第二章 犬神少女に迫られて
第二章 犬神少女に迫られて
ふわり、と真っ黒な髪をなびかせて。スカートの裾をひらめかせて。
朝の、ホームルーム前。教室に一歩入った、すぐそこで。
「大翔、おはよう」
「……おはよ……」
大翔は、その笑顔の凄まじいまでのパンチ力にノックアウトされかけて、その場に沈む。
「あら、大翔。どうしちゃったの」
文句なしに『クラス一の美少女』が、大翔を呼び捨てで呼び、労るように駆け寄ってくる。それが注視を呼ばないわけはなく、クラスの者たちが皆、ふたりを見やってはひそひそと話をしている。
(わぁ……、また俺、祐介に責め立てられて、ひよりのクラスまで話が広がるんだ……)
嬉しくないわけはない。しかしなぜ綾音がそれほどに親しげで、一日で一気に親密度があがってしまったのか。その理由を思うと、立ちあがることができない。
「いくらわたしが呪詛喰らい(カース・イーター)でも、人間社会に住んでるんですもの。人間と同じ倫理観くらいは、あるわよ」
昨日、部屋に閉じこもった大翔は、母が帰宅するまでずっとじっとしていた。綾音はさんざん大翔を待ち続けた挙げ句、帰宅した大翔の母に「仲よくさせていただいています」とにこやかに挨拶をし、帰っていったそうだ。
母は「美人で礼儀も正しくて、いいお嬢さんね」と感心していたけれど、大翔は内心、
(ちがーう! あの子は呪詛喰らい(カース・イーター)で、人間じゃなくて、おまけに俺の貞操を狙ってるんだぁ!)
と叫んでいた。
(まぁ……、母さんが帰ってくるまで待ってた、その熱心さは、買うべきかもしれない)
そして男として、「貞操を狙われる」というのはいささか妙な発想かもしれない。しかし大翔は、迫ってきたときの綾音の迫力に圧されてしまった。男として美人に迫られるのはやぶさかではない。しかし大翔は、自分がヘタレであることを実感せずにはいられなかった。
「どうしたのよ、大翔」
沈んでしまった大翔は、綾音が差し出した手を取れず、すると膨れた綾音がそう言った。
「いくらなんでも、学校で呪詛食べたりしないわよ。そういうことは、夜、ベッドの中でするのよね?」
「昨日は、昼間っからそのつもりだったくせに……」
恨みがましい目つきのまま、大翔は立ちあがる。視界の端に、ちらりとひよりの姿が見えた。おかしな誤解をしないでいてくれればいいのだけれど。
「でも、あなたがそのつもりならわたしは別に、今からでも構わないわ」
とてつもなく恐ろしいことを簡単に言って、流し目で視線をくれた綾音は、自分の美貌のほどをわかっていないのだろう――呪詛喰らい(カース・イーター)とは皆、こんなにも美しいものか。それとも、綾音だけがこれほどに特別なのだろうか。
(まぁ、綾音の美貌だけで充分、衝撃的だけどな……)
のろのろと自分の席に向かい、腰を降ろす。しかしそこも、大翔にとっての安全区域とはなり得ないのだ。なぜなら、真隣が綾音の席だから。
こちらを向いてじいっと視線を送ってくる綾音には、昨日とは違う『笑顔』というオプションまでついている。そんな彼女が大翔に視線を注ぎ続ければ、まわりの者が戸惑いの表情でひそひそと話をしていても、あたりまえなのだ。
「大翔って、かわいいわね」
「そりゃ、どうも……」
肩をすくめてそう言うと、綾音は喜ぶ声をあげる。
「そういうところも、本当にかわいい。わたしの見つけた呪詛持ちが、大翔で本当によかった」
喜ばしげにそう言う彼女は、実際にそう思っているのだろう。男の身で「かわいい」などと言われても嬉しくはないはずだけれど、綾音が心底嬉しそうだから、それはそれでもいいかと思ってしまった。
そうやって、綾音は実に一日中、大翔を見つめては微笑んでいた。
(そりゃ、こういうの見せられちゃ、カップルだって誤解されるよな……)
そんな彼女の視線を受けとめながら、海翔は苦笑する。
(まぁ、綾音みたいな子に迫ってこられて……嬉しくない、とは言わないけど)
ちらり、と綾音のほうを見ると、目が合った。綾音は嬉しげに微笑み、その笑顔はとてつもなく、かわいらしかったのだけれども。
(でも、彼女とかじゃないんだ! つきあってなんかないんだ! みんな、騙されないでくれ……!)
