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捧げもの

わすれもの

作者: 井川林檎

毎年、秋のはじめには、なんとなく寂しい気持ちを味わいます。

 さざ波のようだ。

 寄せては引く頭痛のことを、わたしはそう思う。

 テーブルに肘をつき、手の平に体の微熱を感じる。


 直線的で無色透明だった日差しは、色味を帯びて斜めになり、季節は移ろうとしていた。

 毎年この時期は、なにか寂しく思う。大事なものを忘れてきたような気がする。


 仕事は忙しい。


 毎日、必死で体を動かして、人の足りなさを埋めている。

 一人が二人分の働きをして、やっとなんとか一日を切り抜ける。みんな喘いでいる。

 粘るような汗をアルコールで拭って、琥珀色の茶を飲み干し、暑いね暑いねと言い合う。そうして毎日が過ぎて行く。

 たまの休みは晴れだったり雨だったり。家族と休みが合ったり合わなかったり。

 



 今年は何度、海を見に行けただろうと、痛む頭で思い返し、数えてみる。

 一回、二回――良かった、それなりに行けている。


 小さくて湿った子供の掌を握って堤防を歩いたら、振り払って走り出された。ざんぶざんぶと波が押し寄せて、空はどこまでも青かった。

 二つに束ねた髪の毛が、うさぎの耳のように跳ねている。

 

 「待ちなさい」

 と、追いかけると、うさぎは大喜びで逃げた。アリスみたいだ――そらそこに、穴ぼこがあるよ――けつまづいた子供は、泣かなかった。

 

 ひまわりのついた麦わら帽子も買ってやった。

 花柄のサンドレス。赤いサンダル。

 髪の毛は七五三のために伸ばしているけれど、写真撮影が終わったら、少しだけ短くしてやろう。

 

 「マーマー、ねこちゃんのリボンつけて」


 新しいヘアゴムと水着。

 振り向く笑顔はどんどん大人びてゆき、夏が終わる頃には生意気を言うようにもなった。

 何でも吸収する。だけど消化には時間がかかる。未消化のままの言葉を口にするから、ちぐはぐでおかしいことになる。


 「マーマー、お葬式」

 



 祖母が亡くなり、夏は終わった。

 子にとっては曾祖母である。突然だった。

 慌てて喪服を用意し、子には黒のワンピースを買った。

 お姫様みたいと、うさぎのように束ねた髪の毛を跳ねさせて、子は喜んだ。葬儀が終わった後も、黒いの着て保育園に行くとせがまれた。


 祖母は笑っているだろうな。

 子が赤ちゃんの頃、膝の上に抱っこしてくれた祖母である。

 頭痛を堪えながら、窓越しに空を見上げる。薄雲がかかる甘い色。遠くでトラクターの音が聞こえる。


 子は時間をじっくりかけて、得たものを消化させて大人になってゆく。

 いつかはママも逝く。そうなるまでに、あの子は何度、黒い服を着ることになるのだろう。


 

 頭痛が寄せては引く。

 ざざん、ざざん。

 頭の中には、眩しい夏の海がある。

 堤防の上をかけてゆく、幼い子のサンドレス。笑う高い声音は、スパンコールのビーズみたい。

 

 きらきらとしていて、湿っていて、懐かしくて、鮮やかだ。

 どれも、これもが。死に顔や、線香の匂いすら。



 夏の忘れ物は取り返すことができない。

 そうして、夏を過ごす度、ひとつずつ忘れ物を重ねて年月が過ぎるのだろう。

 

 黄色いサンドレスも、祖母の死も、みんな今年の夏の中だ。

 引き換えに、夏はわたしに、夏風邪というお土産をくれたらしい。

 

 頭痛薬を飲み下し、立ち上がって伸びをする。ペットボトルをパソコンデスクに置くと、お茶が琥珀の影を落とした。


 ゆらゆらと。


 もう秋だ。

 (さあ、仕事に戻らねば)

生きている限り、そのわすれものは、取り戻せない。


この作品は、尊敬する九藤朋さんに捧げます。

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― 新着の感想 ―
[一言] 九藤さんの企画を知り、読みました。 かすかな寂しさが夏の陽射しと潮風に溶けて、切ない気持ちにさせられました。「いま」に結実した「これまで」が、「これから」に繋がっていく。どうしようもなく流れ…
[良い点]  ふと思い出す過去の情景。わたしにもあったかも知れない追憶。  幼い子、見送った祖母への想い。振り返るあの日。  でもこの子もわたしも現在と未来を生きて行く。  懐かしい気持ちになりました…
[良い点] 琥珀の影が、九藤のまなうらでも揺らめくようです。少し寂しく、もの悲しい調べを聴いた心地でいます。秋は過ぎゆくものを思わせる季節なのかもしれません。淡々とした、けれど必死な日常の中で、心の箱…
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