第六章 浴場事件
第六章 浴場事件
学校に、行きづらかった。しかし理由もなく休むのは気が引ける。
結局は行くしかない。大翔はいつもより時間をかけてだらだらと家を出、すると隣の家の住人も門を開け、家を出るところだった。
「あ、だいちゃーん。おはよう」
「おう、おはよ」
ひよりだ。いつもの笑みを浮かべて、のんびりと歩いている。態度が変わっていないことから、以前の押し倒し事件は彼女の中では消化されたできごとなのか。それとも琳の放つおかしな術かなにかで、ひよりの記憶から消え去ったのか。
しかし、大翔のほうはそうはいかない。しっかりと覚えている。あのとき感じたひよりの体の感覚――生々しい記憶が蘇ってきて、ついあわあわとなってしまうのを懸命に堪えた。
「おまえ、そんなペースで間に合うのか?」
心配になって思わず問うと、ひよりはこくりとうなずいた。
「間に合うよー。大丈夫」
「毎朝会わないのは、こんな時間に出てたからか」
「だいちゃんは、いつも早いんだよね」
「そうだな、十五分くらい、いつもは早いかな」
「すごいねー、だいちゃんは早起きさんだねー」
ひよりの口調でそう言われると、祖母に頭でも撫でられているような気分になる。少しばかり気恥ずかしい思いを抱きながら、大翔は歩く。
「そうだな、結構、目覚ましいらない派」
目覚ましがしょっちゅう壊れているので、これは大翔が呪詛持ちであるがゆえに身につけた技だといえるだろう。
(そういえば……)
こうやってひよりと肩を並べて歩くのは、どれくらいぶりだろうか。あの押し倒し事件から、なんとなくひよりから逃げていた自分を自覚している自分に気づいている大翔はそれ以上はなにも言わず、ただ彼女と肩を並べた。
ふたりはしばらく、桜の花びらを交えた風がひよりのスカートの裾を揺らめかせる中をゆっくりと歩いた。
大翔としては遅刻しそうで慌ててしまうのだけれど、ひよりがのんびりしているのでこれでも間に合うのかと、彼女を信じることにする。
「だいちゃん、すごいね。もてもてだね」
「へっ、なにがもてもて?」
思わず聞き返してしまった。そんな大翔に、ひよりはなおも微笑んでいる。
「乙女さんでしょ、犬尾さんでしょ、そして、最近は蔦森生徒会長」
「別に、モテてるわけじゃねぇよ……」
綾音の名を聞かされることには、胸が痛むものがある。しかしそんな心は押し隠し、大翔は努めてひよりに応えた。
「あいつらには、俺自身じゃない。ほかのものが魅力的なんだよ。だから俺に構うんだ」
「だいちゃん自身じゃないって……どういうこと?」
首をかしげるひよりに、なんでもない、と首を振ると、不思議がりながらもそれ以上は追及してこなかった。
「へー、でも、蔦森生徒会長なんて、巫女さんみたいな恰好までしてたって。……だいちゃん、巫女さんが好きなの?」
「だぁっ、違うよ! あれは、あの人のユニフォーム! 俺の好みは、関係ないっ」
「そうなんだぁ……」
しかしひよりは、今ひとつ信じていないようだ。いつの間にか、大翔は巫女服フェチと認識されるようになったのか。そのような心当たりはない、と大翔は大変に憤慨した。
「でも、巫女服がユニフォームって? 会長さん、何者なの……」
「いやぁ……俺にも、よくわからん」
爪先で頬を掻きながら歩く大翔は、はっと後ろを見た。
「逃げろ! ひより!」
「え、っ、ええ、えっ!?」
大翔はひよりを後ろから抱きとめると、自分のほうに引き寄せる。ふたりの目の前には、大翔の体くらいの大きさはありそうな犬がいた。いかにも凶暴そうな犬で、首には輪があるのに、リードがない。
「だいちゃぁん……」
犬は、大翔たちに大声で吠えた。今にも飛びかかって噛みつかれそうな勢いに、腕の中のひよりが脅えて震える。そんな彼女を全身でかばうような恰好で、海翔はせめてもと猛犬を睨みつける。
「すみません!」
声がして、見れば現われたのは母くらいの年齢の女性だ。彼女の手にはリードがあって、犬の首輪からはずれてしまったのであろうということが見て取れる。
「すみません、本当に!」
「……いえ」
女性は恐縮しながら、犬にリードをつける。飼い主には吠えないのに、犬はなおも大翔に吠えかかりたいような表情をしていた。
なおも謝りながら、女性は犬とともに去っていく。その姿が見えなくなって、大翔はやっと安堵を得た。
「危ねぇ……!」
ひよりを抱きしめたまま、大翔は大きく息をついた。腕に、柔らかいものが当たる。それに慌ててしまうものの、腕の中のひよりはか細い声でつぶやいた。
「……ありがとう、だいちゃん」
柔らかいもの、プラスほわわんと優しい声に、大翔は戸惑いながら返事をした。
「いや……、あれは俺のせいだ。巻き込んじまって、俺こそ悪い」
「だいちゃんのせい?」
首をかしげるひよりの、体の柔らかさ。胸に当たる柔らかな膨らみ。それを腕にまざまざと感じてしまい、大翔は焦燥した。
(ひ、ひよりにそんなこと、考えたこともなかったのに……!)
「だいちゃんのせいなの? どうして?」
(全然そんなふうに見えないのに、意外と、ある)
ひよりを前に、不埒な考えを抱くことなど今までにはなかったのに。これは綾音と、おかしな術をかけた琳のせいだ。彼女たちが挑発し、煽ってくるせいで、大翔のスケベ心が花開いたに違いない。それで幼馴染みの体を意識するような真似をしてしまうのだ。
(琳だ、琳が悪いんだ! あいつが、おかしなことをするから……!)
「ねぇ、どうして?」
「俺は呪い持ちだから、不運らしいんだ。それに巻き込んで……悪かった」
困って頬を掻くと、ひよりは、ふぅん、とそれ以上追及してはこなかった。ここが、ひよりのいいところだ。大翔を責め立てるような真似はしない。
「あ、だいちゃん!」
立ちあがったひよりは、腕時計を見て声をあげた。
「遅刻! だいちゃん、遅刻だよ!」
「ええっ!」
車に轢かれかけたせいで、時間を食ってしまったのだ。ふたりは慌てて、学校に駆け出す。
「まずいよ、だいちゃん走って走って!」
「おう、急ぐぞ!」
ふたりの行く道では、桜の花びらがひらひらと舞っている。
☆
教室に入っても、隣の席の綾音の顔を見ることができなかった。休み時間は祐介と一緒にいることで綾音を避けても、隣の席ならどうしても顔を見ないわけにはいかない。
「はい、資料は渡ったわね。もらっていない人、いる?」
担任の吉薗が、教室中を見まわしながら声をあげる。大翔の手に渡った資料はA4版の紙をホッチキスでとめたもので、表紙には『新入生オリエンテーション』と書いてある。
(そういえば、そういうのがあった……!)
