第五章 後悔
第五章 後悔
ひらり、となびく濃い朱色。艶やかに舞いあがる、黒い髪。
大翔は唖然と立ち尽くしていた。
「え……あ、なに……?」
家への帰途、今まで家の近くでなど見たことのないもの。大翔は何度もまばたきをした。
「巫女……さん? が、どうして、ここに……?」
家の近くどころか、今まで神社でしか見たことのなかった、白い胴衣に朱色の袴の、巫女が目の前にいた。
風に広がる長い髪は肩のあたりでまとめてある。それでも翻る髪は、大翔の思ったとおり腰以上の長さがあった。
しかし、彼女がここにいる理由は、まったく思い当たらない。
「蔦森……生徒会長?」
目の前には、先日大翔に「何かに取り憑かれている」と心配してくれた、志保がいる。しかし学校が終わったばかりの時間だというのに制服ではなく、巫女姿でなにかと戦うような体勢なのだ。
「どうして、巫女の服なんか……?」
「あなたには、確かに何かが憑いてるわ」
鋭い声で、志保は言った。
「わたしに、祓わせてちょうだい。困ってる人がいるのに、見過ごせないの」
「え、困って……?」
大翔が困っているのは、確かだ。この不運体質のせいで、どれほどのひどい目に遭ったことか。そしてそれを祓おうと、志保は彼女の確固たる信念とともに目の前に立っているようだ。
胴着の合わせから、志保はしゅっと紙切れを取り出す。なに、と思った大翔の目には、五芒星が映った。それは紙の上の部分に大きく描かれている。そのまわりには、たくさんの文字が紙面を埋め尽くしていた。
巫女姿の志保に、その手には五芒星の紙。それほどその方面に詳しいわけでもないという大翔にも、彼女が何者なのかわかった。
「先輩、まさか……!」
おまけに志保の、「祓わせて」という言葉。
「そう、わたしは陰陽師なの!」
そう叫んで、志保は紙を大翔に突きつけた。その、五芒星と意味ありげな文字で埋め尽くされている紙は、彼女の姿の信憑性を増していた。
「お、陰陽師ぃ!?」
しかし、それを信じろというのはまた別の話だ。志保の姿にごくりと固唾を呑みながら、大翔は言った。
「コス……?」
「言っておくけど、本物よ」
「コスプレ?」と言いかけた大翔の口を、志保はぴしゃりとした声で塞ぐ。紙を掲げ、大翔に向かって今にも飛びかかってきそうな体勢を取った。
「いざなぎ流が太夫、蔦森志保! あなたに憑いたものを、祓わせてもらうわ!」
「ええ、っ!」
本当に陰陽師なのか、と仰天する大翔は、思わず叫んでしまう。
「そんな、ご都合主義な!」
「なにがご都合主義よ。乙女のたしなみとして、当然だわ」
「たしなみって……」
そんなわけあるか、との大翔のツッコミは、しかし真剣すぎる志保のまなざしにかき消され、言葉は咽喉の奥で詰まってしまった。
「あなたには、犬神が憑いてるわ」
一途な視線を見せる志保は、そう言った。ぎょっと、大翔は一歩後ろに踏鞴を踏む。
「なんで、わかる……っ」
「あたりまえよ。この間は、あなたに憑いているものの正体がすぐにはわからなかった。そんな自分の力のなさが、情けないけど……」
少し視線を逸らせ、しかしすぐに大翔に目を向けて、志保はきりりと表情を引きしめる。そうすると吊り気味の目がますますくっきりと、彼女のシャープな美貌を際だたせる。
「でも、もうあなたを苦しめないわ。あなたに憑いたものを、祓うわよ。あなたにとって、いいものであるはずがないんだから」
「ですが、でも……」
(祓われたら、綾音が困る)
とっさに、そう考えてしまった。そんな自分に驚くものの、それでもどうしても綾音のことが頭をよぎる。
彼女は、呪詛喰らい(カース・イーター)なのだ。志保に祓われて、大翔の呪詛がなくなってしまったら。それを「食べる」と言っていた綾音はどうするのか。
(ほかの、呪詛持ちを探す……? でも、俺みたいな呪詛持ちには、今まで逢ったことがないって言ってた。今まで逢ったことがないようなものに、今後出逢えたりするんだろうか……?)
