煙
どん。床に置いた衝撃で、ポリ缶いっぱいに入れた灯油がちゃぷちゃぷと音を立てて揺れたのを聞いた。安い上着を脱いで、ソファーに放り投げる。目の前には、カップラーメンやコンビニ弁当なんかの食べかす、ビニール袋、アルコールの入っていたスチール缶と大きな瓶、派手な色の服。たくさんのものが散乱しているその下には、くたびれたカーペットが横たわっているはずだ。
透明のゴミ袋をひろげて、目に映るすべてのものを、どんどん中に突っ込んでいった。袋がいっぱいになったらまたもう一枚広げて、同じようにして入れていく。単調な作業を数十分ほど繰り返して、ぐちゃぐちゃな部屋の真ん中に、すっきりとした空間を作ってやった。
口を縛った何個かのゴミ袋を部屋の隅に追いやって、それから僕は、白い蓋の片いっぽうを回して外して、缶をひっくり返した。一気にあふれ出した音が、ばちゃばちゃと、汚れたキャラクタープリントの右頬に染み込んでいく。いつもの生活空間の中なのに、まるでそこにガソリンスタンドがあるような臭いが、僕の鼻腔を満たしていった。ああ、なんて、すさまじい背徳感なんだろう!
灯油の勢いがなくなってきたところで、こぼすのを止める。それで、数歩下がった。ポリ缶を置いて、僕は、ポケットの中からライターと煙草を取り出す。指の腹で歯車を擦って火を灯す。煙草に火を付ける。ライターをしまう。煙草にキスをする。有害物質をすこしだけ肺の中に入れる。じんわりと赤くなった煙草の先端が煙を吐き出し、同時に、生まれたばかりの彼女がうつくしい曲線を描いて踊り始めた。
彼女は、決して、温かな料理から立ち昇る湯気や、心地好い温泉が吐き出す湯けむりからは生まれてこない。煙草に火をつけて、煙をあげること。それが、彼女が生まれる条件だ。
喫煙室にいるおじさんの手の中から、道端でしゃがみこむ若者の手の中から、カウンターに座る綺麗な女性の手の中から、顔を真っ赤にして怒鳴るお母さんの手の中から、ソファーで疲れ果てた顔をするお父さんの手の中から。彼女は、すべての手の中から生まれてくる。節操なしだ。煙草さえ手に入れたら、僕の前にも生まれてくる。まだ小学生の時に、お母さんのコートのポケットから盗ったいい香りのする煙草で、僕は初めて至近距離で彼女を見た。
小さい頃は、お母さんかお父さんの煙草を、1本必死に盗むのが精一杯だった。それなりの見た目になってきた頃から、金を出して買うようになった。火をつけて、一度キスをして、あとは、端っこから彼女が生まれ続けるのをただ眺めるだけ。口の中に広がる苦味が嫌いだったのも理由のひとつだけど、吸わずにいた方が長いあいだ、彼女を見ていられるっていうのが最大の理由だ。
彼女を掴まえてしまえばいいんじゃないか? そう考えて、彼女の姿を両手で閉じ込めたこともあった。瓶の中に招き入れて蓋をしたこともあった。けれど彼女はいつのまにか手の中から居なくなってしまっていたし、瓶の中の彼女は汚らしく空気と交わって、もはやそれは僕の愛しい「彼女」じゃなかった。彼女は、ほんのひとときの自由に生きているからこそ、僕の愛しい「彼女」でいられるらしかった。
こうしなければ彼女には会えないけれど、逆に考えれば、そうすれば彼女に会うことができる。煙草の煙を眺めている時間が、僕が1番幸せなひとときで、僕は、そのために毎日を生きてきた。
けど、昨日知ったんだ。彼女は煙草以外からも生まれてくる。僕は見たんだ。町内で燃えた一軒家から立ち昇る煙。いつもは、本当に少しのあいだ、ちっぽけな踊りを見せるだけの彼女が、本当に長いあいだ、赤い夕焼けをバックに、ぱちぱちと鳴りながら踊って魅せてくれたのを。
鎮火された家の前で、彼女が消えてしまってからも、僕は暫くのあいだ動くことが出来なかった。けれど、はっと我に帰ってからの行動は素早かったよ。マンションの前の、すっかり日が落ちた小さな公園で、ライターの火をつけて、僕は落ち葉を一枚、燃やしたんだ。そうしたら、ゆらりと空気を揺らして、煙が、彼女が、生まれた。
今まで彼女のことを「煙草の妖精」かなにかかと思っていた僕にとって、その発見はひどい驚きと喜びを運んできた。生きていてよかったと、心の底から感じた。夢のような話が本当にあったんだ。その日は酒を大量に飲んだ。人生で一番美味い酒だった。彼女の踊り方も、なんだかいつもより嬉しそうだった。
そして今日。出勤を放棄して昼過ぎに起きた僕は、ガソリンスタンドで、ちゃぷちゃぷと音を立てながら、真新しいポリ缶を灯油で満たしてきたんだ。
瞼を閉じて、初めて、肺の奥ふかく、ふかくまで、彼女を吸い込む。彼女と、身体の底でキスをする。重なる。交わる。まるで酸素が足りなくなったかのような脳髄の震えを感じた。腰の揺らぎも、あった。じいん、と痺れた指先を握りこむ。高鳴る心臓の音が灯油の臭いと共鳴して、部屋いっぱいに充満していく。
そしてカーペットに背を向けた僕は、左腕を伸ばした状態で、ばちゃり、と、灯油溜りまで倒れ込んだ。少し粘度を持った液体が、頬に飛び散る。それを確認した僕の左手は、もう既に煙草を掴んでいなかった。
すさまじい音を立てて熱を持ち、肥大していく彼女は、あのうつくしい表情をしていない。世界の不条理を顕わにしたその瞳から、涙がこぼれていた。それを拭うための指はもうない。抱き締めるための腕もない。慰めるための声帯もない。見留めるための目も、もはやない。ひどい絶望の中で、僕は夢に視たように、確かに、彼女になった。
今日はからりとした晴天で、時折薄めの雲が、太陽を飾るように流れていくだけだった。
2013/08/28