大翔は、すっかり忘れていた。なにしろ入学式からこちら、あまりにもいろいろなことがありすぎたのだ。行事のことなど、頭になかった。
「来週は、二泊三日のオリエンテーションに行きます。行き先は、山辺山。山の保養所で、三日間過ごします」
山かよー、などと不平の声も聞こえてきた。吉薗ははいはいと受け流し、話を続ける。
「クラスメイトたちと仲よくなってもらうのと、この北御門高校のことをもっとよく知ってもらおうという企画です」
吉薗は、ちらりと大翔のほうを見た。なぜ視線を向けられるのかが不審で、首をかしげた大翔に、吉薗は少し微笑んで言う。
「まぁ、もう仲よくなってくれてる人たちもいるみたいだけど」
ぶっ、と思わず噴き出してしまう。クラスは笑い声に湧き、大翔は居心地の悪い思いをした。
しかしその元凶――隣に座る綾音には目が向けられなくて、大翔は努めて目を逸らせる。綾音も、大翔を前のように見つめたりはしない。ちらりと見えた彼女はどこか意気消沈しているようで、それが大翔の「ほかのやつを探せ」という言葉ゆえであるのなら、ますます大翔は、彼女のほうを見られない。
「このオリエンテーションの主催は、生徒会です。生徒会のメンバーはもちろん、ほかにも各クラブの部長とか、上級生もたくさん来ます。わからないことがあったら、わたしたちだけじゃなく、上級生にも訊いてね」
生徒会。その言葉に、とっさに浮かんだのは巫女姿の志保――符呪を持って身構える、凛々しい志保だ。
「バーベキューとか、パーティとか楽しい企画もたくさん用意してるから。きっと、楽しんでもらえるわ」
行き先が山か、とブーイングをあげた生徒たちも、吉薗の言うことにだんだん「面白そうだ」と思い始めたのか、教室の空気は楽しげなものになってくる
そこでドアが叩かれた。吉薗が「はぁい」と言うと、ドアが開く。入ってきたのは、志保だ。
思わず身構えてしまった大翔だけれど、志保はもちろん巫女服などではなくちゃんとセーラー服を着ているし、ほかの生徒会のメンバーも続いて入ってくる。ここでは「祓わせて」と迫られることもないだろうと、大翔は少しだけ胸を撫で下ろした。
「こんにちは、皆さん。オリエンテーションの資料、目を通してくれましたか?」
はきはきとした声でそう言う志保は、第一印象通りにきりりと、まさに『生徒会長』というにふさわしく、ともすれば教師よりもてきぱきと話を進めていく。
「先生からも説明があったとおり、山辺山に行きます。まだ話したことのないクラスメイトとかもいるだろうから、この期に話しかけて、まぁ無理やり仲よくなれとは言わないけれど、せめて顔くらいは覚えてください」
はい、と手を挙げた者がある。志保はすかさず、その生徒を指した。
「勉強とか、するんですか。上級生に教えてもらったら、はかどると思うんですけど」
「勉強はねー、とりあえず今回の企画には組み込まれてないんだけど。でも、ご要望があったら、します。先生もついてきてくださるし、先生に聞くのも、ありです」
しかし大翔の頭には、志保の声がすべては入ってこなかった。三日間、山で。そこには綾音も、琳も、志保までいるのだ。
(変な騒ぎになりませんように)
大翔は、祈った。ちらりと隣を見ると、綾音と目が合って。綾音が慌てたように目を逸らすから、彼女がこちらを見ていたのだということがわかる。
(……綾音と一緒なのは、……気まずいなぁ)
なにしろ、綾音を突き放すようなひどいことを言ってしまった大翔だ。そんな自分が気まずいなどと思うのはお門違いかもしれないが、しかしクラスも一緒、出席番号も前後のふたりが行動班などで一緒になることは充分に考えられることで。そのとき綾音を前にどのような態度を取っていいものか、そう思うと大翔はつい引け腰になってしまう。
「お約束のキャンプファイヤーとかも予定してますから。楽しみにしておいてください」
おお、と歓声があがる。最初は今ひとつ乗り気ではなかった生徒たちも、志保の話に少しずつ楽しみを期待する気持ちが膨らんできたようだ。
そんな中、大翔はひとり気が乗らず。きっと顔にも出ていたのだろう、心配そうな顔をした志保と視線が重なった。
(ヤベ……)
大翔は首を振り、心配そうな志保の視線を振り切る。拍子に今度は綾音と目が合いそうになって、慌てて逸らした。
(オリエンテーションかぁ……こんな調子で俺、大丈夫なのかな)
思わずため息をついて、それはますます志保の懸念の表情を誘ってしまった。
☆
山の麓までは、バスで。そこから目的の保養所までは、歩きで。
「え、歩いて登るの?」
荷物の多い女子などは不満そうだったけれど、大翔たちにはなんということもない。大翔は祐介と並んで歩きながら、しゃべっている。
「このオリエンテーションは、同級生とかと馴染みになるためのものだろう?」
「まぁ、そうらしいな」
「じゃ、俺たちがくっちゃべってても仕方なくねぇ?」
祐介はもっともなことを言い、そうだな、と大翔は笑う。
「まだクラスのやつ、全員顔も覚えてないもんな。そういうやつらと仲よくなれっていうのがオリエンテーションの目的です」
戯けてそう言うと、祐介はうんとうなずいた。
「じゃあさ、俺、乙女さんと話してきていい?」
「なんで俺に聞くんだよ!」
思わず声をあげてしまった。すると祐介は、少しいたずらめいた顔で、言う。
「だってさ、乙女さんおまえと超仲いいだろ? あの人に話しかけるのは、おまえの許可がないと、と思って」
「そんなの、必要ない!」
そうか? と祐介は首をかしげている。まわりの者は皆そういう認識なのか、と目眩を覚えるけれど、祐介の立場に立ってみれば、さもありなん。入学式から熱烈な視線で(もちろん、大翔が呪詛持ちだからだけれど)大翔を見つめてきた綾音だ。そんな彼女に関わろうとするには、大翔がまったく無関係だとは思えないだろう。
「じゃあ、好きになったり告白したりしてもいい?」
「だから、俺の許可はいらんって……」
そう言って大翔は、思わず祐介を凝視した。
「……告白って。おまえ、そういう気持ちなわけ?」
「いや、まだそうじゃない、そうじゃないけど。もし好きになったりしたら……なぁ」
意味ありげに、祐介はにやりと大翔を見てくる。
胸の奥が、ずくりとした。頭の中で映像がまわる。綾音が、大翔ではない誰かの腕を取っていて。あの声も、まなざしも、なにもかもがその誰かにだけに注がれていて。
(綾音が、誰か、と……)
その光景に、思わず目眩がした。綾音が、あの大きな瞳が見つめるのが自分ではない。その想像だけで、これほどにショックを受けるとは思わなかった。