そう思うと、みすみす祓われてしまうわけにはいかない。
「どうして逃げるの!」
大翔は、いつの間にか志保から離れようとしていた。逃げ足になった大翔に志保の厳しい声が飛ぶ。
「あなたにとってよくないものを、祓うのよ。なにがだめだっていうの……?」
「あの、祓ってもらうわけにはいかないんです」
しどろもどろに、大翔は言った。
「祓われたら困る人がいるというか、そしたら俺もいやだっていうか……」
「誰? 誰が困るの?」
また一歩、大翔との距離を縮めながら志保は迫った。
「あなたが犬神に憑かれて、喜ぶ人なんているわけないじゃないの! 何かに取り憑かれてる状態なんか、普通じゃないんだから!」
――普通では、ない。
しかし、その『普通ではない』状態が、大翔にとっての『普通』になりつつあるのだ。それを手放すというのは――考えられない。綾音たちが、いなくなるなんて。
「いいえ……祓ってもらっちゃ、困るんです」
小さな声で、大翔は言った。
「必要としてる人がいるから……今、祓われちゃうわけにはいかないんです!」
大翔は後ずさりして、志保との距離を詰める。それを志保は、一歩踏み出したことでなかったことにしてしまう。
「なにを言ってるの? そのまま、憑かれたままにしてると……あなた、死ぬわよ?」
死ぬのは、いやだと思った。それこそ大翔が死んでしまえば、綾音は呪詛を食べることができなくなってしまう。しかしどうも、志保は大翔に取り憑くものを祓うまでは解放してくれなさそうだ。
「あなただけじゃない、あなたに取り憑いている犬神は、あなたの将来できる子供にも、孫にも影響を及ぼすわ。それでもいいっていうの? 子孫に憂いを残して、構わないっていうの?」
「……見たこともない子孫よりも、目の前のあの人のほうが、大切です……」
呻くように、大翔は言った。そんな大翔に、志保は大きく顔を歪めた。
「大切? なんのこと? あなたが憑かれている状況を喜ぶような人は、敵と見なすべきだわ。どんな甘言を弄しても、心を許すべきではない」
――敵?
綾音の、真っ赤に染まった顔を思い出した。いつもは大翔がたじろぐ勢いで迫ってくるのに、あのときは人が見ているからと恥ずかしがったのだ。
そのときの顔が、忘れられない。あんな顔ができる綾音が、敵だなんてこと――。
「敵とか……そういうんじゃないと思います。そういうこと、思いたくない」
「あなたがどう思おうと、そうでなかろうと、事実はそうなのよ。そしてわたしは、そんなあなたの迷いも祓ってみせる!」
力強い言葉でそう言って、志保は歩み寄ってきた。このままだと、志保に祓われてしまう。大翔の呪詛がなくなってしまえば、綾音はどうなるのか。食べなくてはいけない呪詛を食べることができなければ、綾音はどうなるのか。
なら、さっさと食べさせてしまえばいい。しかしかといって、『大人の行為』を許容するなんて、とんでもない。ジレンマに苦しんで、大翔は思わず頭を押さえた。
「……迷ってるのね」
同情するような口調で、志保は言った。目を細め、そんな彼女の巫女服と黒い髪を、桜色の風がひらめかせる。
「でも、迷いはあなたの身を滅ぼすわ。あなたは自分で、自分の死を招いているのよ」
「そんなこと、言われたって……」
大翔はたじろいだ。何歩か後ろに下がり、そこで響いた声にはっとした。
「大翔!」
「……綾音」
綾音は、視線を尖らせていた。このうえもなく厳しい目つきをしていて、そんな表情も、彼女の美貌にはふさわしかった。
