第十六話 ランと父
翌朝、私はエーティアのベッドの上で寝転んでいた。
そして、窓辺にある一輪の花が目に入ると。
「ぬああああ!」
私は、ベッドの上でごろんごろんと、転げ回った。
「ど、どうしたの、ミミ!」
突然の私の奇行に、部屋で朝食をとっていたエーティアが振り返る。
尚も私は、ごろんごろんする。
うう、だって、だって!
昨夜のレントの笑顔が、頭から離れないんだもんー!
何だったの! 昨夜のレントは何だったのー!
うわわわ、頭から出ていけー! 平常心が保てないー!
私は俯き、足をバタバタとばたつかせた。
「ミ、ミミ……?」
エーティアが恐る恐る私に近付いてくる気配がした。
エーティア、うわーん!
私はエーティアに抱き付く事も出来ずに、パタリと動きを止めた。
「わ、私はもう駄目だ……」
「ミミ、本当にどうしちゃったの?」
エーティアがベッドに腰を掛けたのが、振動で分かった。
そっと、私を撫でるエーティア。
「エーティアー!」
私はエーティアのもとまで、這っていく。そして、ひしっと抱き付いた。
「わ、私、おかしいんだよー……」
「うん」
さめざめと私は泣く。涙は出ないけれど。
そんな私を、エーティアは優しく見つめている。
「な、なんか……頭から離れなくて、心がざわざわしているんだよー!」
「そうなの」
「私、おかしいのかな!」
エーティアにぐりぐりと、頭をこすりつける。こうすると安心するー。
エーティアは、私を撫でる手を止めた。
「ミミ。ミミは、何もおかしくないのよ。きっと、ミミは成長しようとしてる」
「成長……?」
「そう。ここがね、成長してるの」
顔を上げると、エーティアは胸を押さえていた。
そして、慈しみの眼差しを私に向ける。
「ミミは、素敵な感情を得たの」
「素敵な……?」
こんな床を転げ回りたい衝動に駆られる感情が、素敵なもの……?
思い出すだけで、頭を打ち付けたくなるのに?
「エーティアの言いたい事、よく分からないよ」
私の言葉に、エーティアは笑った。
「今はまだ、分からなくてもいいと思う。実は、私もよくは分からないから」
「何だよ、それー」
私はエーティアをぽすぽすと叩いた。
「あははは」
まあ、エーティアが笑顔を見せて、笑い声をあげてくれたから、いいか。
私は、エーティアから離れた。
まだ、転げ回ったりしてたいけど、エーティアの朝食の邪魔をしちゃ悪いし。
私は、テーブル上の朝食を右手で示す。
「さあ、エーティア。食事の続きをどうぞどうぞ」
「ええ、分かった」
エーティアは、テーブルへと向かって行った。
そして、私は。また花瓶の一輪に目が行き、衝動のまま頭を打ち付けるのだった。
「ラン、今日は街へ行きましょう!」
エーティアが部屋にランを呼んでの、開口一番がそれだった。
「街ですか」
「そう! 買いたいものがあるの」
エーティアは、うきうきと頭からベールを外す。
服は既に、町娘姿だ。
「買い物……何か、あったんですか?」
「え?」
ランの言葉にエーティアはきょとんと、まばたきをする。
ランは慌てたように、両手を振った。
「あ、いえ。その、女性は気分転換に買い物をするのだと、ロイドが言っていたもので……」
「つまり、私がまた何か言われたんじゃないか、と思ったのね?」
「はい」
ランは頷いた。エーティアの事を心配してくれたのだな。うむ、優しいやつめ。
私はエーティアの腰で、感心していた。
「大丈夫よ、ラン」
エーティアは微笑んだ。
「確かに、何かと私に言ってくる人は居る。でも、私は私なりに誠意を見せているつもりよ。もう、気にするのはやめたの」
「エーティア……」
エーティアの言葉に、ランは眩しいものを見る目をした。
エーティアは、そっと私に触れる。
「それに、私は一人じゃない。ミミが居るし、貴方もよ」
「え?」
「ラン。私は貴方が私の守護騎士で良かったと、心から思ってるの」
エーティアの言葉に、ランは目を見開いた。
「あ、あの……」
そして、頬を染めてどもる。
エーティアはランのそんな様子を気にした風もなく、続ける。
「ありがとう、ラン。これからも、よろしくね」
と、ランの手を握った。
ランは、少し戸惑うようにしていたけど、最終的にはぎゅっとエーティアの手を握り返した。
「はい!」
そう返事したランは、輝くような笑顔だった。
エーティアとラン。二人の距離は確実に縮まっている。
それが、私には嬉しかった。
「またまたやって来ましたよー」
私は小声で言う。
街は、相変わらず賑やかだ。
エーティアとランは、商店街へとやってきていた。
「今日も、珍しいものがたくさんあるのね!」
きらきらと目を輝かせて、エーティアはランに話し掛ける。
「他国からの商人が、日替わりで出店している店もあるんですよ、エル」
「そうみたいね。知らない言葉を話してる人達も居るわ」
確かに、服装もアルディア王国のものと違う集団が居る。
皆、エーティアみたいに目を輝かせて、お店を見ている。楽しそうだ。
「彼らは、他国からの旅行者ですね」
「そうなんだ」
エーティアも彼らに負けないぐらい、楽しんでいる。うんうん。
「エル、そろそろ買い物を済ませませんか?」
「あ、そうね。見てるだけでも楽しいから、つい夢中になっちゃった」
エーティアが、ランにはにかんだ。
「いえ、エルが楽しいのなら良いんです」
「ありがとう、ラン」
エーティアはランにお礼を言うと、目当ての店を探し始めた。
「何のお店を探しているんですか?」
「んー、ぬいぐるみ用の装飾品が置いてあるお店が良いんだけど」
「え!?」
エーティアの言葉に、思わず反応してしまい、私は慌ててぬいぐるみの振りをする。
幸い周りに人間が多く、私の事を気にする者は居なかった。あー、良かったー!