(……そうしろって言ったのは、俺だ)
「おい、大翔」
ぽん、と肩を叩かれる。
「大丈夫か? そんなにショックだったか?」
「いや……すまん」
傍目にそう見えるほど、大翔はショックを受けたような表情をしていたのか。人からもはっきりとわかるほどそのような顔をしていたなど、恥ずかしいけれど、それよりも自分がショックを受けていることが驚きだった。
「おまえがいやなんだったら、別に乙女さんに近づこうとは思わねぇよ。聞いてみただけ」
「いや……いいんだ。別に綾音とつきあってるわけじゃないし、おまえがあいつ、気になるんだったら、話しかけるのとか当然だろう?」
「本当に、つきあってないんだな?」
「つきあってないよ」
そう言って笑ったものの、うまく笑いになっているかどうか自信がなかった。
「綾音がいいんだったら、俺が口を挟むことじゃない。本人が決めることだ」
「ふぅん……」
祐介は、なおも訝しげな顔をして大翔を見ていたが、そっか、と軽い口調で言った。
「おまえがいいって言うんなら、いいんだな。よし、このオリエンテーションでは、乙女さんに話しかけることを目標にする!」
「まぁ、頑張れ」
そうは言いながらも、本当に祐介が綾音とつきあうようなことになったら。綾音が大翔ではない、祐介にあの視線を向けるようなことになったら――。
あまりにも具体的な想像が浮かんできて、大翔はぶんぶん、と首を振った。そうしろと言ったのは自分なのに、実際にそうなったら気分を悪くするなど、お門違いだ。そうは思ってはいても、どうしても胸のつっかえが取れないのは――。
「よう、ずいぶんのんびりだな。そんなペースだと、上に着くのは夜中になるぞ?」
「なんだ、樋口」
中学校から一緒の、樋口という同級生が声をかけてきた。大翔も挨拶をし、三人が肩を並べて歩くことになる。祐介はそれ以上綾音のことを口にせず、だから大翔も綾音のことはできるだけ頭から追い出して、樋口を交えた歓談に集中しようとした。
宿泊施設である保養所は、コの字の形をした建物だった。
右側が男子、左側が女子。中心には食堂と娯楽室、そして大浴場がある。
保養所に着いたのは昼すぎのことだった。それから点呼、世話になる保養所の管理人さんたちに挨拶、各部屋に別れて荷物の整理。
そうこうしているうちに、間もなく夕食という時間になった。あと三十分ほどで、食事を知らせる館内放送が流れるらしい。
「女風呂、覗けねぇかなぁ」
荷物の整理をしながら祐介が言った。
「おまえ、さっきからそればっかりだな」
「だって、こういう機会なんかなかなかないんだぞ? 覗きは男の夢だ!」
「そんな夢、持つな。覗きなんてばれたら、退学もんだぞ?」
左右にわかれているとはいえ、ひとつ屋根の下に女子がいるというのが祐介の男を刺激してしまうらしく、同じ会話が繰り返されている。
「せっかく入った高校、退学になんかなりたくないだろう」
「いや、それはそうだけど……」
大翔の冷静なツッコミに、祐介は意気消沈してしまう。
「あああ、つまらねぇな! ここに、こう裸の美少女が、いきなりばばーんと現われないもんかなぁ」
「そんなこと、あり得るわけがないだろう」
祐介が、畳の上に大の字になる。大翔は、そんな祐介の腹を踏んで、部屋の隅に行く。
「いってぇ! なにすんだてめぇ!」
「柄悪いなー。邪魔だから踏んだだけだ」
「この祐介さまを足蹴にするとは、いい度胸だなぁ!?」
部屋の隅に整理の終わったバッグを置いていた大翔は、後ろから祐介にしがみつかれた。
「おい、やめろよ」
「いーや、この俺さまを踏んだ罪は重い。相応の刑に処してやる」
腕を首にまわし、ぎゅうぎゅうと締めあげられる。
「く、苦しい、って! やめろよ!」
「いやいや、やめないぞー、とことんまで、この体に思い知らせてやる」
首を絞めたまま腕をすべらせて前にまわり込まれ、その体勢で再び首を絞められ、ギロチンチョークを決められる。このまま畳を叩いてしまうのは悔しかったので、いかにして抜け出し、自分から技をかけられないか試みる。
しかしいきなり友達に技をかけることに慣れた祐介の隙を見つけるのは難しく、ふたりで畳をごろごろと転がるはめになった。
「はっはっは、おとなしく我が軍門にくだるのじゃあー!」
「なにぃ、そう易々と負けてたまるかぁ!」
とんとん、とドアをノックする音が聞こえる。しかしふたりは技をかけあうのに忙しく、返事をしている場合ではなかった。
「いるんでしょう? 入るよー」
ドアが、がちゃりと開けられる。そこに立っていたのは、志保だった。技をかけあっているふたりは、一匹の軟体動物のように見えたかもしれない。
「……なにやってんの?」
心底呆れたように、志保は言う。ふたりは、どちらからともなく技を解いた。おもわず畳のうえに、正座してしまう。
「いや、なんでもいいけどね。神嶋くん、これこれ」
「あ、はい」
また、委員長としての仕事があるのだろう。大翔はうなずき、立ちあがった。
「勝負はあとでね。まぁ、プロレスごっこするくらいに仲よくなったのは、いいことだけれど」
「あいつとは、幼稚園から一緒なんですよ」
あら、と志保は言う。この生徒会長に、子供のようにプロレス技をかけあっていたところを見られたのは恥ずかしい。大翔は「覚えとけよ!」と怒った顔を祐介に向けた。
「じゃあ、部屋割り間違えたわね。話したことのないクラスメイトと仲よくなってもらうというのが、このオリエンテーションの目的なんだけど」
「それはそうですけど。でも、イベントとかいろいろあるんでしょう? そういうので仲よくなるから、いいですよ」
大翔はそう言いながら、志保からプリントの束を受け取る。
「クラスの子たちに、プリント配ってほしいのよ」
それは面倒な仕事だと思ったけれど、口には出さない。プリントはふたつの束になっていて、志保はひとつを副委員長に渡せと言う。
「副委員長は女子、神嶋くんは男子の部屋をまわってね。明日の細かい計画表だから」
「わかりました」
プリントを見ると、十時からドッジボール大会、とある。
「高校生になって、ドッチボールですか……」
思わずそう言ってしまい、すると志保がかわいらしい声で笑った。
「ドッジボールだと、お互いの顔覚えやすいと思って」
「まぁ、確かにそうですけど」
しかし、ドッジボールなど小学生のときにやって以来だ。ルールがどういうものだったかも朧気で、大翔は尋ねる。
「俺の知ってるのは、当たったら、自軍の外に出る。外からも攻撃は可能で、敵に当てたら自分は生還」
「あれ、そういうルールだった?」
志保が、首をかしげる。