「タイミングよく出てくるなぁ……。どうして、ここがわかった?」
「琳がいらないことをするから、大翔にはわたしの匂いをつけたの。あなたの危険は、その匂いが教えてくれるわ」
「……えぇ」
ちょうどいいタイミングで出てきてくれたのはよかったけれど、それはそれでいやだ、と思わず大翔は顔を歪めてしまった。
「そう……、あなた? あなたが神嶋くんに憑いているものの元凶?」
「その程度しか読み取れないのなら、あなたはその程度でしかないということね」
綾音の言葉に、志保はあからさまにむっとした顔をした。手にした五芒星の描かれた紙を綾音に突きつけ、それに綾音は薄く笑う。
「ふぅん……、陰陽師?」
その綾音の表情は、凄絶に美しかった。大翔の背にぞくりと悪寒が走ったくらいだ。真っ赤になった顔はかわいらしいし、そうやって薄笑みを浮かべる表情は、悪魔のように美しい。
「陰陽師なんかに、好きにはさせないわ。大翔は、わたしのものなんだから」
綾音は、大翔を抱きしめる。ぎゅうぎゅうと腕に力を込められて、胸のふたつの柔らかいかたまりを感じさせられて。大翔は目を白黒させた。
「ますます、あなたが元凶っぽいわね……。なんでもないというのなら、わたしの術を受けてみて。なんでもない人には、平気なものなんだから」
志保は、紙を綾音に向かって構え、口の中でなにかを言っている。確かあれは符呪とかいって、陰陽師の使う呪文の書かれた紙であるはずだ。マンガかなにかでで読んだことを、大翔は思い出した。
「その程度? 効かないわ!」
綾音は身構える。そんな綾音に向かって志保は明らかに、意味のあるステップを踏んだ。ついで彼女は右手を上下左右に動かし、九面の図を空中に書き出す。
「臨、兵、闘、者、皆、陳、……」
勢いよくそう言いながら、手は素早く印を結んでいる。やはり記憶にある、マンガでの陰陽師の行動そのままを目の前に、大翔は思わず感心してしまう。
その、九字を志保がすべて唱え終わらないうちに。綾音は右手を振りあげ、志保に襲いかかった。
「綾音……!」
彼女がなにをするつもりなのか。志保の片手に手をかけ、九字を切り終わらないうちに手をほどかせようとしているようだ。志保に掴みかかり、しかし志保はしなやかな歩で逃げる。しかし綾音に邪魔されたことで、ちゃんと九字が切れないように見えた。
しかし志保の歩みかたには意味があるらしく、綾音はなかなか彼女に近づけない。ふたりは一進一退の攻防を続けていて、大翔は思わず歯噛みした。
「なにやってんだよ!」
「大翔……!」
大翔はふたりの間に入り込む。志保の術も、綾音の行動も。なにも大翔にはわからなかったけれど、ただそうやって女の子同士が争っているのを、見てはいられなかったのだ。
「そういうこと、するもんじゃないって! やめろよ」
「でも、大翔……」
「いいから、離れろ」
そう言いながら、大翔は綾音を抱き寄せる。
(あ……、軽……)
そういえばこの間、四階についてきていた綾音を転ばせてしまい、助け起こしたときもそうだった。彼女は、驚くほど軽い。それを腕の中でまじまじと感じてしまい、大翔は慌てた。
その動揺を振り切るように、大翔は志保を睨みつけ、大きな声で言う。
「こいつは、悪いやつじゃないんです」
志保にしてみれば、自分に憑くものに関係している人物をかばう大翔が、信じられないのだろう。手は九字を切りかけたまま、唖然と大翔を見ている。
「入学から今まで、学校におかしなことがありましたか? ないでしょう? 俺の憑きものとかにも関係ないし、そんな相手に、物騒なことやめてください」
