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皇帝陛下に偽りの花嫁を  作者: 桃谷しろ
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第二話



 王宮からそう遠くない街中に、サングース侯爵家の館はある。

 何代か前の祖先が皇帝に(たま)わり、都に滞在する際に使うため整えたものだ。建物は古いがよく手入れされていて不便はない。婚儀の後はここが皇后の実家(さと)として使われることになる。


「あの、アリエノール様」

 戸惑うようなフィリスの声に、私はにっこり笑ってふり向いた。

「アリエノールはあなた。私はフィリス」

 白磁の大きな花瓶に生けたばかりの紅の薔薇を、一輪だけ引き抜いて彼女の鼻先に差し出す。

「ほら、いい香りだと思わない? さすが皇帝陛下よね」

 今朝、婚約者殿にと届けられた贈り物の薔薇は、花弁が分厚く立派で、匂いも濃厚だった。辺境に咲くのはこんな洗練された大ぶりな花ではなく、もっと野性的な見た目でひかえめな香りの小さな薔薇ばかりだ。

「ええ、確かにいい香りですが、あなた様がいけたのです?」

「もちろん」

「この館にいる時まで侍女の真似などしなくとも……」

 フィリスは眉根をよせて私を見た。

 彼女はまだ白い寝間着のままだが、私はもう侍女らしく普段着のドレスを身に着けている。

「婚儀が済んで宮殿で暮らすことになったら、私は皇后つきの侍女として働くことになるのよ。今から慣れておかなきゃ、急にはできないわよ。今日から教えてちょうだい」

 同い年のフィリスが今までこなしていた仕事は、誰よりそばにいたのだからよく見知っているが、教えてもらわなければできないことも少なくないかもしれない。なにしろ私は、ほんのささいな身のまわりのことすら自分でやったことがないのだ。

「あと名前のことだけど、うっかり人前で出ちゃうとまずいから、これからは私のことをアリエノールと呼んではだめ」

「それについては(つと)めることにいたします」

 フィリスは私をじっと見て、それから気を取り直したように動き出した。

「では、フィリス。まずはひとつ、知っていただきたいことがあります。私は侍女として長年お仕えしてきましたが、これでも貴族の出ですので、細々とした仕事は下働きの者に命じてやらせるのです。たとえば、この花も自分でいけるのではなく、こういうふうにしてくるようにと命じまして、それを受け取って、ほどよく整えて場所を決めて置くのが私の仕事です」

「え、そうなの?」

「朝のお支度を調(ととの)えるときも、お湯や水差しなどは下の者に命じて部屋の前まで持ってこさせるのです。(くし)やお化粧品なども手配はいたしますが、自分で買い求めに行くわけではありません」

「知らなかったわ。みんなあなたがしてくれているのだとばかり思ってた」

「この手をご覧ください」

 フィリスはすんなり華奢な白い手を私の前に突き出した。

「あなた様の手と変わりありませんでしょう?」

 たしかに同じように白くてきれいな手だ。

「もし水仕事や雑用をこなしていたら、こんな手ではいられません。後でメイドや料理人の手と比べて見てみれば、よくおわかりになれますよ」

 これまで使用人の仕事に興味を持ったことはない。何か必要なら身近な者に言いつければいいと思っていて、何が誰の仕事だなどと区別して考えたこともない。

「なるほど。私は目にうつるものに気を留めず、ちゃんと見ていなかったようだわ。父上がよく口にする、(あるじ)たるもの下々への目配りを忘れてはいけない、という言葉はこういうことをいうのね」

 今ごろ理解したってしょうがないが、それでもわからないままでいるよりは良いだろう。侍女として生きていくうえで役に立つこともあるかもしれない。

「今後は私が必要なものが何かを教えるから、あなたは場面場面でそれを誰に命じてやらせればいいか教えて。少しずつでも覚えていけば、そのうちお互い役割になじむはず」

「そうですね」

 フィリスは深刻な面持ちで私をじっと見た。

「もう後戻りはできません。皇帝陛下に目見(まみ)えてしまった今となっては……」

「ええ。あなたには無茶な頼みをしてしまったけれど、陛下が良さそうな方でほっとしたわ」

 もし肖像画とは似ても似つかない、床を共にするのに勇気がいるような男だったらと案じていたが、陛下の見目はなかなか麗しいものだった。落ち着いた物腰にも頼もしさが感じられ、フィリスを差し出さねばならない相手として、とりあえず今のところ不足はないと思う。

「あなた様のためだけではありません。私たちの故郷である辺境サングースを守るため、侯爵様にお仕えする我が父、我が一族のためでもあります」

 フィリスの物言いは、私が心苦しい思いをしなくて済むように配慮したものだろう。彼女とは年端もいかない頃からの長いつきあいで、心を許し合った親友でもある。

「私は侍女として、あなたを支えるわ。一生そばにいる。一人にはしないわ……約束よ」

 私たちは手を取り合い、しっかりうなずきあった。



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