「わたしが小学生のころやってたのは、当たったら敵になるのよ。外野から、味方だったフィールドを攻撃するの。もと味方に当てられたら、敵陣営に入るの」
「なんだか、因縁残りそうなルールですね」
眉をしかめた大翔に、志保が笑った。
「学校のドッジボールじゃいろいろローカルルールがあってもおかしくないわね。で、北御門高校でのドッジボールのルールは、これが伝統なの」
これ、と言いながら、志保は大翔の手にしたプリントを指す。
「伝統、ですか……」
ドッジボールを伝統としてやっている高校、というのもなかなかないのではないだろうか。志保は「じゃあ、頼むわね」と去ってしまった。
大翔は部屋を出て、女子の棟に向かう。しかしそちらへの敷居をまたぐ勇気はなく、きょろきょろとしているうちに、出入り口を通りがかった女子がいた。
「あ、ごめん! 犬尾さん、呼んできてくれるかな?」
女子は快諾してくれ、琳はすぐにやってきた。大翔のもとに近寄ってくる。
「ねぇね、綾音のこと、振ったんだって?」
大翔がやってきた理由も尋ねずに、第一声、琳はそう言った。
「振ったとか振られたとか、そういう仲じゃねぇって言ってるだろうが」
そう応え、大翔はじろりと琳を見やる。
「おまえ、なんで知ってるんだよ」
「最近、綾音が暗いなぁ、と思って聞いてみたの。そしたらなにも言わないから、そうなんだと思って。綾音、しょげてたわよー?」
そう聞かされると、胸に疼くものがある。大翔は少しだけくちびるを噛んで、凜から目を逸らせた。
そんな大翔を窺っていた琳は、嬉しそうに言葉を続ける。
「ま、いいことよ。犬神さまの呪いを食うだなんて、ましてや祓うなんてとんでもないからね」
大翔に向かって、琳は嬉しいことがあったかのように、にっこりとした。
「それに、綾音を振ったってことは、わたしのほうがいいってことだもんね」
「どうしてそうなる」
思わず琳を睨みつけてしまい、琳は肩をすくめ、しかし笑みはそのままだ。
「だって、綾音はいやなんでしょう? でも、わたしは振られてないし。大翔だって、わたしが話しかけてもいやな顔しないし。ってことは、綾音じゃなくてわたしを取ったって、わたしは考えてるんだけどー?」
「ふたりとも却下、ということもあるぞ」
「あははっ、大翔ってば贅沢者ー!」
笑っている琳と苦虫を噛み潰したような大翔の前、通りがかった者が訝しげな顔をしている。
「そういえばここ、大浴場がものすごく広いの」
プリントを受け取ったあと、琳が言った。
「みんな、楽しみにしてるんだぁ。さすがに温泉じゃないけど、泳げるくらいに広いんだよ」
「泳ぐなよ」
風呂と聞くと、祐介が女子の風呂を覗くことにずいぶんな興味を示していたことを思い出してしまう。彼を野放しにはしてはいけない、と大翔は己の使命を改めて確認する。
「じゃあねぇ、また夕ご飯のとき」
ぱたぱたと手を振って、琳は去っていった。大翔も男子の棟に帰り、このプリントを配ってまわらなくてはいけない。
夜の食事は、具がたくさん入った味噌汁と、魚の甘辛煮つけとおからの副菜。正直、家で食べるものより豪華で、大翔はありがたくいただいた。
高校生の胃には少しパンチが足りないが、皆ここまで歩いてきたこともあって残さず平らげている。入ったときに挨拶した、管理人たちが食事の世話もしてくれた。
夕ご飯のあとが、入浴だ。祐介の準備が妙に早いのは、この時間を楽しみにしていた――すなわち覗き行為をするつもりなのではないか。
そう疑った大翔は、祐介を止めようとする。
「やめとけよ、覗きなんか」
「そんなことしねぇよ!」
そのわりには、祐介は入浴の準備万端だ。バスタオルと着替えを前に、正座をしている。
「じゃあ、まだ早いって。一班から順番に、って言われただろう?」
「うっ……」
そこで肩を落とすあたり、実はやるつもりだったのではないか。大翔は、祐介の愚かしい行為を見張っていなければと決意を新たにした。
そんな大翔の耳に、廊下中に響く声がする。
「あがったぞー。二班、行けよー」
間延びした声をあげながら、一班の者たちが廊下を歩いていく。祐介はすっくと立ち、大翔も彼に倣う。
「大浴場、すごく大きいらしいぞ。楽しみだなぁ」
「……おまえ本当に、別のことを楽しみにしてるんじゃないだろうな」
ほかの部屋から、二班の者が出てくる。入れ違いの一班の者たちがしきりに風呂が広かったと言っているので、期待をしてもいいようだ。
二班の面々は連れ立って、廊下を行く。大翔は(祐介の行為を邪魔するつもりで)先を行き、ひとりで浴場の前に立った。
左が男子用、右が女子用。かかっている青と赤ののれんの色でそれを確認し、大翔はがらりと浴場のドアを開けた。
「あ、っ……?」
全裸の、女の子が、いた。
一瞬、なにが起こったのかわからなかった。ふたりは互いを見つめあい、その場に唖然と立ち尽くす。
結いあげられた濡れた髪は、烏の濡羽色。首筋は白く、透きとおっているかのようだ。なだらかな肩も白くて、まるで壊れもののようだった。
目に入ったのは、白くて丸い、ふたつの――その上に、薄い紅色に染まった突起があって、その小ぶりなさまは彼女の澄んだガラスのような体にふさわしかった。
かすかに骨の浮いたみぞおち。そこから至る平らな腹は、その中央にある小さな窪みさえ慎ましやかだ。
そしてその下、髪と同じ色をした、薄く淡い、茂み――。
「わぁ、あぁ、ああっ!」
「きゃーっ、きゃーっ、きゃーっ!」
全裸の彼女――綾音は、凄まじい悲鳴をあげる。その声にはっとして、大翔は慌てて脱衣所を飛び出した。そこにいた祐介につかまり、激しく呼吸を繰り返す。
「な、な、なんなんだ!?」
「みみみ、見ちゃった……!」
なにを、という前に、同じ班のひとりが言った。
「あれっ、これ逆じゃないのか?」
「あ、さっき見たときは、右が男子用、左が女子用、だったよな?」
思わず泣きそうになった大翔は、女子風呂の脱衣所から出てきた女の子の軍団に責め立てられ、犯罪者よろしく手を後ろ手にタオルで縛られ、臨時の生徒会室に連行されたのだった。
「本当ですって、信じてください!」
腕は後ろで縛られたまま、椅子に座らされた大翔は、声をあげた。
「のれんが、左が青、右が赤だったんです! 青のほうが男子用って思うじゃないですか!」
「それは、確かにそうだわね」
こちらは裁判官よろしく、志保がボールペンを握ったまま、うなずいた。まわりには生徒会役員たちがぞろりと揃い、みんな――特に女性は、嫌悪の表情で大翔を見ている。その視線は、なによりも大翔の心を抉った。