「神嶋くん……」
なおも、目の前の光景に驚いたように志保は呆然としている。
「こいつは、悪さはしないんです。俺だって今まで一緒にいて、悪いことはなにもなかった」
(いや……襲われかけたりとかはしたけどな)
しかし、実害はなかった。大翔は元気でここにいるし、綾音といて、なにもおかしなことは起こっていないのだ。
「悪さはしない、ねぇ……」
手を下に降ろし、志保は言う。
「本当に? 神嶋くん、その子のせいでひどい目に遭ってない?」
「……う」
(遭っているといえば遭ってるし、遭ってないと言えば遭ってない、けど……)
そのわずかな動揺が、顔に出ていたのだろうか。志保はじろりとこちらを見てきて、大翔は思わず腕の中の綾音を、かばうように抱きしめていた。
「大翔、苦しい……」
腕をまわした綾音が、小さく呻くように言う。
「あ、ごめん!」
大翔は慌てて、腕をほどく。そのまま綾音の手を握り、くいと引っ張った。
「きゃあっ!」
「いくぞ、綾音!」
それ以上志保がなにかをしてこようとする前に、大翔は綾音を連れて逃げ出した。誰もいない家にあげてしまえばまた襲われるかもしれないけれど、志保を前にしては今はそれどころではない。
「大翔、大翔、待って! 待って!」
大翔に引っ張られる綾音が声をあげるけれど、それも今はそれどころではなかった。とにかく、志保から逃げなくてはいけない。少しでも遠くに、逃げなくては――。
綾音を連れて、大翔は走った。志保の前から逃げなくてはいけない、その一心で。
☆
完全に志保から逃げる、などということは無理な相談だった。
一年C組の委員長に用がある、と聞かされた放課後。出向いた四階の生徒会室で、大翔を待ち受けていたのは志保だった。
彼女は、また巫女装束だった。この間と違うのは、大きな花笠を持っているところである。
「なんです、それ……」
思わずそう尋ねてしまった大翔の反応は、当然のものであるといえよう。とりどりの紙でできた花に飾られた花笠を志保が引っ繰り返すと、内側には先日も見た五芒星と、九字と、たくさんの文字が書き込まれていた。
「これは、強力な力を持つ守護印よ。これで、あなたに憑いたものを祓わせて!」
「祓うのは、いいですって!」
思わず逃げ腰になってしまった大翔に構わず、志保は迫ってくる。
「あの子……こないだの、綾音ちゃん? だったかしら。あの子も、普通の気を放ってはいなかった。あの子が、元凶?」
「元凶は、犬神らしいですから」
開き直って、大翔は本当のことを言うことにした。大翔の口から『犬神』などの言葉が出てきたことが驚きなのか、志保は目を丸くしている。
「だから、綾音は関係ない。なんでも、俺のじいちゃんや父さんも同じ犬神の呪いを受けて、早死にしたらしいですが」
「じゃあ、早くしないとね」
じっと大翔を見、大翔に憑いたものを見定めようとでも言うように、志保は低い声で言った。
「あなたまで死んだら、困るじゃないの」
「どうして先輩が、困るんですか。先輩には、関係ないでしょう?」
言葉遣いが、少々つっけんどんだったかもしれない。しかし本当に、祓われてはいけないのだ。大翔は体に力を入れて、志保と対峙した。
「なに言ってるの、関係なくなんかないわ。縁があって知りあった相手が犬神に憑かれていて、自分にそれを祓う力があるのに、どうして放っておけるなんて思うの? しかも犬神の呪いで早死にするかもって話を聞かされては」
(あ、まずかったかな……?)
