執着の部屋
閑散とした街並みを北風が吹き抜ける。
袖が擦り切れてきたジャケットの襟を立てて、俺は寒さをしのいだ。
パチンコ店からの帰り道。しこたま負けて意固地になった心が世の中を罵倒する。
こんな生活で良いのだろうか……そうは思うが、アラフォーの俺に小説を書く以外の能力はない。きつくて嫌な仕事なら、それなりに稼げるのだが将来は売れっ子小説家になるのだという夢とプライドがそういった底辺の仕事に就くことを邪魔する。
交差点の赤信号で歩みを止める。
ショーウィンドウを見ると、ガラスに映っているのは髪がぼさぼさの根が暗そうな小太りの男。俺はため息をついて自分の姿から目をそむけた。
くもり空、雪でも降ってきそうな寒さだ。
長い赤信号を待っていると、右から女が横断歩道を渡ってきた。
ベージュ色で品が良いロングコートを着た女は俺の前で立ち止まる。
「あれー。タカシ君じゃない?」
短めの髪に少しウェーブパーマをかけている。涼しげな瞳が印象的で親しみやすい感じの美人。
「恵子か……」
俺に女性の知り合いは少ない。心の中の人物帳を検索するまでもなく、それは恵子だった。心臓の動きが激しくなった。たぶん顔も上気しているだろう。
「久しぶりねえ。今は何をやっているの」
「今か……今もまだ文章で食ってるよ」
嘘をついた。小説を書いて生活しているなどありえない。工場のアルバイトをやって生活費をなんとか稼いでいる。
「ふーん。まだ夢を追っているんだ。タカシ君は……」
笑顔だが疑念と憐みのようなものが含まれている気がする。
「まあね。俺にはこれしかないから」
そう、と言って恵子は目をそらした。昔を思い出しているのだろうか。
彼女が黙り込んだので、俺も口を閉じて昔の思い出を脳裏に再現した。
8年前。俺と恵子は同棲していた。
ままごとだったのかな……今から思うとそのような幼稚な生活だった。好きだ……それだけで一緒に住み始めた八畳一間の木造アパート。
西向きの薄暗い部屋で、俺はパソコンと向き合う毎日だった。
「ねえ、働かないのぉ」
恵子はハンドバッグを俺の後頭部にこつんと当てる。
夕日が射しこんでいる狭い部屋。少し色のあせたブラウス。新しい服を買う余裕がない。
「働いているじゃないかよ」
パソコンの前にあぐらをかいて座っている俺は振り返って毒づくように答えた。
「そんなんじゃ、月に1万円も入ってこないでしょ」
見下げるように立っている恵子はレジ打ちのパートに出かけるために薄く化粧をしている。人懐っこい感じの可愛い顔に生活の苦労が影を差していた。
俺はパソコンに向き直り、ネットライティングの文章を打ち始めた。他人のブログ用のもので、400文字以上書くと32円入ってくるという小銭稼ぎ。
「将来のこととか考えているわけぇ?」
彼女の言葉は耳に痛い。早く出て行ってもらいたかった。
「応募している小説が入選すれば金が入ってくるさ」
「そんなこと言って、もう何回落選しているのよ」
応募した小説は二次選考ですべて落とされていた。たまに一次選考にも引っかからないことがある。
「大器晩成っていうだろ」
無理に笑顔を作って振り返ったが、彼女の硬い表情は緩まない。俺は口を結んでパソコンに向き直った。
「夢をあきらめたくないんだよ」
いつものセリフを口にした。付きあった当初なら、まあカッコいいわ、と言ってくれたのだが、今は無言の圧力を俺の背中に押し付けるだけ。
「違うでしょ……」
感情のこもっていない言葉。
「あなたは夢を追いかけているんじゃなくて、夢に逃げ込んでいるのよ。会社で働くことが怖いんだわ」
キーボードに入力している手が止まる。
「職場での人間関係や、厄介な仕事をこなすのが怖くて仕方がないのよ。そうやって現実から逃げているから生活が落ち込んでいくんだわ」
背筋に悪寒が走った。認めたくなかったが図星だった。
「ねえ、今からでもやり直しましょうよ。派遣でもいいから定職に就いて生活を立て直しましょう……ねっ」
肩に恵子の優しい手が置かれていた。
「うるさい……」
「えっ?」
「うるさいんだよ! おまえ」
勢いよく振り返った俺の顔は怒りの表情になっていたのだろう。彼女は後ろに下がった。うるさいという言葉は今の俺に便利なセリフ。
「俺は小説家になりたいんだよ! お前は恋人なんだから協力してくれてもいいだろ」
彼女は目を見開いておびえた表情。
「でも、小説で食べていける人なんか一握りなのよ。あなたがその中に入る自信があるの?」
「あるさ!」
根拠のないつっぱり。
「無理よ。あなたには才能がないのよ」
頭の中が空白になった。
「学生のころから小説を書いていて芽が出ないんだったら、それは才能がなかったということなのよ」