「だから、脱衣所に入ったんです! 他意なんかありません! のれんが入れ替えてあるって知ってたら、絶対近寄りもしませんよ!」
「では、のれんを付け替えたのは、誰かのいたずらだと?」
大翔は、大きく頷いた。
「そうです、それ以外ないです! 女の子たちだって、自分たちのところに青いのれんがかかってるの、おかしいって言ってたでしょう!?」
「その証言は、確かに受け取ってるわ。当のあの場にいた女子がみんなそう言っているのだから、間違いはないと思うけど」
ボールペンの尻部分でくちびるの下を押さえながら、考え込む素振りを見せている。
「ただ、直接の被害者がね。絶対許さないと泣いているそうなのよ」
「う……」
過失とはいえ、綾音を泣かせてしまったのか。そう思うと、縛られた腕の痛みなどなんでもない。綾音のほうが、よっぽど辛かったのだから。
「あの、俺……謝りに行きます」
「でも、謝ったりなんかしたら、自分が全部悪いのだと――もしかしたら、のれんの入れ替えも、よ。すべてが神嶋くんのせいだって言われるわよ?」
「でも……綾音……乙女さんを泣かして、そのままじゃ気が治まらないです」
なおも志保は、ボールペンの尻で顎を押した。
「……まぁ、のれんの入れ替えの犯人は、近いうちにに必ず割り出す。非がないんだったら、その点には堂々としておくことね」
「ありがとうございます……」
思わず大翔は頭を下げ、そんな大翔に志保は苦笑する。
「乙女さんに謝りに行くなら、ついていってあげましょうか?」
一瞬、そうしたほうがいいのかと思った。しかし人に頼るようでは男が廃る。大翔は顔をあげ、ぐっと体に力を入れた。
「結構です。俺、ひとりで行きます」
ふぅん、と志保が、感嘆したような声をあげた。
「男性不信になっている女子の中に、ひとりで飛び込むってこと? 女の連帯力は、すごいわよ? 特にこのような事件があったあとだったら、向こうの棟の女子は、すべて心をひとつにしているでしょう。のれん入れ替えの犯人が誰かまだ判明していない以上、非難はすべて君に一点集中よ」
志保はひとつ、ため息をついた。
「それでも、行くって?」
「……はい」
綾音を泣かせていると思うと、いてもたってもいられなかった。女子の連帯力、その恐ろしさは知っているつもりだ――その渦中にいたことは、今までにはないけれど。しかしそれに対する恐怖よりも、綾音に謝りたい気持ちでいっぱいだったのだ。
「行きます」
「わかったわ」
にやり、と志保は笑うと、大翔のタオルを解いてくれた。妙な角度でねじ上げられていたので、腕が痛い。
「女子は、あっちの棟の三階。B組の部屋のどれかに固まっているそうよ」
「そうですか、ありがとうございます」
志保と生徒会役員たちに頭を下げ、大翔は部屋を出た。大きく息を吸い、迫りあがる緊張に少し目眩を感じながら、女子の棟に向かう。
B組の部屋は二階にある。これはしおりに書いてあることだ。大翔は二階への階段をあがる。廊下を曲った向こうに女子たちは集まっているらしく、小さな声が聞こえてくる。
緊張が、いや増す。虎穴に入らずんば虎児を得ず、とは言うが、この先は虎穴よりもなお恐ろしい場所なのだ。
志保にはああ言ったもの、なかなか足が前に出てくれない。深呼吸を何度も繰り返し、自分に「落ち着け」と言い聞かせ、それを何度も繰り返したあと。
「……よしっ」
強い握りこぶしを作り、何度目かになる決意を固め。そして大翔は、廊下を曲った。
「なに……、神嶋くん!」
振り返った女子が、声をあげた。その場の者は一様に振り向き、皆が揃って、嫌悪の表情を見せた。
「なにしにきたの」
ごくり、と固唾を呑む。そして、できるだけ大きな声で言った。
「綾音……乙女さんに、謝りに来た」
「謝る、ですって?」
ひとりが、甲高い声をあげた。
「あんなことしておいて、よく顔が出せるものね。乙女さんは、あんたなんかに会いたくないってよ」
「すごい厚かましいわ。さっさと帰って」
「覗き魔、なんて。同じ学校にこういう人がいたってだけで、ものすごく屈辱なんですけど?」
嫌悪の叫びが飛び交う。覚悟はしていたが、これでは恐らく部屋の中にいるのであろう綾音に会うこともできない。
「乙女さんに、謝りたいんだ。会いたくないないって言うんなら、顔は見せないからさ。ちょっと、静かにしてくれる?」
そう言った大翔に、女子たちはなおも怒りを隠さないまま、それでも口だけはどうにかつぐんでくれた。
大翔は、その場に正座する。そして前に手をついた。
「綾音……乙女さん!」
部屋の奥に綾音がいても、聞こえるだろう声で大翔は言った。
「ごめんなさい!」
その場が、静まり返った。大翔は頭を下げ、もう一度同じことを言う。
女子たちは、虚を突かれたように黙り込んでいる。その間を縫うように、部屋の奥からしゃくりあげる声が聞こえた。
(綾音……、泣いてるのか)
ずきり、と胸が痛む。知ってはいたが、こうやって泣き声を聞くと罪悪感がつのる。同時に、最初は「呪詛を食べさせて」と大胆に迫ってきていた彼女のことを思うと、なにがそれほどに綾音を変えたのか、不思議でもあった。
女子たちが、声をあげる。
「ちょっと、乙女さん!」
「行くの? 相手は、覗き魔よ?」
「行くことないのに。このまま、退学にでもしてやればいいんだわ」
綾音を囲んでいるのであろう女子たちの言葉が恐ろしい。本気で大翔を退学させようと思えば、彼女たちには易々とやってしまえるのだろう。
「乙女さん……」
部屋の出入り口に固まっていた女子が、戸惑いとともに道を空ける。
現われたのは、綾音だった。その姿を前に、大翔はどきりとする。
綾音は、くしゃくしゃになったハンドタオルを手にしていた。目のまわりは真っ赤で、目はいつも以上に潤んでいる。泣き腫らした顔――大翔は、胸のうちで自分を責めた。彼女にそのような表情をさせたのは二回目だと思い、心底申し訳ないと思う。
綾音はなおもしゃくりあげながら、大翔の前に立った。見下ろしてくる彼女に、大翔はがばっと、再び頭を下げる。
「ごめん! 本当に、悪かった!」
綾音は、なにも言わなかった。ただ彼女がすんすんと洟を啜る音だけが、聞こえてくる。
「申し訳、ない!」
「もう、いいから」
泣き疲れたような声で、綾音は言った。
「いいから、顔、あげて」
ゆっくりと、大翔は顔をあげる。それでも完全にはあげず、ちらりと上目遣いで綾音を見た。
「本当に、ごめん。悪かったよ……」
「いい、もう」
小さな声で、綾音は言った。
「わざとじゃないんでしょう? のれんが入れ替わってたんだよね?」