どうやら大翔の開き直りは、志保を煽ってしまったようだ。彼女は花笠を持つ手に力を入れて、大翔に近づいてくる。
「今日という今日は、祓わせてもらうわよ!」
「だから、祓うのはいいですって!」
思わず逃げ腰になり、しかしとんと背を押すものがあって、驚いた。
「なに……、っ、琳!」
そこにいたのは、琳だった。いつの間に生徒会室に現われたのか、ちらりと大翔を見あげ、そして志保を睨みつける。
「犬神……!」
琳の正体がなんであるか、志保には見抜くことができたのだろう。花笠を琳のほうに突きつけ、すると琳は、ぎょっとしたように後ずさりをしたのだ。
「な、なんで! こんなところになんで陰陽師が!」
巫女服姿もあろうけれど、琳は一目で志保がコスプレなどではない、本物の陰陽師だと見抜いた。大翔は先日、綾音とともにさんざん彼女が本物だという証を見せられたことで信じるしかなかったけれど、琳はひと目見ただけで彼女を本物だと認識している。
(やっぱり、わかる人にはわかるんだな)
妙な感心をする大翔の脇から前に出て、琳は身構えた。
「さては、大翔に憑いてる神を祓おうとしてきたのね。いったいどうやって嗅ぎつけたの!」
「五感は、人並みに働いているつもりよ。見つけ出すのは、そう難しいことじゃない」
そして志保は、花笠を琳の目の前でひらめかせる。すると琳はじりっと後ずさりして、恐ろしいものを見るかのように、志保を見ている。
「さぁ、調伏されなさい! 犬神なんて、今すぐに祓ってあげるわ!」
「冗談じゃないわ、祓われてたまるもんですか!」
琳は、身を翻した。拍子に大翔が花笠にぶつかってしまい、よろけかけた大翔の手を、琳が掴む。
「な、に……」
「行くわよ、大翔!」
そう叫んで、琳は大翔の手を取る。大翔を引っ張って廊下に出ると、開け放してあった窓にひらりと乗る。
「な、なにを……」
「早く、逃げるのよ!」
琳は、大翔を引っ張った。驚くくらいの力で引きあげられ、ふたりは四階の窓から一直線に落ちる。
「わぁぁぁっ、死ぬ……!」
同時に、大きく風が吹いた。その風が見えない大きな手のようで、大翔はそれに守られて、ふわりと地面に着陸する。
「ほら、大丈夫だったでしょう?」
得意げに琳がそう言った。彼女はひと足先に地面に着いていて、座り込んでいる大翔に手を差し伸べていた。
「あ、サンキュー」
その手を取って起きあがろうとする。と、大きな風が起こった。
「わ、わわわっ……!」
ちょうど、立っている琳の腿くらいのところにあった大翔の視線は、風が翻したスカートの奥を見てしまう。
(……白)
どうでもいいことを考えてしまった大翔の表情を見たのだろう。琳はにやり、と笑ってスカートの裾に手をかける。
「な、なにすんだ!」
「あら、だって見たいんでしょう? 見せてあげるわよ、遠慮しないで」
「遠慮とか、そういうんじゃないっ! 別に、お前のなんて見たくないから!」
「ふぅん?」
本当に? という表情で琳は笑う。そうやって笑う表情は綾音と遜色ないと思うのだけれど、しかし四階で出くわしたときの綾音の恥ずかしがる顔、真っ赤になった頬を思い浮かべてしまう。そしてそのとき抱いた感覚は、今は感じられないことに気づく。
(なんだか、ときめきが足りない……なんて)
ぶんぶん、と大翔は頭を振った。
(贅沢だー、俺は贅沢だー!)
琳ほどの美少女を前に、「ときめきが足りない」なんて。ここは喜ぶべきだろう、と思うものの、どうしても綾音の姿が目の端にちらついてしまうのだ。
「見たくない、だって。失礼だよねー」
笑顔のまま、琳は意味深に言う。そのままゆっくりとスカートを持ちあげ、すると本当に白い下着がちらりと見えた。
(見間違いじゃない……、じゃなくて!)
「なにやってんだ、下げろ、下げろ!」
慌てる大翔を見ているのが楽しいと言わんばかりに、くすくすと笑う琳は、なおもスカートをあげようとする。
「大丈夫よ、誰もいないんだから」
「そういう問題じゃなーい!」
大翔は、琳の手を取ろうとする。スカートをあげている手を押しとどめようとするのだけれど、琳はひらりと身をかわして逃げてしまう。その拍子にスカートがめくれ、今度こそまともに白いものが目に入った。
「やめろって、言ってるだろうっ!」
なおもスカートの裾から手を離さない琳の、右手に手を置いた。ぐいと引っ張って遠のけようとするものの、琳はそれでもスカートの裾をつまんでいる。
「きゃ……、っ?」
「わぁ、あぁぁっ!」
拍子に、転んでしまった。ふたりは折り重なって倒れ、しかし大翔は地面に手を着くことで、どうにか地面に直接転ぶことは避けられ――。
「な、っ……!」
「やぁ、あっ!」
大翔は、地面に手を着いていた。四つん這いになる恰好だ。目の前には琳がいる。琳は、まとも地面に寝転がってしまったようだ。唖然としたように大翔を見あげている。
(柔らか……っ!)