その場に沈み込みたくなった大翔は、視界に入った綾音のその笑顔にどうしようもなく魅了され、彼女に笑い返す羽目になるのだった。
「じゃあね、大翔。また明日」
桜色の風に、スカートの裾がふわりと揺れる。そんな綾音の姿に、大翔はうわっ、とたじろいでしまうのだけれど、その奥のどうしようもなく魅惑的な危険区域ぎりぎりのところで見えないのは、彼女が呪詛喰らい(カース・イーター)だから――などというのは関係ないかもしれない。
「うん、また明日……」
呪詛喰らい(カース・イーター)は、あちこちに群れを成して暮らしているらしい。綾音も父、母、姉と便宜上呼びかける、少し年配の呪詛喰らい(カース・イーター)たちと、この先の三丁目で、人間のように生活しているという。
大翔は、住んでいる家は大翔の家とは真反対である綾音と、校門の前で別れた。綾音の姿が見えなくなるまで、見送って。
そんな大翔の、行く手を遮る影がある。
「わっ!?」
思わずあげた声に、なによ、という返事があった。目の前にいたのは、同じクラスの少女だった。彼女はやや短いスカートの裾を桜色の風に揺らせながら、そこに立っていた。
「え……あ、犬尾、さん?」
目の前の少女のことは、席が近いので覚えている。綾音ほどではないけれど、それでも美しい黒髪をきりりとポニーテールに結いあげ、そのせいかややつり目で、それがかわいらしい印象を与える。
今の彼女は腰に手を置きじっと大翔を睨みあげ、なにかを言いたげな素振りだ。
「琳よ、犬尾琳。琳、でいいから」
琳は、やや高飛車な調子でそう言う。そして、手を伸ばして大翔の手首を取ったのだ。
「わぁっ!?」
「神嶋くん。わたしと一緒に来て。話があるの」
居丈高でいて、どこか懇願するようでもあった。いきなりの不可解な申し出に、大翔は首をかしげる。
「……話?」
警戒はしたが、しかし相手は女の子ひとり。危害を加えられるなんてありえないし、昨日のように突然押し倒されて『大人の行為』を求められるなどということでもない限り、大翔に対応できないということはないだろう。
大翔は琳に、うなずいて見せた。
「話って、なんだ?」
「いいわ。学校の中に戻りましょう」
手首をぎゅっと掴まれたまま、大翔は琳に従った。琳はぐいぐいと、大翔を引っ張りながら歩く。
廊下を行き、階段を登り、いったい何階まで行くつもりなのか、いつまでも階段登りが続いた。しかも手首を掴む琳の手にはどんどん力が込められて、痛いのだ。
「痛い、痛いって! 自分で歩けるから、手、離せって!」
「だめよ、あなたが逃げたら困るもの」
琳の手の感覚は、柔らかくて少し冷たくていい心地だった。綾音に負けず劣らずの美少女の召喚に、逃げるなんて。そんなこと、あり得ないのに。
「逃げないって。で……ここ……?」
琳が足を踏み入れたのは、一見して屋上だとわかるところだった。風が吹き、琳のスカートを揺らす。風の勢いは先ほどよりも大きいし、なによりも、この殺風景な景色。
「なんで、こんなところ知ってんだ?」
「いいから」
ドアを閉め、琳は大翔に向きあった。
「で、なに?」
このような場所に連れてこられた意味を、大翔は問う。琳は、再び仁王立ちになった。
「なんの、話?」
「あんな、女に……」
琳の、小さくてほの赤いくちびるが、動いた。
「なに?」
「あんな女に、騙されないで!」
喚くように、琳は言った。思わず目を見開いてしまうくらいに、大きな声だった。
「あんな女の言うことに、惑わされちゃだめ」
「な、に……?」
誰のこと、と尋ねかけて、はっとした。
この状況で『あんな女』と言われるのは、綾音しかいないだろう。琳は校門前での気強さとは裏腹に、今にも泣きそうな顔をして目の前に立っている。
「なんで、そんなこと言うんだ……?」
「だって……神嶋くん、あんな女といちゃいちゃしてるんだもん……」
「大翔、でいいよ」
思わずそう言ってしまったのは、琳が本当に憐れに見えたからだ。綾音や、ほかの下校中の生徒たちもいる中では、気を張っていたのだろうか。今の琳は、抱きしめて「大丈夫だよ」と言ってやりたい風情でいっぱいだ。