もちろんそうなのだが、ここで「そうだ」と言ってしまえば、のれん入れ替え犯に罪をすべて背負わせようとしているようだし、事実大翔は見てしまったのだから、言い逃れはしたくないと思った。
「わたしも、ちらっと見た。女子用のお風呂に、青いのれんがかかってて」
すん、と綾音は鼻を鳴らす。
「仕方ないよね、間違えちゃったんだよね」
綾音を泣かせることになったのは、自分の非だ。言葉を並べることは男らしくないと思ったので、大翔はなにも言わなかった。
「わざとじゃなかったって、言って。あれは、事故なんだって」
「乙女さん、許しちゃう気?」
女子たちが、いきり立つ。
「のれんを入れ替えたのは別の誰かだったりしても、神嶋くんは本当に見たんだから」
「そう、その罪は消えないよ。それを許しちゃったら、調子に乗るよ?」
言いつのる彼女たちを、綾音は手をかざして押さえた。そして大翔の前に膝を立てて座ると、じっと見つめてくる。
「ねぇ、そうなんでしょう? 事故だったって、言って」
「……でも、みんなの言うことは、もっともなんだ。事実は、覆らない」
呻くような声で言った大翔を、綾音は覗きこんでくる。
「事実はともかく、大翔の口から聞きたいの。わざとじゃなかったんだ、って」
綾音は口を閉じる。そして涙で濡れた目で、じっと大翔を見つめてきた。
そのまなざしに背を押されたように、大翔は口を開いた。
「わざとじゃ、ない。本気であっちが男風呂だと思って開けたんだ」
大翔の言葉に、女子たちがざわめく。
「そんな、嘘ばっかり!」
「わざわざ謝りに来たってのも、怪しいよね? 謝れば済むと思ってるから、来たんじゃないの? 土下座とか見せられたら、許さないこっちのほうが心狭いみたいになるでしょう」
彼女たちは、怒りに油を注がれたとばかりに、声をあげる。しかし綾音は大翔を見つめて、少しだけ、笑った。
「大翔の口から、それが聞けたら、いい」
綾音は、そう言った。それに女子たちが、口をつぐむ。
「犯人とか、もうどうでもいいの。見られたのが大翔で、よかったわ」
目はなおも涙を湛えながら、にっこりと微笑んだ。泣いている綾音はか細く、小さく感じられた。女子たちが綾音をかばうのもわかる。あのような姿を見せられては、同情の気持ちが湧きあがらないほうがおかしいのだ。
しかしこうやって笑う顔は、普段の笑顔に輪をかけて大翔を押し包む。泣かせるのは本意ではないが、このような顔をするのだということを知ることができたのは、おかしな形での収穫だと思った。
「でも、すんなりとは許してあげないわよ」
口調が、いつもの綾音のものに戻りつつある。そのことにほっとしながら、大翔は尋ねる。
「どうしたら、許してくれるんだ?」
綾音は、にやりと笑った。
「明日のドッジボールで、永遠に死ねないって呪いを、かけてあげる」
「永遠に死ねない……?」
意味がわからなくて問い返したものの、綾音は微笑んだままだ。
いやな予感がした。大翔はじっと綾音を見つめたものの、しかし綾音はいたずらを思いついた表情で、なにも言わない。目は涙に濡れたまま微笑んでいる顔は、ここが衆人環視の場所でなければ、「美しい」というよりは「かわいい」と称賛したくなる表情を浮かべていた。
☆
綾音の意図は、彼女の言うとおりドッジボールの時間にわかった。
「茜ちゃんのために、死んで! 神嶋くん!」
「どわぁ、ああ、っ!」
何度目になるか、もう忘れてしまったくらいにボールをぶつけられた。腹や背中は、あちこち痣になっているかもしれない。
「もう、いい加減にしろよー!」
「ふふふ、無抵抗の者をいたぶるのは気持ちがいいですね!」
悪代官のようなもの言いで、ボールをぶつけてくるのは自軍のプレイヤーたち。広いとはいえないコート、しかもこの至近距離からのボールをぶつけられ続けては、大翔はたまったものではない。
綾音の進言で決まった変則ルールにおいて、大翔はボーナス点のためのスイッチのような存在なのだという。自軍のコートにいる大翔にボールをぶつければ、コート外に出た味方をひとり、コート内に呼び戻せる。
しかし何度ボールを受けて『死んで』も、大翔は外に出ることはできない。しかも大翔はひとりが帰ってくるたびにコートを移らねばならず、始終双方のコートをうろうろしなくてはならない。
相手のコートに移ると、またボールをぶつけられて、外に出た者が帰ってくる大翔はコートを替わる。ひたすら、試合の終了を待つばかりだ。しかし大翔がいることで復活者が多く、なかなか試合は終わらない。
「神嶋くーん、もっと真面目に逃げないと、いつまで経っても試合が終わらないよ?」
ひとりが復活して、大翔はコートを移る。そこでまた強烈な一発を浴びて、コートを替わる。
永遠に死ねない呪いとは、文字通り永遠に大翔をさいなみ続けた。さすがに男子は大翔にボールをぶつけることはなく、ぶつけてくるのは女子ばかりなのだが、それがもとハンドボール部だったりすると、男子よりも強いボールを投げてくる。
おまけに、女子に『死んで!』などと言われるのは、ぞっとしないものがある。つくづく、女の恐ろしさを思い知ったと思ったドッジボール大会だった。
思ったとおり、背中に腹には痣ができていた。
「うわぁ、強烈にやられたなぁ」
「痛ぇよ……」
ようやっとドッジボール大会が終わり、自室に戻ることができた。Tシャツをめくってみた大翔は泣きそうな声で訴え、祐介が同情の視線で見やる。
「そもそもは、のれんを入れ替えたやつが悪いんだから、そいつさっさと見つけて、絞めてやったらいいんじゃね?」
そのときには得意のプロレス技でも出そうというのか、肩をぐるぐる動かす祐介を前に、大翔はため息をついた。
「そんなことしたって、俺たちだけで見つけられると思うか? 生徒会長たちに任せるよ」
「まぁ……あの人たちになら、任せてもいいって思うけどさ」
なおも腕をまわしながら、祐介は言った。
「でも、おまえが本気で探すっていうんなら、俺も手伝うからな! そのときは声かけろよ」
「うん、サンキュー」
痣になったところを撫でながら、大翔は礼を言った。頼もしい友達がいてラッキーだとは思うが、しかし浴場事件に巻き込まれ、こうやって痣をいくつも作るはめになって。やはり不運体質は変わっていないのか。
(食べてもらえるんなら、呪い、食べてもらいたいなぁ……)
ふと、そんなことを思ってしまう。
(……でも、食べてもらうためには……アレ、だからなぁ)
いくら自分の不運がいやになったとはいえ、『大人の行為』に踏み出せるはずもない。いくらなんでも(たとえあちらが望んでいるのだとしても)年齢的にも早すぎるし――なによりも、大翔にその勇気がない。
(ヘタレだと、言わば言え!)
