第1話 諭吉でもダメなのか……
仕事から帰って玄関先でぶっ倒れたところまでは覚えている。
しかし、今オレの目の前に広がる光景は見慣れた自宅の玄関ではなく、青草香るエメラルドの草原だった。
これが夢でないことはわかっている。すでに自分の頬を3回ぐらい殴ったあとだからだ。
軽く立ちくらみを覚えながら漠然と辺りを見回してみるが、家の近所にこんなところはないし、故郷の田園風景でもない。酔っぱらって外を徘徊していたわけではなさそうだ。
まさかオレは人さらいに遭ってしまったのか? 幼少時代はまつ毛の長い地上に舞い降りた天使だと言われていたオレならあり得ない話ではない。だが、現在はただのまつ毛の長いオッサンと化したオレにはさらうメリットはないと思うのだが。あれ、自分で言っててなんか悲しくなってきた。
「どうも~」
どこか間延びした声が聞こえてきた。
振り返るとそこにはその細身に似合わない巨大なリュックを背負った女が、紺碧の目を細ませて人当たりよさそうな笑顔を見せていた。
「……ドチラサマデスカ?」
「どもども、ハジメマシテ。わたし、グリンゴッツ商会の者です~。見ての通りしがない商人でござまーす。お兄さんがお困りの様でしたから、何かお役に立てればと思いましてぇ。何かご入用ではありませんかぁ?」
「い、いきなりそういわれてもな……」
「そだ。水とかどうです? 水都エクルマータから取り寄せた天然モノですよ! すごーく冷たくておいしーんです!」
「あ、じゃあそれで……」
「どぞどぞ~」
リュックから取り出された水筒を受け取り、口をつける。
「ん、これは確かに。おいしい」
「でしょでしょ~。はい」
「……なんですかこの手は?」
「やだな~。言わなくてもわかりますよね? わたしはそれに見合う対価を要求しているんです。こちとら慈善事業じゃありませんからね~」
「金を払えってことか。ま、そりゃそうだよね。じゃあ、はいこれ」
一般的な500ミリペットボトルの相場である150円をその手に落とす。水にしてはちょっと高いくらいだ。だけどそれは気持ちということで。
「……なんスかコレ?」
笑顔を張り付けたまま疑問を呈する商人。一体どうしたのだろうか。
「なんだ、見たことないのか? それはお金というやつだ。物を売買するときに必要になってくるこの世で2番目に大切なものだ。釣りはいらない。大事に取っていてくれ」
「あはは~冗談きついっすよお兄さん。これのどこがお金なんですかねぇ……」
「……もしかして目が悪いのか? いや、悪いのは頭か。とりあえずこれで契約は成立だ。じゃ、オレはこれで——」
「逃がすかこのドロボー!!」
「あでっ!?」
後頭部に二発、衝撃が走る。
「んな!? お金は大事にしやがれコノヤロウ!!」
「一体どの口が言いますか! こんな物渡してトンズラこくなんて! 犯罪ですよ犯罪! 大・犯・罪!」
「意味わかんねぇこと言ってんじゃねぇよ! 金はちゃんと渡したじゃねぇか!」
「これの一体どこがお金だって言うんですか! お金というのはですね……ほら、こういうもののことを言うんですよ!」
そう言って目の前に一枚のコインを差し出される。獅子の模様が彫刻された金ぴかの硬貨だ。
「なにこれ? ゲーセンのコイン?」
「何をおっしゃいますか。これがお金ですよ、お・か・ね。とぼけるのも大概にしてください」
「えぇー……」
「さ、理解したのならさっさと払ってください。耳を揃えてきっちりと」
オレは今、ドッキリにかけられているんじゃなかろうか。そのうち草むらから看板持った奇抜なファッションの芸人が『大成功!』などと抜かして出てくるのではないだろうか。しかしそれは無駄な考えで、どうもこの商人は目が本気である。ことお金に関しては一切のウソ偽りも受け付けないという顔をしてやがる。
もしかして、と一縷の望みを持ってお札を差し出すも、無慈悲にパンっと手で叩かれた。
「諭吉でもダメなのか……」
「……もしかしておにーさん、お金を持ってないとか言うんじゃないでしょうね……?」
「これがお金で無いというのなら、そうだな、オレは無一文だということになる……正解だ!」
「なんでちょっと誇らしげなんですか! はぁ……とんでもないの捕まえちゃったなぁ、どうしよう……」
「世の中にはボランティア精神というものがあってだな」
「あげませんよ」
「さいですか」
どうやらお金はきっちり取るらしい。