「それに、綾音のことを『あんな女』って言うのは、感心できないな。人のこと、そういうふうに呼ぶのはなしだろう?」
「だぁって……、大翔ぉ……」
琳は、今にも泣き出しそうだ。そんな彼女を前にどう対応していいかわからず、大翔はただ彼女に歩み寄った。
「ずっと、あんな……乙女さんと……、綾音と、見つめあってて。あんなの、誰が見ても焦るじゃない」
「見つめ……」
やはり端から見るとそう見えるのだ、と大翔は沈みそうになり、慌てて首を振る。
「そんなんじゃないって……。綾音は、その……」
まさか、彼女は『呪詛喰らい(カース・イーター)』だと言ってしまうわけにはいかないので、慌てて口をつぐむ。誤魔化すように咳払いをして、大翔は琳の肩をぽんぽん、と叩いた。
「とにかく、そんな泣きそうな顔、してんなよ。話ってのはなんだ? 聞くからさ」
うん、と琳はうなずいた。そして顔をあげる。大きな瞳をきっとつりあげ、微かに赤いくちびるを引きしめて。彼女は彼女で、きりりとした美少女だ。色がとても白いし、なにより目に入ったのは、彼女が逸らした、胸――。
(わぁぁ!)
思わず大翔は胸の中で声をあげ、琳から逃げそうになってしまった。セーラー服越しの胸は、片方だけを大翔の手で掴んでもあふれそうなほどに大きい。胸の大きさなど強調する服ではないのにそれほど大きいのは、では直接見ればどれほどなのか、と想像してしまう。
(うわぁぁ、今のなし! なしっ!)
今の大翔は、端から見ても挙動不審な百面相だろう。実際、琳も不思議そうな顔をして大翔を見ている。
「どうしたの、大丈夫?」
「うん、大丈夫。なんでもな……」
咳をして誤魔化しながら、大翔は何度もうなずいた。琳は、ますます訝しげな顔をする。
「いや、本当に大丈夫だから! ……で、なんの話だったっけ?」
「綾音のことよ」
はっきりと、迷うことなく琳は言った。
「綾音と一緒にいてほしくないの。綾音は、あなたを油断させるために近づいてきただけなのよ。あなたを利用することしか考えていないんだから」
「利用……?」
そう言われて、大翔には――そうだ、考えられることがないではない。
綾音は、呪詛喰らい(カース・イーター)なのだ。そして大翔は、彼女が「食べさせて」と迫る、大きな呪詛持ちであるらしい――眉唾な話だと言えばそう、しかし綾音は大翔が呪詛持ちであるがゆえに不運な体質であるということを知っていたし、それどころか父や祖父のことまで納得できる説明をつけたのだ。ただの偶然かもしれないけれど、しかし大翔には疑う気持ちが湧いてこなかった。
しかし綾音の意図はただ、大翔が呪詛持ちであるからなのか。大翔の呪詛を食べたいから、近づいてきただけ――大きな呪詛持ちなら、誰でもよかったのか。
「俺が利用されてるって。そう言うのか?」
「ええ、綾音が呪詛喰らい(カース・イーター)なのは、もう知ってるわね」
大翔は仰天した。呪詛喰らい(カース・イーター)、なんて。昨日聞かされたばかりの専門用語を、いきなり突きつけられるとは思わなかったのだ。
「知ってる、ていうか……なんで、犬尾さんまで……?」
「琳、よ」
大翔の呼び方を訂正しておいて、凜は言う。
「冗談じゃないわ、呪いを食べてしまうなんて」
独りごちるようにそう言って、琳は大翔のもとに歩み寄る。ぐい、と顔を近づけられて、どぎまぎしてしまった。
「永遠に、呪われてあれ。これ以上ない呪詛持ちとして、あなたの聖なる血筋は永遠に続くのよ……!」
そう、吠えるように言った――そう、彼女の苗字に字がある犬のように――かと思うと、大翔は昨日に続いて二度目の体験をした。
「い、てぇ!」
もっとも、今日は下が昨日のように絨毯敷きではなかったので、痛い思いをした。しかし大翔の上にいる琳は、そのようなことには気づいてもいない、もっと彼女を惹きつけることがある、とでもいうようだった。
「な、なんなんだ……」
大翔はコンクリートの地面に仰向けに倒れていて、上には琳が馬乗りになっていた。琳の両手は大翔の肩を押さえつけている。つまりまったく、昨日と同じ体勢だった――。
(二日連続の押し倒しですとー!)
