第一話
「アリエノール」
その御方は満面の笑みを浮かべて名を呼んだ。
「よく参られた。待ちわびておりましたぞ」
愛しげな眼差しで、未来の花嫁を見つめている。
「陛下」
言葉少なにうやうやしくお辞儀をして、控えめに微笑み返したのは、私の前に立つ少女。
「恐れ多ございます……」
私は顔を伏せたまま、次に言うべきセリフを小声でささやく。すると、隣りの彼女はほっとしたように口をひらいた。
「恐れ多ございます。到着が予定より大幅に遅れましたこと、おわび申し上げます」
「なに、責めているのではない。旅の途中で体調を崩したと聞いたときは心配したが、もうすっかり良いのだな? 顔色も悪くなく安心したぞ」
つい先ごろ皇帝となったばかりの青年は鷹揚に笑い、玉座から立ち上がった。
「サングース侯爵、まことに大儀であった。我が父の葬儀に駆けつけ朕の即位に立ち会い、今また娘御を伴って参られた。この数か月で二度も都に呼びつけることとなり、重い負担をかけてしまった。今週はみだりに呼びつけたりせぬゆえ、ゆるりと楽に過ごして長旅の疲れを癒してもらいたい」
若き皇帝は堂々とした身のこなしで段上から降りてきて、私の父と握手を交わした。
父はこの帝国の辺境に領地をかまえる侯爵で、皇家より古い家系を誇る者だ。臣下として皇帝に仕える身だが、異国との境を数百年護り続けてきた軍事力と、広大な領地の肥沃さ、交易による富の莫大さなど、どれをとっても帝国随一の財を持っている。サングースの代々の当主は大きな権限を与えられていながら、他の貴族領主たちのように首都で政治に関わることをしない。辺境において異国から帝国の領土を護ることが、最大の務めであるからだ。
帝国を統治しているとはいえ、皇帝個人が持つ資産はそう多くはない。いずれは女侯爵として父の持つすべてを継ぐアリエノール・ド・サングースとの結婚は、皇帝にとって極めて重要なことである。
この後、宮廷内でひらかれる予定の晩餐会と舞踏会は、サングース侯爵とその令嬢を歓迎する催しであり、すでに多くの貴族が参内しているようだ。皇帝に案内されるような形で廊下に出ると、きらびやかに着飾った男女があちらこちらに固まって談笑していた。
会話しながら歩く皇帝と侯爵に私たちも続き、そのあとをぞろぞろと追うように人々がついて来る。ちらっとふり返ってみると、それはなかなか滑稽な光景でもあった。
「アリエノール様」
私は扇子で口元を隠しながら、小声で話しかけた。
「後ろ見て。羊の行列みたい」
「……よくそんな余裕ありますね」
彼女は蒼白で生まじめな顔を向けてきた。私を真似て扇子で口元を隠すと、小さくため息を吐く。
「緊張なさってますのね」
まわりにうっすら聞こえるぐらいの微妙なトーンで言い、なだめるように肩をさする。
「初々しくて可愛らしいわね」
「まだ幼くていらっしゃるのかしら」
誰かはわからないが、後方からそんな会話が聞こえてきた。皇帝の花嫁になる女を、みんなが観察している。うかつなことは言えないなとあらためて思った。
侯爵令嬢アリエノールは少し震えていた。
「大丈夫よ、私がついているわ。さ、胸を張って笑って」
まわりに聞こえないようにささやく。
「ええ……頼りにしているわ、フィリス」
指示通り、青い顔に無理やり笑みを浮かべ、彼女は自分の本当の名前で私を呼んだ。