第十五話 夜の散歩2
今夜は、庭園にぬいぐるみを置いての空中散歩だ。
今日はちゃんとエーティアに、お散歩してくるって伝えてあるもんね。
お散歩、楽しいよー。
『今日も、月が綺麗ー……』
空中で私は呟く。
月は、日々欠けたり丸くなったりするけど、変わらずそこにある。
私は眼下の神殿を見た。
夜の神殿は、静かにそこにある。
神殿にも、変化は無い。
結局、先代とエーティアは神殿に闇の精霊の事は発表しなかった。
代わりに、アルディア王国の王には伝えてある。アルディア王も、まだ予兆の段階で騒ぎを大きくしたくないというエーティア達の意見を汲んでくれた。
だから、神殿だけでなく、都もいつも通りの夜だ。
『闇の精霊、か……』
大変な事態になった。
世界樹にも分からないとは、異常な事なのだ。
『……私が、ゲームをクリアしてたら、防げたのかな』
ポツリと呟く。
私は、ゲームの序盤しか知らない。
でも、もしもゲームをちゃんとクリアしていれば、闇の精霊の事を知っていた筈だ。
ならば、あらかじめ何らかの予防策を講じられたのではないだろうか。
そこまで考えて、私は首を振る。
たとえ、シナリオを知っていたとしても、私に何か出来たとは思えない。
何かをするには私は生まれるのが遅過ぎた。
それに、先代が言っていたではないか。
闇の精霊を封印出来るのは、神子だけだと。
いち精霊でしかない私には、出来る事などそうは無いのだ。
『私は……無力だ』
精霊などと、特別な存在に生まれたのに。この体では、エーティアを抱きしめる事も出来ない。
エーティアの涙を拭う事すら、出来ないのだ。
精霊の体は、人と寄り添うには不便だ。
ぬくもりを与える事が出来ない。
なんて、寂しい存在なのだろう。
精霊になりたての頃は、こんな事考えた事も無かった。
精霊は精霊で、世界樹のそばに居ればそれで良かったから。
でも、私は生まれたての頃とは違う。
私は、エーティアに出会ってしまった。エーティアのぬくもりを知ってしまった。
もう、普通の精霊には戻れない。戻りたくない。
エーティアの優しさは、私の体に染み込んでいるのだ。
私は月明かりのもと、微笑んだ。
私は、また口ずさむ。
前世の歌を、覚えている限り。
ゆっくりゆっくりと、下降していく。下は、庭園だ。
そろそろ、夜のお散歩を終えてもいいのかもしれない。
夜空は充分堪能した。
私は庭園へと降り立った。
歌を口ずさむのを止める。
後は、ぬいぐるみの中に入れば、いつものミミさんだ。
そう思った時だった。
「……その歌は、精霊の歌なのか?」
背後──庭園の入り口の方から声がしたのは。
『え……っ』
私は驚き、振り返った。声が、聞き覚えのあるものだったからだ。
だけど、私の知るものよりは、少し声音が優しい気がして、一瞬戸惑う。
彼の声は、いつも攻撃的で冷たい。そんな声しか、私は知らない。
だけど、振り向いた先に居たのは、紛れもなく──レントだった。
月明かりに照らされ、彼の黒髪が淡く光っている。
彼は、信じられない事に穏やかに笑っていた。ど、どういう事?
「……人間の言葉が、分からないのか?」
普段とは違うレントを見て、驚き固まった私に、彼は不可解そうに聞いてきた。
まだ鈍い思考のまま、私はただ首を横に振る。
そして、レントには精霊が見えているのだという事を思い出していた。
『……精霊の事を、見える人間は、珍しいから』
私はたどたどしく、そう言った。
レントは、また笑った。
「確かに、そうだな。人の多くは精霊を見る事が出来ない」
『うん……』
何だろう。何で、レントは私に話し掛けているのだろう。
しかも、かなり友好的だ。
私の戸惑いは大きくなる。
レントが、入り口から庭園へと入ってきた。
私は思わず、後ずさる。いつもと雰囲気の違うレントが、怖かった。
レントの笑った顔は、エーティアやミミに見せるものとは、全然違う。
……凄く、優しいのだ。
まるで、ミミに微笑むエーティアのようだ。
これは、本当にレントなのだろうか。
月が見せている幻では、ないのだろうか。
ぐるぐる、私の思考は回る。
距離を置こうとする私を、レントは怒らなかった。
私と一定の距離を取ると、苦笑を浮かべた。
「すまない。君を驚かせるつもりは無かったんだ」
と、謝罪までされてしまった。
私は驚きを隠せないでいた。
あのレントが、私に謝った! これを驚かずして何を驚けというのだ。
『あ、あの……』
「精霊は、世界樹と……神子以外には心を開かないのだったな」
と、寂しそうに呟かれ、私はどうしたらいいのか分からなくなってしまった。
何だろう、何だろう。今のレントは、何だか弱さを感じる。
いつも自信に溢れているのが、嘘みたいだ。
いや、でも。前にリスティリオとの諍いの時に、リスティリオは言っていた。
レントには、精霊を慈しむ心があるのだと。
……レントは、精霊には優しいのだろうか。
いや、優しいのかもしれない。
今のレントを見ていると、そう思えてくる。
レントは、誠実な目で私を見ていた。
そうだ。私は一度ぐらい、レントと話をしてみたかった。
何故、エーティアと歩み寄らないのか。エーティアの頑張りを見て、認めてくれないのか。
今、聞いてみてもいいのかもしれない。
私は、レントに近付いた。そして、口を開く。
『……貴方、歌が好きなの?』
口から飛び出したのは、事前に考えていた質問じゃなかった。
……私は、直前で躊躇したのだ。
今の穏やかに笑うレントを、もう少し見ていたいと。そう思ってしまったのだ。
地雷であるエーティアの話を振れば、たとえ精霊相手でもレントは怒るだろう。
レントの笑顔はたちまち消えてしまうだろう。
それが、何だか勿体ないと思ってしまったのだ。
レントは、私からの質問に軽く目を見張った。
そして、また苦笑を浮かべる。
「質問をしたのは、こちらが先だったのだがな」
『ごめんなさい』
私は素直に謝った。
レントは、微笑んで応えた。
「いや、いい。精霊よ、俺は歌の事はよくは分からん。だが、先ほどの貴女の歌は、その、好きだと思う」
レントは、少しだけ頬を染めた。
照れているのだ、きっと。
私は衝撃を受けた。あのレントが、照れているのだ。驚くだろう。
本当に今日は、何なのだ。
「なあ、精霊よ」
『な、なに……?』
レントに話しかけられ、私はどぎまぎしながら聞き返す。
「歌を、歌ってくれないか……?」
『歌?』
歌って、さっきまで私が口ずさんでたやつだよね?