目を見開く大翔を、琳はじっと見つめている。先ほどの泣きそうな表情から、まるで何かを思い詰めたように、じっと見下ろしてくるのだ。
「なんだよ、いきなり……」
とりあえずは堅いコンクリートに押し倒された不満を述べるが、琳はやはり大翔の文句などは聞こえていない、それよりももっと大切なことがあるといわんばかりに、真剣な顔をして大翔を押し倒しているのだ。
「なぁ、犬尾さ……琳。なんで、こんな……」
尋ねた大翔は、尋ねたことを後悔するような、同時に一生のうちで女の子の口から聞くことがあるとは思わなかった言葉を、聞いた。
「あなたの子供を、生ませて?」
大翔は、自分の耳を疑った。
「はぁ、っっ?」
思わず力いっぱい、尋ね返してしまった。起こそうとした体は、しかし琳の手に押さえられてしまって身動きが取れなかったのだけれど。
「な、なに……なに、言って……」
ぎゅう、と胸のあたりに押しつけられた柔らかいものがある。なんだ、と驚く思いと、その柔らかさに蕩けていきそうな感覚がある。
(……これ。すっごく柔らかくて……おっきいな……)
「あなたの子供を、生ませて」
聞き間違いではないことを強調するように、琳は先ほどの言葉を繰り返した。また、柔らかいものが押しつけられる。それはやはり柔らかくて気持ちよくて、うっとりと味わう中、それに追い立てられたように腰の奥が熱くなってきて――。
「あなたの血筋を保つために、わたしがあなたの子供を生むの」
すでにそう決まってしまっているかのようなもの言いで、琳は言った。ふたつの丸くて柔らかいものは、弾力を持ってぐいぐいと胸あたりに押しつけられている。
(ゴム製のボールみたいだけど……もっと柔らかい。もっとぽにょぽにょしてて……なんか、アレ、みたいな……)
そのアレ、を直接感じたことはないのだけれど。しかし大翔の連想には、ソレしかなかった。
(アレ……、そう、アレ……)
それがなにか、理解したときにはもっと強く押しつけられて、感覚のすべてを奪われてしまう。そんな大翔に気づいているのかいないのか、惜しげもなく大翔にこの柔らかさを与えている少女は、大翔との間をどんどん狭くしていた。
「呪詛喰らい(カース・イーター)に目をつけられてしまっては、時間の問題だわ……早く、早くしないと……!」
「早くって、なにをだ!」
反射的に、そう叫んでいた。しかし構わず、琳の顔が近づいてくる。まるでキスするような近さに、大翔はぎょっとするが。
(こ、子供……生む、とかって……)
つまりそれは、そういうことで。昨日、綾音に言われた『大人の行為』という言葉を思い出してしまった。
「じょ、冗談だよ、な?」
目の前、二十センチも距離のないところに琳の真剣な顔がある。その表情を見ていると、決して冗談を言ったようには思えないのだけれど。
「こんなの、なにかの……」
「冗談じゃないわ」
琳は、大翔を愕然とさせることを言った。そして、二十センチの距離をまた縮める。
「わぁ、ぁぁっ!」
「冗談なわけ、ないじゃない。わたしは、あなたの子を生むの。そのために……」
「やめ、わぁっ、やめ、やめっ!」
まるで、手籠めにされる町娘のような悲鳴をあげてしまった。しかしここにいるのは大翔と琳だけ、助けてくれる手はない。
琳の手は、大翔のベルトのバックルにかかる。
「わぁ、だから、やめ……!」
「必要なことなの。なんで、そんなに大騒ぎするの?」
大騒ぎするに決まっている。ヘタレ――誰かの声が頭の中に響くが、そうだ、と大翔は開き直った。ヘタレで結構! こちとら、女の子に押し倒されて流れに乗ってしまえるほど、大胆でもないからな!