右手に、なにか柔らかいものを感じる――何ごとだ、と目を見開いた大翔は、自分の右手がどこにあるのかを知ることになる。
「うわ、あぁぁっ!」
柔らかいものは、琳の胸だった。そのうえにまともに右手を置く恰好で、それでは柔らかいのもあたりまえだ。
「ごっ、ご、ごめん!」
「いいのよ、大翔」
優しい声音で、琳は言った。
「もっと、触って?」
「んなこと、できるか!」
「でも、大翔の子供生むには、こういうことも必要じゃない。恥ずかしがってちゃ、だめよ?」
「そういう問題じゃない!」
大翔は思わず声をあげ、慌てて琳の上から離れる。
「わたしは、いいのよ? もっとしてもいいのに」
不平そうな琳ではあるが、その誘いに乗るわけにはいかない。大翔は琳から遠のいてくるりと方向を変えると、慌てふためいて逃げ出した。
「あっ、大翔!」
右手には、柔らかいものの感触が残っている。それは大翔を混乱させたけれど、しかし求めているのはこれではない、あの柔らかさは違う、と思ってしまうのだ。
蘇るのは、綾音を抱きしめたときの感覚。あの柔らかさ、腕に馴染む体の形。琳の胸は確かに心地よかったけれど、それでも「綾音はああだった」と思い出して比べてしまうのだ。
(そんなの、琳に失礼だよな……)
そうは思うものの、それでもやはり大翔の感覚は「違う」と言っていて、大翔を責め立てる。あれが綾音だったらいいと、思ってしまう。
(どうして……? 琳だって、同じくらい柔らかいのに。同じくらいスタイルもよくて……)
裏庭から走って逃げながら、大翔はそのことばかりを考えていた。
(どうして、琳にはなにも感じないんだ? どうして、綾音のことばっかり思い出しちゃうんだろう……?)
息があがるの感じながら、大翔はずっと、そのことを考えていた。
☆
帰途についたその夕方。
ひらり、と翻るスカート。桜の花びらの降る中、舞い踊る黒の髪。学校の門から出たところに立っているだけなのに目を奪う少女の姿に、大翔は思わず目を細める。
「大翔!」
しかし、その麗しい姿とは裏腹に、綾音は両手を腰に当てて、怒りのポーズだ。
(な、なにに怒ってるんだ……?)
大翔は思わず、自分の右手を後ろに隠してしまう。とっさのその行為は、自分の行動に後ろめたいことがあるからで。
右手に掴んだ、柔らかいものの感触を思い出す。
(なんで、俺が後ろめたいと思わなくちゃいけないんだ!)
そう思えば思うほど焦燥はますますつのり、そんな大翔に、綾音が一歩近づいてくる。
「琳と、なにやってたのよ」
「え、なんで知ってるんだ?」
さらにはそんなふうに聞き返してしまい、これでは本当に後ろめたい人の行動だ、と慌てて綾音に向き合い、言葉を投げかけた。
「おまえこそ、なんでこんなところにいるんだよ」
「わたしのことは、どうでもいいの」
しかし返ってきたのは、ぴしりとした声だった。やはり綾音は怒っている。しかしなにが理由なのか――まさか、琳とのことを見られていたわけではないだろう。
「琳と一緒に、四階から落ちたって聞いたけど?」
「なんで、そんなこと知ってるんだ……」
思わず低い声で言ってしまい、ますます大翔は挙動不審者だ。そんな大翔に、綾音はまた一歩、足を踏み出す。
「いいじゃない、どうしてでも」
つん、と顎を逸らせて綾音は言う。その体勢のまま大翔に目を向け、じっと睨みつけてくる。
「どうして、琳と一緒にいたのよ。なにしてたの?」
「そんなこと、おまえには関係ないだろう!?」
いきなり問い詰められて、大翔の感情にも火がついた。思わず叫んでしまい、そんな彼を前に綾音はきょとんと目を見開く。
「なんで、大翔が怒るのよ!」
「別に怒ってなんかいない」
ただ、戸惑っているだけなのだ。綾音がこんな場所にいること、琳とのことを知っていたこと、そして琳の体に触れても、どうしても綾音のことばかりが浮かんでしまうことも。そしてその当の綾音を前にしては、落ち着いていられるはずがない。
「琳と、なにかいいことしたの? なにか……、まさか」
はっと息を呑んで、綾音が後ずさりをする。
「まさか、琳の願いを叶えてあげたんじゃないでしょうね? まさか、子供ができるようなことを……」
「待て待て待て!」
心の底から、大翔はツッコんだ。
「なにを考えてるんだ、そんなことするわけないだろう!?」
「あら、そうなの?」
首をかしげて、綾音は驚いたような顔をした。
なにもなかった、と聞かされて驚いた顔をするということは、それが起こったと信じ込んでいたということだ。
(いったいなに考えてたんだ、綾音ー!)
