第一章 不運少年と美少女と
第一章 不運少年と美少女と
満開の桜の木々が、淡いピンクのシャワーを撒き散らす。
通学路を歩いていた大翔は、降りしきる花びらに目をすがめた。入学式に桜の花が満開だとは、幸先がいい。もっとも大翔自身は幸先がいいどころか、早々に車に轢かれかけたわけなのだけれど。
先を行く、小さな後ろ姿があった。ぴんと糊の利いたセーラー服の裾に誰なのかを確かめた大翔は、小走りで彼女を追った。
「あー、だいちゃん。おはよー」
少し茶色がかったショートカットにメガネ、という、昔から変わらないスタイルの由衛ひよりは、やはり昔から大翔のことを『だいちゃん』と呼ぶ。
「学校では、『だいちゃん』はやめろよな」
「うん、わかった」
しかし何度言っても、この幼馴染みは幼いころの呼びかたを改めないのだ。いい加減訂正するのも面倒だけれど、このおっとりとした口調でそう呼びかけられるのは気分の悪いものではないので、大翔も強くは反論しない。
「楽しみだね、高校」
「そうだなぁ……、高校生になっても、俺の受難は続くみたいだけど」
大翔は、先ほど車に轢かれかけた顛末を話す。ひよりは心底心配そうな顔をして、メガネ越しの目で大翔を覗きこんできた。
「怪我とかはしてないの?」
ひよりは大翔の顔をじっと見つめ、少し埃っぽくなった学生服を見、びしょびしょになったズボンを見る。
「そんなまじまじ見なくても。本当に、怪我してないって。大丈夫大丈夫」
元気であることを示そうと、腕をぶんぶんとまわしてみせる。そんな大翔をなおも心配そうな顔で見つめてきたけれど、大翔が繰り返す「大丈夫」にやっと安心したのか、背を正した。
「気をつけてね、車とか、犬とか」
「……おぅ」
思いもしない事故に遭う大翔だけれど、なぜか四つ足のものに関わる不運が多い。野良猫に引っかかれるくらいは、怪我のうちに入らない。おとなしいはずの犬にいきなり吠えかけられたり、噛みつかれたり。明らかに大翔の体重のせいではないのに椅子の足が折れてしまって転がり落ちたり。そんな不運体質の大翔の近くにいるととばっちりを食う、と本気で恐れている者さえいるのだ。
「せっかく、高校生になる初日だもん。いいことがいっぱいあったらいいね」
ひよりは、見ているだけで大翔の胸がほわわん、とするような顔を見せる。その表情に和まされながら、ふたりは新しく通うことになった学校への道を歩いた。
☆
入学式が終わり、担任の女性教師を先頭に、一年生たちはぞろぞろと移動する。大翔の所属する一年C組の教室は、三階の南端。ちなみに、学年があがるごとに階が下になるのだそうだ。
「はいはい、出席番号順に、ここから席についてー!」
吉薗楓という担任の教師は、一番前の窓側の席の机を叩いている。この学校では出席番号は男女混合、名前のアイウエオ順で並べてあった。
吉薗は声をあげる。叩いていた机から右横に並び、廊下側で折れてまた窓側に。そうやって出席番号順に横に並んでいけというのだ。
大翔は『神嶋』なので常に最初のほうである。ちょうど教卓の真ん前になってしまい「げ」と小声で唸ってしまう。
だが席についてなにげなく左を見、目に入ったひとりの少女の姿に、席が教卓の前でも充分にお釣りが来ると思った。
(美人!)
大翔が運が悪い、なんて誰が言ったのだろう。入学早々の目の肥やしに、目が釘づけになる。
(すっげ……、美少女……)
さらさらの、黒髪。授業で聞いたことのある『烏の濡羽色』とは、こういう色をいうのではないだろうか。本当の黒髪は緑がかっている、とやや夢見がちな国語教師が言っていたけれど、彼女もこれほどの黒髪を見たことはないだろう。
確かに、少し緑がかっている。あの国語教師が見れば、まさにこれだと感動するだろう。大翔も、小説や詩にしか出てこないだろうと思っていた『烏の濡羽色』を目の前に、本当にあったんだ、と驚いているところである。
眉のあたりと、肩を少し越したあたりでぱっつんと切られている髪は、そういう髪型は本当に美人でないと似合わないだろうと思われるのだが、彼女には見事に嵌っている。文字通りまるでそこだけ空気が違う、日本人形のような少女が、目の前にいた。
すっと通った鼻筋、整った鼻。濡れたようにほんのりと赤いくちびるは描いたように整っていて、人形のように清楚なのに、どこか妙に心揺さぶられる艶めかしさがあった。