綾音に琳に、術に操られていたとはいえ、ひよりにまで。押し倒されることになっても、据え膳とは思うことのできなかった大翔だ。ヘタレの称号など、今さらである。
なんだか開き直る気持ちになって、大翔はえいやっと脱ぎかけのTシャツを脱ぎ、新しいものに替える。脱いだシャツには、あちこちにボールの痕がついていた。
ドアを、こんこんと叩く音がする。
「ん、誰?」
祐介が言った。大翔も扉のほうを振り返る。
「大翔。いる?」
綾音の声だ。大翔はドアに向かい、開けた。
「あ、大翔」
ドッジボールの間は、ほかの女子たちと笑っていた綾音だ。しかし今の彼女は、どこかおどおどと、上目遣いで大翔を見てくる。
「今、いい? 出られる?」
「おう、問題なし」
振り返り、祐介に外出の旨を告げる。呑気な調子で「行ってこいよ」と言われた。
それ以上、綾音は声を出さなかった。廊下を行き、階段を降り、建物の裏手に出るまで、綾音はなにも言わなかった。
(まだ、怒ってんのかな……)
そう思うと、彼女に後ろについていくのが恐ろしいように感じた。しかしかといって、わざわざ迎えに来てくれた彼女の誘いを断わるのも申し訳ない。しかし話はやはり、浴場事件のことだろう、と、考えているうちに綾音の足がとまる。
「大翔」
くるっと振り向き、綾音が言った。長い黒髪が、ふわりと揺れる。彼女はどこか、申し訳なさそうな顔をしている。
「今日は、ごめんね」
「いや……、別に。大丈夫だよ」
痣ができたのが、服に隠れた場所でよかった。見えるところについていては、綾音はもっと気にするだろう。
「あそこまで、させたかったわけじゃないの。でも、大翔がなんらかのペナルティ受けないと、みんなが納得しなかったから」
「……ああ」
志保の言っていたことを、思い出した。女の連帯力は、すごい。それは当の被害者である綾音が、怒っている友達に気を遣わなくてはいけないほど凄まじいものなのだ。
「試合中も、ほかの子と一緒に笑ってて、ごめんなさい」
ぺこり、と綾音は頭を下げる。大翔は慌てた。
「あれも、ほかの女子にあわせないといけなかったんだろう? わかってるから、頭なんか下げるな」
「うん……」
顔をあげた綾音は、少し涙ぐんでいた。大翔はますます慌ててしまう。
「泣くなよ、今はなんでもないだろう?」
「大翔が優しいから、泣けたの」
そう言って、小さく洟を啜るしぐさがどうしようもなくかわいい。それをじっと見ていたい衝動に駆られて、しかし泣いている綾音を前にそんなことをしてはいけないと、慌てて自分を戒めた。
「俺こそ、ごめん」
「え?」
綾音は、なぜ大翔が謝るのかと訝しげな顔をした。
「だって、見たのは事実だからさ。わざとじゃないとはいえ……悪かった」
「いいの。だって大翔には、そのうち見せるんだもん」
とんでもないことをさらりと言って、大翔は慌ててしまう。そんな大翔に少しだけ笑って、綾音は続ける。
「大翔しかいないところで見られたんだったら、全然構わないのに。ほかの子もいっぱいいたから、死ぬほど恥ずかしかった」
そう、綾音は恥ずかしがり屋なのだ。大翔を構うときは昼間から押し倒してくるくせに、見る者がいればもうそれだけでだめなのだ。
(今回はひどい目にあったけど……こんな綾音も見られて、ちょっとラッキーかも)
思い出したのか、トマトのように顔を赤くしている綾音を前に、口が緩むのを止められない。大翔は手を伸ばし、綾音の肩に置いた。
「悪かったよ、本当に」
謝りながら、大翔はこのオリエンテーションに来る前のことを思い出していた。綾音にひどいことを言ったことも、蘇る。
「あの……悪かった。……前も。ほかの呪詛持ち探せとかいって、悪かった」
そのことはずっと、大翔の胸を鋭くさいなんでいた。ようやっとそう言うと、綾音は少し嬉しそうな顔をする。
「ううん、いいの」
潤んだ瞳で綾音は言って、それが笑顔なものだから、よけいに痛々しさが伝わってくる。
それにしても、これが出会ったばかりのことならこのような柔和な笑顔を見せてはくれなかっただろう。つんと澄ました表情も美しいけれど、目の前の笑顔は、心底かわいらしいと思う。
そのかわいらしい表情と声のまま、綾音は言う。
「わたしは、大翔がいいの。ほかにも呪詛持ちはいるけれど、わたしが食べたいと思ったのは、大翔のだもん。ほかの人間のじゃ、意味ないの」
「そう、か」
大翔はうなずき、すると目は泣きそうなまま、綾音はそっと大翔に近づいてきた。
一歩、また一歩。ふたりの距離が近づく。
(……あ。キスする、みたいな)
ふたりの間はもう二十センチもなくて、綾音が目を閉じているから。つい、そんなことを考えてしまう。
(本当に……キスなのかな)
今までさんざん、綾音の誘いを跳ねつけてきた大翔だ。しかし人気もなく、ふたりだけしかいないこの場所で――。
(キス、くらいなら……いいかな)
ふたりの顔の距離は、約十センチ。あと少し顔を寄せればくちびるが触れるというこのシチュエーションで。
(……あ)
寄せられたくちびるが、大翔を誘い。ふたりのくちびるは触れあいそうに――。
がらがらっ!
いきなり、大きな音が響いた。と、大きな声も聞こえてくる。大翔はとっさに、上を見た。
「大翔っ」
「な……、琳!?」
二階の窓を乗り越えようとしているのは、琳ではないか。彼女は大翔を見つけて嬉しそうに名を呼ぶと、窓の縁を蹴って大翔のもとに飛び降りた。
「琳っ!」
大翔は反射的に地面を蹴り、腕を伸ばしていた。そこに、うまく琳の体が落ちてくる。
「ばかっ、なにしてる! 危ないだろうが!」
「へーき、へーき」
大翔にお姫さま抱っこをされている琳は、呑気にピースなどしている。
「追いかけられてるの、匿って」
「え、追いかけ……?」
はっと、琳が乗り越えた窓を見あげる。窓枠から、危ないと声をかけたくなるくらいに身を乗り出しているのは巫女姿の志保で、やはり手には五芒星と文字の書かれた符呪を持っていた。
「あ、っ、あなた! どうしてそんなところに!」
「あははー、生徒会長さん、ここまでおいでー」
挑発するようなことを言って、琳はひらひらと手を振る。志保が勢いよく窓に背を向けたのは、階段を降りてここにやって来るためだろう。
琳は、悪びれもせずに言った。
「わたし、犬神さまの眷属だってばれちゃったんだよねー。それで、陰陽師サマに追いかけられてるの」
「さすがだな、生徒会長。やっぱり、おまえが普通の人間じゃないって見抜いたか」
「ていうか、わたしがあの人には近づかないようにしてたんだけどね」
まるで志保の力などなんでもないというように、凜は言う。
「においでばれると思って、近づかないようにしてたんだけど。でも、ばれちゃった」
「においって……」
綾音も、凜から犬のにおいがすると言っていた。大翔には一向に感じられないところから、特殊な力を持っている者だけにわかるにおいなのだろう。
「だからおまえ、副委員長のくせに俺に仕事押しつけてたのか?」