「そうは言ってもなぁ。そもそもココがどこだかわからないし、どうしていいかもわからない。いわばオレは迷子なんだよ。迷子の迷子の子猫ちゃんだにゃーお」
「ずいぶん体の大きな迷子ですね……ちなみに教えときますけど、ここはリベリア平原です。中央都市オルバニアの東、カラカット洞の11キロ南です」
「ごめん、何言ってるかわかんない」
しかし、今のでなんとなくだがわかってきた。見知らぬ風景、通用しない通貨、そしてRPGっぽい地名……それらの要素をひっくるめて導き出した答えは……
「異世界、なのか……」
夢でなければそういうことになる。つい最近異世界トリップ物のアニメを見たが、そのアニメと状況がクリソツなのだ。どうやらオレは望みもしないのに、異世界に来てしまったらしい。
本当はもっと早く気づくべきだった。
具体的には起きたばかりの時に上空をクラゲっぽいやつが飛んでいた時から。あんなの現実じゃ存在しない。
「ふふ……そうか異世界か……随分遠くまで来ちゃったなぁ……」
「なに和んでやがるんですか。怒りますよ」
「えーと、商人くん。突然で申し訳ないが、知らぬ間に異世界に来てしまった哀れな少年を元の世界に還すにはどうすればいいと思うだろうか?」
「いきなりなんですか。頭がおかしくなったんですか?」
「残念ながら至って正常だ。順を追って説明すると……」
話し中。
「……なんとなく事情は把握しました」
「あら、疑わないの?」
「驚いてはいますけど、疑ってはいませんよ。ウソをついているようにも見えませんでしたし。それに、困っている人を助けるのは商人の義務ですし」
「ただしお金は取る」
「なんですって?」
「なんでもないぽん」
「とにかくですね、その話が本当なら方法はありますよ。元の世界に帰る方法が」
衝撃的発言である。
「それを教えてください! なんでもやります! 靴ナメましょうか!?」
「ナメなくていいです! そんなことしなくても、正規の手順に従えば手に入りますよ。生憎ですが、それは今ここではなく、中央都市にありますが」
「シンデレラだっけ?」
「オルバニアです。響きだけじゃないですか。ここからそう遠くはないですし、ぜひ行ってみることをオススメしますよ」
「あ、そうなんだ。じゃあお言葉に甘えて――」
「ただし! お金を払ってからですぅ」
笑顔で腕をがっちりとホールドされる。こいつめ、意外と力あるじゃねぇか。
「放してくれ。お前の乳が当たっている乳が。サイズはDといったところか。ほっそい体してて中々いいものを持っているじゃないか。HAHAHA」
「悪寒が走るほど気持ちが悪いですが、そうはいきません。お金を払うまで逃がしませんよ」
「いや、もちろん払いたい気持ちは山々なんだけど、さっきも言ったが無一文なんだよ。お前が望むような金は持ってないんだよ」
「だったら、ヤることは一つです……体で払ってもらいます」
「よくあるやつキター!!」
主に薄い本で。しかしこの場合、普通迫られるのは女性の方じゃなかろうか。むしろそっちの方が需要があると思いますはい。
「やさしく……してね?」
「いい加減にしてくださいキモ兄さん。わたしが言ったのはそういう意味ではありません。あくまで働いて返してもらうってことです」
「よかった……ぼくはまだ綺麗な体でいられるんだ……」
「心と性格はドス黒ですけどね」
「……コホン。それで、具体的には何をすればいいの?」
「ここではちょっと。仕事を探すならやはり人が集まるところへ行かなければいけません」
「と、いうことは?」
「行きましょう、中央都市へ」
思いがけず、目的地に向かうことになった。ただし、監視役がつくけど。
「シルバニアだっけ?」
「オルバニアです。ボケるのも大概にしてください」
ファミリーの方ではなかったか……
「ま、いいや。よし、これで希望が見えてきたぞ。その……都市にはお前が案内してくれるんだろ?」
「本来なら料金が発生するところですが、いいでしょう。わたしも一度都市に戻る用事がありますし、案内しますよ」
「さんきゅー。えーっと……」
「シャルドネです。シャルでもドネでも好きな方で呼んでください」
「そっか。オレは久我タケルだ。クガでもタケルでも好きな方で呼んでくれ」
「わかりました、よろしくお願いします、無一文」
「おう、守銭奴!」
こうしてオレと商人は互いに火花を散らしながら、中央都市を目指すことになった。