優しい彼女がここまで言うのは、よほど精神的に追い詰められているからだろう。
しかし、恵子の心情を推し量るには頭に血が上り過ぎていた。
「このやろう!」
勢いよく立ちあがって右手を上げていた。恵子は反射的にハンドバッグで顔をかばう。
ハッとして手を止める。俺は何をしようとしているのだろう。女を殴るなど最低な行為だと普段は軽蔑していたのだが、俺は今、恵子を殴ろうとしている。
しばらくの沈黙の後、恵子はハンカチで涙を拭きながらアパートを出て行った。
俺は苦い物を呑み込んだように、顔をゆがめて部屋にたたずむ。
それから数日後、簡単な書き置きを残して恵子は閉塞の部屋から逃げて行った。
寒い風が吹き抜ける交差点。
八年ぶりに会った恵子は以前と同じように優しい目をしていた。
「もしかして、まだあのアパートに住んでいるの?」
俺は少し迷ってから答える。
「いや、ずっと前に他の所に引っ越してしまったよ」
また嘘をついた。以前の部屋に以前と同じように住んでいる。
「そう……なの」
少し残念そうだ。もしかして彼女は俺がずっと、あの部屋で待っていることを期待しているのか。
心臓が苦しいほどに鼓動する。言ってしまおうか。
「もし、良かったら、また俺と……」
彼女の目が大きく開く。このまま言葉を続ければ幸せが待っているような気がする。
「ママー!」
そのとき、女の子が駆け寄ってきて恵子のロングコートにしがみつく。恵子によく似た可愛い子だった。フード付きの赤いコートを着た女の子は犯罪者を見るような目で俺の方をうかがう。
「ママー、このおじさん誰?」
彼女はにこやかに笑いながら頭をなでる。さっきの俺の言葉は意に介していないよう。
「この人はママのお友だちよ。挨拶なさい」
女の子は上目づかいで軽く頭を下げる。俺はいたたまれなくなった。
言わなければよかった。恥ずかしさと後悔をごまかすために俺は必死に作り笑いを浮かべて、女の子の目線の高さにしゃがんだ。
「可愛いね。いくつ?」
小さな右手を出して指を広げる。
「五歳か……そうか」
恵子の左手を見てみると結婚指輪。早く逃げ出したい。
「じゃあ、俺はこれで……」
立ち上がって逃げる準備。
「ええ、タカシさんも頑張ってね」
笑顔を見せて軽く手を振った。頑張ってね、という言葉は彼女にとって便利なセリフだろう。
「ああ、じゃあ、さようなら」
今度こそ本当のさようならだ。もう二度と会いたくない。
俺は早足で自分のねぐらに向かっていった。
自分の部屋に帰って、コタツに入った。
スイッチも入れずに冷たい部屋で壁を見つめる。
そうか、彼女は結婚していたのか。そりゃそうだよな。あれから8年もたつのだから子どもがいても不思議ではないよな。
今まで自分を支えていた希望のようなものが崩れる。胸に熱いものが込み上げてきて、涙がこぼれた。
俺は恵子が戻ってくるのを願っていたのだ。ずっとこのアパートに住んでいるのも、彼女と一緒の生活が戻ってくるのを期待していたから。
どうしてこうなってしまったんだろう。どこで道を間違えたのだろう。
恵子の家庭を想像してみた。
優しくて経済力のある旦那がいて可愛い娘がいる。家事に追われながらも充実した幸せな生活。嫌な過去を、俺と過ごした無駄な時間を差し引いても十分に余りある幸福。
ちくしょう。それは俺のものだったはずだ。小説家として名前が売れ、金銭的にも余裕があり、周りの人から尊敬されている俺。恵子がいて娘がいて、男として、ごく一般的な家庭を持った幸せ。
俺だけが取り残されている。俺の中だけ時間が止まっている。皆、俺を置き去りにして自分の人生をしっかりと歩んでいる。成長していないのは俺だけだ。
仰向けになる。悔しくてコタツを蹴飛ばすが、気が晴れることはない。
落ち込むときは、とことん落ち込んでしまえ。
涙があふれて、心が際限なく落ち込んでいくのを自虐的に放置していた。
とりとめのない思いや後悔、焦りなどが頭を駆け巡っているうちに西の窓が暗くなり、部屋が暗闇に満たされていた。
腹が減っていることに気がついたので、照明を点けて台所を探すとカップめんやインスタントラーメンが出てきた。カップめんの方が面倒くさくないやと思って、やかんに水を入れてカセットコンロの上に置く。
カップめんを食べたら少し落ち着いた。
パソコンの電源を入れて、テキストエディタを立ち上げる。
結局、これしかないのだ。別の人生を歩もうと思っても40歳近くになったら、もう遅過ぎる。夢にすがって人生を取り戻す夢を見るしか俺には道がないのだ。
ファイルを選択して、俺は書きかけ小説の続きを執筆し始めた。