「するよっ! いいから、離れて……はな……」
先ほどから感じていた丸いものは、琳の胸で。押しつけられる柔らかいものは、琳の体そのもので。さらにはベルトに手をかけられて、脱がされでもしたら直接――。
「わぁぁ、離れて、離れてくれ!」
渾身の力で、のしかかってくる琳を振りほどいた。それでも琳は、体の軽さに似合わない力を見せて大翔を解放しない。
「マジでヤバいから! 離れて……もういいって、やめてくれ!」
「なにがヤバいの……?」
大変に答えにくい質問を、琳はした。うっ、と詰まる大翔のうえに改めてのしかかりながら、琳は真剣な目を向けてくる。
「今からは一時間、職員会議があるわ。生徒はみんな下校したし、まず誰もここには来ない」
「計画的犯行か!」
思わずツッコんでしまったが、琳はなおも思い詰めたような顔をするばかりだ。
「大丈夫、痛くしないから」
「立場が逆だろう!」
さらなるツッコミを入れておいて、それどころではないと大翔は努めて冷静になろうとした。
「……あの、琳、さん?」
「琳でいいって、言ったでしょう?」
「……、……痛くしないって、そーゆー経験、おありなんですか……?」
思わず声が裏返ってしまう。ためらいながら尋ねた大翔とは裏腹に、感情の見えない口調で琳は言った。
「ないわ」
「ないのに男押し倒すとか、どういうつもりだよ!」
どうにも、琳の行動にはツッコミどころが多い。しかしなおもなにを考えているのかわからない調子で、琳は言った。
「あら、じゃあ、あなたにはあるの?」
「……ないけど」
このたび口ごもったのは、ツッコむためではない。大翔の返事に、琳はどこか嬉しそうな、楽しそうな顔をして言った。
「じゃあ、初めて同士でちょうどいいじゃない。どうせ、先生も来ないし」
「って、はいそうですかと身を任せろってか!」
くすり、と笑って、琳は顔を寄せてくる。
「そんな、子供みたいに駄々捏ねないの」
琳にキスされる――と、思ったものの彼女の目的は違った。そのまま大翔の顔の脇に顔を寄せ、何ごとか思ったら、かぷりと耳の縁を軽く噛まれた。
「どわぁぁ、ぁぁっ!」
悲鳴をあげる大翔の耳をさらに噛んで、顔は見えないけれど琳は確かに、微笑んだ。
「経験はないけど、教えは受けてるわ。大丈夫、大翔は心配しなくていいから……」
「心配、って、俺のほうが心配だわあぁ!」
なおもかぷり、かぷりと歯を立てられて、そのたびにぞくりと悪寒が走る。体の奥に生まれた熱はどんどん大きくなって、大翔をさいなんでいく。
「離せぇ!」
柔らかい丸いもの、温もりのある体。さらにははずされかけたベルトと耳への刺激をはねのけて、のしかかっている琳をも振り落とし、大翔は体を翻らせた。
「も、もういい……、これ以上は、もういい……」
「痛いぃ」
コンクリートの地面に放り出される恰好になった琳は、どうやら膝をぶつけたようだ。すっとまっすぐな細い足、赤くなったところを彼女の手が撫でている。
「いや、悪い。悪いけど、これ以上は……!」
「え、あ、大翔!?」
ぶつけた膝を擦っていた琳が、立ちあがると連れてこられた出入り口に向かって走り始めた自分の背に、声をかけてくるのが聞こえる。
「もう、これ以上はあり得ないから!」
ドアを開け、全力で飛び出すと、走る。階段を駆け下り廊下を走りながら、大翔はなおも悲鳴のような声をあげていた。
「いったい、なんなんだ……!」
二日連続、女の子に押し倒される。しかもベルトにまで手をかけられて、ぎりぎりのところに連れていかれて、しかも「教えは受けてる」って。
「なんの教えだっていうんだー!」
走りながら、大翔は叫んだ。
(わかってる、わかってるけど……!)
「許容できるかーっ!」
廊下に、大翔の足音が響く。誰かが「廊下は走らない!」と叫んだけれど、大翔の耳にはちゃんとした意味を持った言葉としては届かなかった。