(へ……ぇ……)
全体のバランスがいい、というのが彼女から受けた印象だ。頬杖をついている手も、ほかのどこも大きすぎたり小さすぎたりすることはない。だからこそ新入生ばかりでどことなく落ち着かない空気の漂う教室の中、ひとりしっとりとした雰囲気の中にある様子は、逆に目立ってしまっている、とも言えなくはないのだが。
(美少女ってのは、こういうのを言うんだろうなぁ)
思わず見とれてしまうくらいに、少女は美しかった。イケてるだとかきれいだとか、そういう言葉では片づけられない、本当に『美しい』同級生で、『美少女』だった。
「あ……」
隣の席の少女を、あまりに凝視しすぎただろうか。目が合った。大きな瞳でじっと見つめられる。その目は潤んで輝いているようで、それが大翔の感情を揺すぶるのではないかと思った。
しかし彼女は、何も言うことはなかった。ただじっと、大翔を見つめる。
「あの……」
なにか、言わなくてはならないだろうか。大翔はやや焦り、しかし少女はなおも大翔を見つめてくるのだ。まばゆい少女に見つめられることはやぶさかではないけれど、しかし無言で見つめられているのはどうにも居心地が悪い。
「はい、みんな席に着いたわね?」
吉薗の声が響く。大翔は、はっと目の前を見た。どうやら、全員の席が決まったらしい。
「みんな、座ってね。席のない人はいないわね?」
こほん、と吉薗は小さく咳払いをした。そして教室中を見まわすと、口を開いた。
「では、みなさん。北御門高校への入学、おめでとう」
吉薗が拍手し、皆もつられる。大翔もぱちぱちと拍手しながら、ちらりと隣を見やった。
件の美少女も、拍手をしている。そうやって真顔でいるとどこかつまらなそうに見える彼女の笑顔を、見てみたいと思った。彼女が笑えば、窓の向うに少し見える桜の木に開いた花々よりももっともっと麗しいだろう。
吉薗が出席簿に従って、出席番号順に名を呼ぶ。大翔が『か』だから、隣の席の少女は、恐らく母音で始まる苗字のはず――。
「乙女綾音さん」
「はい」
鈴を振るような、声だった。
「第一中から来た、乙女綾音です。よろしく」
そう言う彼女は、ほんの少し顔を歪めた。乙女、という自分の名前が好きではないのかもしれない。確かに珍しい苗字だし、「乙女です」と名乗るときは、辞書に載っている『乙女』という言葉を思い出させていやかもしれない。
大翔の苗字はそこまで珍しくはないが、それでも聞き返されることや書き間違えられることは多い。ましてや、『乙女』なんて――確かに彼女は、ユニコーンが唯一触らせるという無垢な『乙女』を連想させはするけれど。
簡潔に、出身中学校と名を名乗った少女――綾音は、すとんと席に着いてしまった。同時に「次の自己紹介」と、注目を浴びた大翔は、慌てて立ちあがる。
大翔も、自分の名と出身中学校を言った。このクラスには、同じ中学校出身の者もたくさんいる。後ろの列に座っている鹿田祐介など、幼稚園からずっと一緒である。
高校デビューとやらなんやらなのかもしれないが、祐介が軽く髪を茶色に染めてきていることを、あとからツッコんでやろう、と思った。
短い自己紹介を終え、再び座った大翔は、また視線を受ける。綾音だ。彼女は頬杖をつき、じっと大翔を見つめていた。その大きな黒目がちの目は、ちゃんとまばたきをしているのか心配になる――そのくらい彼女は、大翔を凝視しているのだ。
(な、なんなんだ……いったい)
美女に見つめられることは、悪い気はしない――とはいえ、それほどに見つめられるとどうしても気になる。
それは大翔の気のせいではない、とわかるのは、後ろの席の女子ふたりが(中学校から一緒の友達同士なのだろう)ひそひそと話しているのが、耳に入ったからだ。
「ねぇ……あの人、隣の席の男子のこと、ずっと見てない?」
「だよねぇ……? じぃっと見てるよね」
ふたりの女子の訝しげな声からも、綾音に見つめられているのは決して気のせいではない。しかしその理由となると、大翔には一向に思い当たる節がない。
(会ったこと、あったか? それとも、俺が忘れてるだけ?)
これほどの美少女に会っていれば、決して忘れることはないと思うのだけれど。しかしいくら記憶を探っても、心当たりはない。
(それとも俺、なんかした……? ずっと小さいころ遊んだことがある、とかで?)
