人だった。社長だけど長袖のシャツにパンツというラフなスタイルだった。隣の奥様も綺麗な人で、ボーダーのシャツにロングスカートというシンプルな格好が似あっていた。

「やっぱり、最初はスーツだよね」

リクルートスーツを着てきた私を見て、社長が笑った。

個人事務所だからか、デザイン事務所だからか、二人ともラフな格好だった。初出勤だからリクルートスーツ、なんて形に拘らなくてよかったのだと思う。


そのあとは奥様に連れられて小さな事務所内を案内してもらう。

マンションの一室を使っているその事務所は広く、社長室の他に、デザイナーや私たちが全員集まって仕事をする大きな部屋がある。

デザイナー用のデスクに奥様用のデスクが並んでいて、隣にある何もない机はきっと私のものだろう。

それを見て仕事が始まる自覚が湧いた。


事務所には他に小さな台所とバスルームに仮眠室もあった。

「締め切り前とか煮詰まった時とか、泊まり込むこともあるの」

「そうなんですね」

やっぱり忙しいんだな、と思っていると、涼子さんは笑った。


「忙しい時もあるけど、仕事がないと暇なの。今は軌道にのったけど、立ち上げてすぐの頃は大変だったのよ」

社長が賞をとって、仕事の依頼がくるようになる前は大変だった、と笑った。

話しながらフロアに戻ると、もう一人が出社してきた。その人も私のリクルートスーツに、驚いた顔をする。


本田さんと名乗ったその人は、短髪で笑顔が印象的な人だった。とても楽しそうに笑う。

その本田さんも私を見て

「久しぶりに見た、リクルートスーツ」

そう言って懐かしいーと笑った。

会った人みんなにからかわれて、明日からは私もラフな格好で来ようと心に決める。

恥ずかしすぎる。


涼子さんはデスクに戻ると業務の説明を始める。

「あとはみんなの体調や様子にも注意してね」

「え?」

「健康管理。実は一番大事なの。夢中になると食事しない人もいるから、そこも気をつけて声をかけてね」

そう言って涼子さんは本田さんを見た。

「本田くんも熱中すると食べないもんね」

声をかけられた本田さんは苦笑いする。

「涼子さんはみんなのお母さんみたいな感じだから、美波ちゃんもそんな感じでよろしく」

困ったように、でも明るく笑うから、ついこっちも笑顔になる。

特に歳も近そうな本田さんは明るいし、話しやすそうだとほっとする。


だけど驚いたのは、今日が初対面だというのに、皆んなが気軽に下の名前で呼ぶことだ。きっとここでは普通なのだと思いながらもドキドキする自分を反省する。


「あれ?」


私は事務所を見渡して声を出した。

事前に聞いていたのは、デザイナー二人と、事務の奥様と私。4人の職場になるはずだ。

だけどフロアにはもう一つ、机が置いてある。

もうすでに荷物が置かれていて、明らかに仕事中、って感じだ。

社長は社長室で働いているみたいだけど、こっちで仕事する時に使うのかな。じっと見ていると、涼子さんが私を見た。


「あ、そうそう。実はもう一人いるの」

「え?」

「美波ちゃんの他に、新入社員がいるの」

涼子さんは嬉しそうに笑った。

「もうひとり。新しくデザイナーを雇ったの」

まずは見習いなんだけどね、才能があるの、と涼子さんは言って、私を見た。

「そうだ、美波ちゃんの同級生だった。よかったね、同期がいて」

「そうですね」

年上ばかりの職場で、同じ歳の人がいるって心強い。


だけど、いきなりデザイナーなんて、かなり期待されていると思う。どんな人だろうと私はまだ持ち主のいない机を見つめる。

「あれ、でも時間…」

時計は10時をさしていて、通常の出勤時間をすでにすぎている。

そんな私の様子を見て、涼子さんは苦笑いした。


「彼は3月の頃から仕事を始めてて、昨日も遅くまで仕事してたのかな」

そう言って時計を見た。

「多分、そろそろ来ると思うけど」


ちょうどその時、玄関が開く音がした。

「あ、来たわね」

私は玄関の方へ顔を向けた。


ゆっくり歩いてくる音がして、ドアが開いた。

部屋に入ってきた人は、私を見て立ち止まった。

私は驚いて、思わず息を飲んだ。



年月が経って、背が伸びて、体つきが変わって、雰囲気が大人の物に変わっていた。

だけど、前髪から除く黒い瞳とか、その目が驚いたように丸くなった時の表情とか、

初めて会った時や、中学の時や、そのあと記事で見た彼と、同じだった。


もう会わないと思っていた、会いたくないと思っていた、野上楓だった。


涼子さんが笑って彼に話しかける。それを小さく頭を下げて聞きながら返事する。

「美波ちゃん、彼がね、さっき言っていたもう一人の新入社員」

そして今度は彼に向き直った。

「彼女ね。新しい事務の藤沢さん」


明るい周りの雰囲気とは別に、私たちの間の空気は凍ったようだった。少なくても私はそう感じた。

涼子さんがそんな私たちの顔を交互に見て、何かを察したのか戸惑ったような声を出した。

「あら、二人、知り合い?」


その瞬間、彼と視線があって、だけど私はそれをすぐに逸らせた。

私は小さく、だけどしっかりと首を横に振った。

そして野上楓に向ってお辞儀する。頭を上げると彼が何かを話す前に口を開いた。


「初めまして。藤沢美波です。よろしくお願いします」


目の前の彼は、静かに私をみていた。その顔は驚いているのか、それとも何も考えていないのかわからない。


「よろしくお願いします」

私は一息にそう言って、もう一度頭を下げた。


それが私と世界一相性の悪い相手との、再会だった。


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