夜明け
控えめな目覚まし時計の音で、私は今日も目を覚ます。
昨日と全く同じ動きで顔を洗って、歯を磨き、食卓につく。朝はコーヒーだけで済ませる私の向かいでは、いつも通りに君が朝食を食べている。今日のメニューもバターを塗っただけのシンプルなトーストと水。変わらない。前に一度、毎日同じもので飽きないのかと自分のことは棚に上げて訊いてみたら「朝は絶対パンって決めてるんだ」と誇らしげに語ってくれた。ならば、と気を利かせてある日ジャムを買って帰ると「ジャムは邪道」と一蹴されてしまった苦い思い出がある。おかげで今も、冷蔵庫にはジャム瓶が未開封のまま居座っている。
私がちびちびとコーヒーを啜る間に彼はトーストを平らげる。それから几帳面に手を合わせると「ご馳走様」と呟く。そういうことを忘れないところが私は好きだった。皿を片付けると、君は外を見ながら「今日も真っ暗だね」と笑う。私は「うん」と「んー」の中間みたいな適当な返事をして白いマグカップを口に運ぶ。これもいつもと変わらないやり取りだった。ただその後で、斜向かいに座った君の様子は昨日までと違っていたから、何となく嫌な予感がした。
「もうそろそろさ、いいかなって思うんだ」
君がそう切り出したのは、千回目の誕生日を翌日に控えた朝だった。
緊張した面持ちで彼が放った言葉を、何度も何度も頭の中で繰り返す。けれど、どう考えても意味するところは一つしかない気がして嫌な汗が滲む。答え合わせをするように彼の顔を見るとこくりと頷いてから、照れ臭そうに答えを教えてくれた。
「うん、そろそろ死のうと思う」
ああ、やっぱり。やっぱりね。
「いつ? 今日じゃないよね?」
「うん、一応明日。日付が変わったらすぐに」
「そっか。じゃあ誕生日、今日祝っちゃわないとね」
不思議と取り乱さなかったし、止めようとも思わなかった。悲しいとか寂しいとかよりも先に、何故か誕生日のことが浮かんで、気づけばそんなことを口走っていた。
「――――そうだね」
明日死ぬとは思えないくらいにいつも通りの笑みが、初めて触るみたいに温かい。
祝うなんて言っても大したことは出来ないから、結局過ごし方は何でもないただの一日とほとんど変わらない。家でだらだらして、飽きたら外に繰り出す。違うのは夕飯の後でテーブルに置かれた小さなホールケーキだけ。大きすぎてはみ出した板状のチョコーレートには「さよなら999歳 こんにちは1000歳」の文字。書いたのは当然私だ。蝋燭は多すぎて用意しきれなかったから、太目の蝋燭を十本だけ立てる。「一本百歳ね」って言うと「せめて百本は欲しかったな」って子供みたいに唇を尖らせた。それを笑って流し、蛍光灯のスイッチに触れる。火の分だけ外より明るい部屋にお約束の歌が響き終わると、一瞬だけ真っ暗になって、またすぐに明るさを取り戻す。
「おめでとう」
「ありがとう」
彼にとっては千回目の、私にとっては二回目の誕生祝いは、それっぽっちのささやかなものだった。
「これ、外で食べない?」
蝋燭を一本ずつ抜きながら彼が言った。唐突な提案に私は面食らってしまい、弄んでいた保冷剤をテーブルに落とす。何で外で。訊こうと思ったけれど、そもそも反対する理由がなかったので承諾する。取り落とした保冷剤とケーキを箱に戻すと、身支度もせず私達は狭い部屋を出た。外はTシャツ一枚じゃ肌寒いくらいだったが、鍵を閉めた後だと面倒臭さが勝って上着を取りに戻ろうと思えない。いっそ我慢できないほど寒ければいいのに、と思ったりしたが、たぶんそれだと外出するかどうかも怪しい。上着一枚で解決できる問題は意外と厄介だ。
行き先を告げない彼の後ろをついていくと、二十分ほどで細い川が姿を現す。
「あー、もうそんな時期なんだ」
ほとりの草むらにいた蛍を見てそんな言葉が出る。去年はこんな世界でも蛍が見られることに驚いていたが、あれからもう一年が経つのか。懐かしい。適度に褪せた情景が蘇って立ち尽くす。この場に相応しいのは新鮮な感動なのに。
手近にあった木製のベンチに腰掛けると一段と気温が下がった気がした。水辺の冷気がむき出しの手足から容赦なく熱を奪っていく。やっぱりもう一枚着てくるべきだったな。家を出る前のことが思い出して、賭けに負けたような気分になる。かといって今更どうすることも出来ない。二人とも同じような格好をしているから、頼ることも敵わない。
気を取り直し、ケーキを食べようという段になってふと気がつく。
「あ! お皿とかないじゃん。どうしよう」
「ごめん、言われるまで忘れてた」
「一回帰る?」
「いや、それも手間だしやっぱりケーキは帰ってから食べよ。ごめんね、せっかく出てきたのに」
「そんなのは全然いいけど……帰って、か。あ、じゃあチョコだけ。チョコだけ今食べてよ。ほら、溶けるかもしれないし」
早口で捲くし立てると、返事を待たずにチョコレートを摘んで慎重に取り出す。素手だが、お互い気にするような性格ではない。
「はい」
「ありがとう。じゃあ、はい」
そう言って差し出された彼の手には半分割られたプレートが乗っている。確かに一人で食べるには大きすぎるが、誕生日の主役だけが食べられるものを貰うのはほんの少し気が咎めた。とはいえ遠慮するのも変なので素直に受け取り、溶けかけの好意をありがたく頬張る。そこに書かれていた「さよなら999歳」の意味は考えないようにして。
二人して黙りこくって、暗がりに浮かび上がる光を見つめる。閉じっぱなしの口の中に強く残るチョコの甘さが私を馬鹿にしているみたいだ。それが気に食わなくて何でもいいから話そうとするけど、何を言ってもこの場にはそぐわない気がして、いつまでも口を開けずにいた。
明滅のリズムで呼吸を繰り返す。その度に時間はゆっくりと進んでいく。消えた蛍火が二度と灯らなければいいのに。そうしたら時間も一緒になって止まるかもしれない。心の底から来なくていいと願っている明日は、本当に来なくなるかもしれない。
口にしてやろうか。君が揺らぐような言葉を選んで。今度の千年は私も付き合うと。子供みたいに喚くんじゃなく、最低限の涙で心を突いて、寒さを口実にしな垂れ掛かって。
本当にそれが許されるなら、帰ったら何色のフォークでケーキを食べようかって躊躇いなく訊けるのにな。
五月の夜から息遣いが一つ減った。ああ、明日が今日になったんだな。挨拶も出来なかったな。きっとこの夜は沈んで、ずっと来ないと思っていた朝が来る。何もかもがいつも通りではなくなる。ついさっき昨日になった、長い長い今日がまた同じくらいの時間を掛けて夢になる。ならせめてそれを、千年振りに昇る朝を見届けようと、ケーキの箱を膝に乗せて一人蛍が飛び交う様を眺め続けた。
君が死ぬだけの理由が、この世界には溢れていた。
ありがとうございました。