赤くなったり青くなったり、大翔はひとりで顔色を変えていた。そんな大翔を、綾音は真実を探ろうとするようにじっと見やっている。
「おまえには関係ないって言った! いちいち詮索するなよ!」
「そのような言い方、するってことは……琳と、なにかがあったのね」
「ないって言ってるだろう!」
ふたりは、睨みあった。厳しいまなざしをしても綾音はなお美しく、大翔は密かに、そんな彼女に見とれていたのだけれど。
「だめよ、琳になんかに手を出させちゃ。あなたの呪詛は、わたしが食べるんだから!」
「な……」
――かっと、した。
綾音は、大翔の呪詛だけが目的なのだ。こうやって大翔を追いかけるのも、待ち伏せしているのも、すべては彼女の食べるのだという呪詛のためだけ。
そう思うと、ますますの苛立ちがつのる。
「もう、俺にまとわりつくの、やめろよ」
熱を帯びた頭のまま、大翔は言う。
「おまえ、俺が呪詛持ちだから構うんだろう? もう、ほかの呪詛持ちを探せよ」
大翔の言葉に、綾音の目がどんどん見開かれていく。
「そんなに美人なんだからさ。おまえを好きになって、そのうえで呪詛を食わせてくれるやつがいるって。絶対」
綾音は驚いた顔をしたまま、身じろぎしなかった。
「誰だっておまえが頼めば、喜んで呪詛を食べさせてくれるよ。俺よりも大きい呪詛持ちだっているはずだ。だから、ほかのやつ探せよ」
言いながら、胸がずきっとした。綾音が、ほかの誰かの呪詛を――そのために『大人の行為』をするのだ。自分ではない、誰か見知らぬ者と。
「それって……大翔じゃない人と、……しろってこと?」
同じことを考えている。大翔の胸はますますずきずきと疼いた。
「ああ、そうだよ!」
喚くように、大翔は言う。
「俺は、『大人の行為』なんかするつもりはないからな。誰か、喜んでおまえに呪詛食べさせる人、見つけるんだ」
「でも、大翔……」
綾音は、大翔に一歩近づく。しかし大翔も一歩後ずさりをして、ふたりの距離は縮まらない。
「おまえを好きで、おまえに呪詛を食われてもいいってやつにしろよ! 俺は、好きでもないやつに迫られる趣味はない!」
言ってしまってから、はっとした。綾音が、その大きな瞳を潤ませて大翔を見ている。目からは涙があふれ出しそうだ。
その姿は、大翔にどうしようもない胸の痛みを味わわせる。ずき、ずき、と胸が痛むのに、言葉はもう口から出てしまった。時を戻すこともできず、大翔はただ綾音を見つめていた。綾音は本当に泣きそうな顔をしながら、大翔を見やっている。
「……そういう、ことだから!」
投げつけるようにそう言って、大翔はくるりと綾音に背を向けた。そしてそのまま、走って逃げる――そう、今にも泣き出しそうな綾音を置いて、大翔は逃走した。綾音を傷つけて、しかし自分は傷つけられるのがいやで。
大翔は、脱兎のように走り出した。綾音の顔が、見られなかったのだ。