「だって、生徒会室とかに行ったらモロバレじゃない! わたし、そんなに大胆じゃないよ」
身の危機だというのに、琳は朗らかに笑った。そしてひょいっと大翔の腕から飛び降りると、そのままの勢いで大翔に抱きついてくる。
「わ、っ! なにすんだよ!」
「こんなところで、綾音と密会? 妖しいなぁ」
にやり、と口の端を持ち上げて琳は言うと、ぐいと大翔に顔を近づけてきた。
「ああっ、琳! よけいなことはやめてってば!」
「わたしに子供を生ませてくれる気には、まだならない? わたしはいつでも準備万端、問題なし、なんだけど」
「そんな準備はいらん……」
綾音の悲鳴と、琳の挑発的な声。それらに責め立てられて、大翔は焦った。大翔にはまったく後ろめたいところはないのに、綾音に聞かれているというだけで浮気がばれた男のような気分がするのはなぜだろう。
「そ、そんなことよりも、生徒会長、来ちゃうぞ! 追いかけられてるんだろう!?」
あ、そうだった、と琳は肩をすくめる。そしてふたりに背を向けると、たたたと駆けだして行ってしまう。
「準備万端なんだって」
ちらり、と大翔を見ながら言う綾音の目からは、もう涙は乾いている。彼女はいつもの、花開くような笑みを見せてくれた。
「でも、大翔はわたしのものだから。大翔は、わたしに呪詛を食べさせてくれるのよね?」
「……今すぐには、無理だけど」
呪詛を食べるイコール、大人の行為、と大翔の頬は熱くなった。自分でもヘタレだと自覚している大翔にますますの笑みを見せて、綾音は大翔に近づいてくる。
彼女は手を伸ばすと大翔の両肩に手を置いて、顔を近づけて――。
「わ、わわっ……」
そのまま、ふたりはキスをした。
初めて味わった女の子のくちびるは柔らかくて、少し湿っていて、嘆息してしまうような心地だった。
☆
夏を前にした季節の夜は、少し冷える。そんな中、宿泊の建物に囲まれたコの字の内部には、大きく火が焚かれていた。
「キャンプファイヤーなんて、初めてだ」
「俺もだよ。焚き火くらいなら見たことあるけど、こんな立派なのは初めて」
祐介とそう話しながら、火に向かって手をかざす。
「今夜、ちょっと寒いからなぁ。火があってよかったよかった」
「なに、お年寄りみたいなこと言ってんだ」
そうは言いながらも、大翔も火に当たって温かさを甘受しているのだけれど。
「はい、みんな集まってー!」
響いたのは、志保の声だ。暖を取っていた皆は、不承不承火から離れる。ぱちぱちという音を背に、クラスごとに集まった。
蔦森志保生徒会長が言っていたキャンプファイヤーは、最終日、今日の夜に行なわれる。火はすでに燃え盛っており、列に並ぶ生徒たちを歓迎するようだ。
「オリエンテーションの締めは、キャンプファイヤーとバーベキューと、ダンスです。ダンスのほうは、練習したからわかるわよね?」
志保の声に、祐介は大翔にそっと話しかけてきた。
「なぁ、おまえ、自信ある?」
「ダンスの? いや、まだまだ及びませんで……」
大翔は、指先で頬を掻いた。そうだよなぁ、と祐介が腕組みでうなずく。
「練習のときは、相手の女子もいなかったし。エア女子との練習が、リアル女子を前に通用するかは未知数だな……」
「そんな、大袈裟な」
志保は、火を扱う注意を述べていて、人前に立つのに慣れた教師よりもなお堂々としている姿は、思わず見惚れてしまうくらいだ。
(あれで、祓わせろって追いかけてくるんじゃなかったらなぁ……)
目の前に並んでいる綾音と、目が合った。彼女と顔を合わせると、昨日のことが蘇る。彼女のくちびるの感覚まで思い出してしまって、大翔は慌てた。
(去れ、煩悩! そんなこと考えてる場合じゃない!)
しかし焦燥する脳裏には、あのときの綾音たまらなくかわいかった表情、濡れたくちびるの艶、重ねあわせたときの柔らかさ、甘さ。それらがひと息に蘇ってきて、大翔は志保の言葉どころではなかった。
「おい、大翔。なに百面相してるんだ?」
「うわぁっ!」
思わず声をあげてしまい、壇上の志保に睨まれる。大翔は身を小さくして、八つ当たりに祐介に非難の視線を向けた。それを綾音は楽しげに見ていて、彼女を笑わせることができたのなら、それならよかったと思ってしまう。
志保の注意事項が、終わった。一年生たちは班ごとに割り当てられたバーベキューセットの前に向かう。
班の違う綾音と、再び顔を合わせたのはダンスのときだった。
キャンプファイヤーの火も最高潮に燃えあがっている中、三拍子のワルツに合わせてのフォークダンス。ワンフレーズごとにひとりずれ、相手の女子が代わっていく中、大翔が手を取ったのは綾音だった。
「あ……」
なぜだか、ものすごく意識してしまう。彼女の柔らかい手に触れるのは初めてではないが、その小ささ、吸いつくような肌が大翔の胸を大きく跳ねさせる。
キャンプファイヤーの火に照らされた綾音は、顔が赤くなっているような気がする。
「綾音、暑いのか?」
「……違う。恥ずかしいの」
ステップを間違えずに踏みながら、綾音は小さく言った。
「おまえ、前も恥ずかしいって……男の家に押しかけて、大人の行為がどうこうって言ってたやつとは思えないなぁ」
本当に、綾音は変わったと思う。最初見たときの壮絶な美人度は変わらないものの、そこに柔らかい色が備わっている。うつむいてつぶやいたり、照れて顔を赤くしたり。以前の綾音とはまったく違う。
「だって……」
以前は、胸を押しつけてくることだって、平気だったくせに。ふわり、と鮮やかに回転した綾音は、大翔の顔を間近にくちびるを開いた。
「大翔は、違うよね」
微笑みながら、綾音はそう言う。
「呪詛喰らい(カース・イーター)の一族も、人間も、たくさん見てきたけど、大翔は全然、違うわね」
「……なにが?」
思わず慎重に聞き返してしまう。綾音はまた一歩、ぴょんと大翔に近づいた。
「大翔みたいな人、見たことないわ。今まで、知らなかったタイプ」
「そうか?」
どこが、ほかの者たちと違うというのだろう。大翔は首を捻り、そんな彼のもとに、綾音は一歩、近づいた。
「お風呂事件のときも、ちゃんと謝りに来てくれたし。しかも、ひとりで」
大翔は、しきりにまばたきをした。そんな大翔に、綾音はなおも微笑みかけてくる。
「まさか、土下座までしてくれるとは思わなかった。たいていの男はああいう場合、責任転嫁して逃げちゃうわよ?」
「そうかな……」
大翔は、頬を指先で掻く。最後に手を合わせて、ぱん、と鳴らしてワンフレーズが終わり、男子と女子は頭を下げ、別れる。
「最初はなんとも思ってなかったけど。大翔のいろんなとこを知って、意識するようになって……いろんなことが、恥ずかしくなってきたの」
「え……」
相手のいろいろな面を知って、意識するようになったのは大翔も同じだ。綾音は笑顔とともに去ってしまい、「俺もだ」と言う機会は、失われてしまった。
「俺も、なのにな……」
次に会うときにでも、言おう。女の子に先に言われてしまった悔しさを胸に、大翔は思った。