アニメの歌とか、ゲームの主題歌とか、オタク趣味全開だよ!? いいの? レントって、英才教育とか受けてきたんじゃないの? その中には、歌に関するものもあるんじゃないの?
あ、でも。さっきレントは、歌については分からないって言っていたし。い、いいのかな?
迷って、視線を彷徨かせる私に、レントは悲しそうに笑った。心が、痛くなるような笑顔だった。
「俺の為には、歌えないか……?」
と言われてしまえば、私には断る事が出来ない。
『私の歌は拙いけど、良いの?』
一応聞いてみる。
「ああ、構わない。聴かせてくれ」
そこまで言われたのならば、仕方ない。
私は、少しだけ宙に浮いた。
そして、胸の前で手を組むと、歌い始める。
アニメからゲームまで、好きな歌を歌う。すると不思議な事に、歌う事に夢中になった。
月が私に力を与えてくれて、疲れる事なく、よどみなく歌い上げる。
ちらりと、下を見れば。レントが穏やかな、でも熱のこもった目で私を見ていた。
何だか恥ずかしくなり、私は歌う事に集中する。
そして、時間にして一時間。私は歌い続けたのだった。ちょっと夢中になりすぎたようだ。反省、反省。
私はレントのもとへと降りる。
『ちょっと、歌いすぎた。ごめんなさい』
私は謝った。
「いや、俺が頼んだんだ。文句は無い」
レントはあっさり許してくれた。
なんだか、レントが優しすぎて、戸惑うなぁ。
エーティアにも、こんな風に笑いかけてくれたらいいのに。
私は、いつもの冷たいレントを思い出し、寂しく思った。
レントは、やはり微笑んだまま、私を見る。
「なあ、精霊よ。俺は貴女が誕生した瞬間を見ているのだ」
『え……?』
レントの真摯な響きのある言葉に、私はまばたきをする。
レントが、私の誕生を見ていた?
『あ……』
そういえば、私が先輩精霊に舞に誘われた時に、湖の岸辺で佇む人影があった。
あれは、レントだったのか。
確か、レントは湖までなら立ち入りを許されていた筈だ。
『見てたんだ……』
私の呟きに、レントは力強く頷いた。
「ああ、あの時から俺は……」
「レント!」
レントの言葉は、突然響いた声にかき消された。
リスティリオだ。リスティリオが、庭園の入り口に立っていた。
チッと、レントが小さく舌打ちするのを私は聞き逃さなかった。
リスティリオは、庭園の中に入ってくる。私の事は見えていないようだ。レントのもとに一直線だ。
「レント、今日こそは俺の話を……」
「無粋な真似を」
レントは吐き捨てるように言った。
「何のことだ」
リスティリオは、訳が分からないといった顔をした。
レントは、リスティリオに構わず私に背を向け、庭園の外へと歩いて行く。
「待て、レント!」
リスティリオは足早に、レントを追う。
レントは庭園を出る前に、一度私の方を振り返り、そして何事も無かったかのように歩いていく。
後に残された私は、庭園の地面へと降り立った。
『今日は、本当になんなの……?』
呟き、私はレントの笑顔を思い出していた。
優しい笑顔だった。
そして、レントは私に何を言いたかったのだろうか。
リスティリオの登場でかき消された言葉の続きが、私は気になってしまう。
そして私は何だか落ち着かない気分のまま、花の陰に隠していたぬいぐるみの中に入った。
ミミに同調した後も、私は気分がそわそわして、なんだか自分が自分じゃないみたいだった。
そして、柄にもなくエーティアに花を一輪摘んで帰った。
何だか、今夜の思い出を残したい、そんな不思議な気分だったのだ。
エーティアの手によって、部屋に飾られた花を、私は一晩中ベッドの上から見つめたのだった。