「ぬいぐるみ用、ですか」
「そう……あ、あそこかしら」
見れば看板に、クマをデフォルメしたようなイラストが描かれた店が見えた。中からは、ぬいぐるみを持つ親子連れが出てきた。
「そうみたいですね。行きましょう」
「ええ!」
ランとエーティアは、店へと向かう。
店の中は、半分がぬいぐるみを置いているスペースで、残りが裁縫用の装飾品が飾られていた。
「えーと。ミミには、何が似合うかしら」
「そうですねぇ」
二人は呑気に選んでいるが、私はそれどころじゃない。
ミミに似合うって何!?
エーティアの買い物って、私の装飾品だったの!?
な、なんで!?
「エーティア、エーティア」
私はコソッと声を掛ける。
「なに、ミミ。ここは、店内よ。話なら帰ってからね?」
軽くあしらわれてしまった!
エーティア、酷いよー。
エーティアとランは、熱心に装飾品を見ている。
黙るしかない私は、店内をぐるりと見回す。
あ、天井にもぬいぐるみが展示されている。
ぬいぐるみの中に、黒髪の男の子を発見した。
笑顔のぬいぐるみに、私は昨夜のレントを思い出してしまう。
激しく悶えそうになったけど、私は耐えた。何とか衝動に耐えきった。
ああ、もう。もう、もう!
何なんだろう、この感情は!
くうっ、禁止! レントの事を考えるのは禁止! 今、決めた!
私が悶えていると、エーティア達が会計を済ませていた。
い、いつの間に!
「良いものが買えたわ」
「そうですね」
二人は満足そうだ。むう。
「この後はどうしようかな。また、屋台で何か……」
エーティアの言葉が途切れる。
ガシャーンと、何かを崩すような音が響いたからだ。
音に驚いて、エーティアは話すのを止めた。
ざわめきが広がる。私達は、音の発生源を見た。
そこには、昼間から赤い顔をした酔っ払いの男が、食堂らしき店の横にある樽に寄りかかっている姿があった。
壮年の男は、身なりは良かったが、淀んだ目をしている。
関わりあったらいけない人種だ。私はそう思ったのだけど。
「父上……っ」
ランが、驚いたように声を上げた。
父上。ランは、酔っ払いをそう呼んだ。
「エル、ちょっとすみません!」
そう言うと、男のもとへと走って行く。
「お客さん、飲み過ぎですよ」
食堂の店員らしき人間が、顔をしかめて店内から出てくる。
「うるせぇっ、金は払ってんだ!」
「そうですけどねぇ」
明らかに迷惑そうな顔をした店員に、ランが話し掛ける。
「あのっ、父がご迷惑をお掛けしました」
「……」
店員に謝罪するランを、ランの父親が無言で睨み付ける。
「あんた、息子さん? こう言っちゃなんだが、悪酔いし過ぎだよ、この人。もっと気を付けてやんな」
「は、はいっ」
ランは頭を下げた。店員は、店の中に入って行った。
ランは、父親に向き直る。
「さあ、父上。僕に捕まって……っ」
父親に伸ばしたランの手は、鋭く叩き落とされた。
「私に、お前が触れるな!」
「父上……」
呆然とするランに構わず、父親はよろよろと自力で立ち上がる。
そして、ランを見る。憎悪に満ちた目で。
「お前が、お前のせいでエリザは死んだ!」
父親の言葉に、ランの体がびくりと震える。
「お前なんぞ、生まれてこなければよかったのだ!」
「ちち、うえ」
「お前に、父など呼ばれたくはないわ!」
叫ぶと、父親はよろめきながらも雑踏の中に入っていく。
後に残され、立ち尽くすランに、たまらずエーティアが駆け寄る。
「ラン、大丈夫?」
「エー……エル。みっともないところをお見せしましたね」
ランは悲しそうに、目を伏せた。
「そんな事ない。ただ、私は貴方が心配なの」
ランと父親のやり取りを聞いていたエーティアは、二人の関係の複雑さを感じ取ったのだろう。
「あんな……あんな言葉、酷い……っ」
「エル、良いんです。僕は、大丈夫ですから」
そう言うランは、とても大丈夫そうには見えなかった。
エーティアもそう思ったのだろう。
ランの手を、そっと握った。
「ラン。貴方には私が居る事を忘れないで。私は貴方を支えたい」
「エル……」
ランは、今にも泣き出しそうな顔で、エーティアを見た。
「ありがとう、エル。でも……今日は、もう帰りましょう」
「ラン……」
言外に含まれたランの拒絶に、エーティアは傷付いた顔をしたけれど、直ぐに何でもないような顔をして、頷いた。
「そうね……帰りましょう」
エーティアはぎこちなく、ランから手を離した。
それから帰り道、二人は一言も喋らなかった。
重い空気に、私も何も言えない。
無言のまま、エーティアの部屋の前まで来てしまった。
「……」
「……」
どちらからも、別れの言葉は出ない。
先に勇気を出したのはエーティアだった。
「ラン」
「はい……」
「私、貴方が辛いのは嫌なの。だから、いつか私が貴方を支えるに足ると思ったら……」
エーティアは最後まで言えなかった。
ランがエーティアを抱きしめたのだ。
「ありがとう、エーティア。貴女のその言葉だけで今は充分です」
掠れた声で、ランは囁く。
「ラン……」
エーティアも抱きしめ返した。
二人の間に、暖かな空気が流れる。
二人の初めての包容は、二人に何かが始まっているのを感じさせる、そんな包容だった。