その覚えはなかったし、彼女いない暦イコール年齢の大翔にそれほど同級生を――しかもこんな美少女を――惹きつける魅力があるとは思えない。
彼女の視線が気になって、ほかの同級生の自己紹介は聞き逃してしまった。今後、名前を覚えるのに苦労するかもしれない。
「だーいとっ!」
ふざけた口調で、抱きついてきたのは祐介だ。彼は後ろからラリアットを決めてきて、まともに入った衝撃に大翔が呻いているところに、今度は正面から襲いかかってきた。
「なんだよおまえ、この、美少女キラー!」
「そ、そんなんじゃね……」
「なに言ってんだよ、美少女にあんなに見つめられてたくせに」
高校生としての初日が終わって、帰り道。校門を出たところで、幼稚園からのつきあいの幼馴染み、この鹿田祐介につかまったのだ。
「なんだなんだぁ、俺の知っている大翔は、あんな美少女に見つめられるようないい男じゃなかったぞ?」
「いい男じゃなくて、すまんな……」
入学一発目のラリアットは、効いた。大翔は座り込んでげほごほしてしまい、祐介は楽しげに覗きこんでくる。
「いつの間に、あんな美少女と仲よくなったんだ? もしかしてもうつきあってるとか? おにーさんに秘密とは、よそよそしいぞぉっ!?」
「いいから、技はもうやめろ……」
ラリアットの腕がすべり降りてそのままジャーマン・スープレックスに入りかけ、大翔は慌ててそう言った。祐介は少し残念そうな、それでも今にも新たな技をかけてきそうな表情で、少し大翔から遠のく。
「いつの間に、どこで知り合ったのか言えよ? あと、神聖なる童貞同盟にひびを入れた落とし前として、今から行なわれる菓子食い放題パーティーに俺を招くことを義務とする」
「そんな同盟、結んだ覚えはねぇ」
パーティーの約束も取りつけていない。大翔は冷静にさらなるツッコミを食らわせ、しかし祐介には堪えた様子もなかった。
「祐介。おまえは、この俺がそんなにモテるやつだと思ってるのか」
不本意ながら、大翔は胸を張った。ううむ、と祐介は、大翔を観察する様子を見せる。
「モテるようには見えんな、全然」
「悪かったな」
それはそれでなんとなくムカつくものを感じたので、大翔も祐介に拳のお返しをする。
「いててっ……!」
祐介に仕返しすることができたことに満足を感じながら、綾音のことを考える。もちろん、憧れないわけではない。綾音のような美少女と一緒に歩く――彼女だ、なんて。それは嬉しいけれど、少し畏れ多いような気もする。
「マジでー?」
「マジで」
大翔は、大きく頷いた。うなずきながら、車が来ていないか、暴走自転車が来ていないか確かめる。道の角を曲るとき、右、左、再度右確認、は必須である。
「おまえ、相変わらず運悪いの? そんなに警戒しなくても、車は来てねぇよ」
「笑いごとじゃねぇ。今朝は、こんな狭い道に車が突然現われて、マジで轢かれかけたんだぞ?」
「突然とか、ありえんだろ。だいたい、こんな細い道に突然車かとか、フツーにありえんのだけど。それもこれも、おまえの運の悪さが成せる技かなぁ」
「そんな技はいらん」
車は来ていないようだ。大翔は足を踏み出し、祐介と肩を並べてまた歩き出す。
「おまえの運は、彼女との出会いに費やされたのか? 芸能人並みだよ、あの美貌。頭も小っせーし、手足、無茶苦茶長かった。そうか、そうだな……」
うーむ、と考え込む表情になる祐介。
「あれほどの美少女が、大翔クンの彼女とか、ありえんか。でも、あの視線はマジでヤバかったぞ? おまえに穴が空くんじゃないかと思うくらいだ」
「そうなんだよなぁ……」
桜の花びらが、散る。ひらひらと舞うピンクの風の中、歩きながら大翔は首をかしげた。
「本当に、心当たりないんだってば。逢ったこともない子に、なんであんなに見つめられなきゃならんの?」
「俺に聞かれても困るが。俺としちゃ、羨ましいですねー、ってとこだけど」
「じゃあ、なんでだろうなぁ……」
「なんでだろうなぁ……?」
ふたりして謎に首をかしげながら、春の道を歩いた。ふたりでいくら首を捻っても答えなどあるわけはなく、謎は、ますます膨らむばかりだ。
ひよりに会ったのは、祐介と別れ、すぐそこが家、というところまでやってきたときだった。
「あ、だいちゃん」
彼女は大翔を見ると、このうえもない笑顔を見せてくれる。
「偶然だねぇ、一緒になるなんて」
さっと吹いた風に、ひよりのセーラー服の襟が揺れる。きれいにかかったアイロンは、ひよりが自ら手がけたものだろう。まったく、そういうことが似合うやつなのだ。
ひよりのセーラー服の清潔さに自分も洗われたような気がして、大翔は目を細める。
「おまえ、何組?」
「B組。先生がね、最初見たときは恐そうな人だな、と思ったんだけど、話してみたらすごく面白い人だったの」
ひよりは、バッグをごそごそしている。
「おまえ、また鍵忘れたんじゃないか?」
「忘れてないもん……」
ムキになったようにバッグを探るひよりの目の前に、大翔は鍵を出してやった。
「ほい」
「あーあ、先越されちゃった」
肩を落とすひよりの前、笑いながら大翔は門の鍵を開ける。
「母さんがお隣の鍵持ってなさいって言ったのは、こういう展開を予想してかもしれんな」
「なんか、わたしがいつも鍵忘れてるみたいに言わないでぇ」
やはり昔から聞き慣れた、そして昔――幼稚園よりも、まだ昔だ――から変わらない、高い声をあげながら、ひよりは、ぷんすか怒っている。
「ごめんごめん。でも、鍵持ってると便利だろ? こういうときだけじゃなくてな」
「……おばさんが、留守のときとか、だいちゃん勝手にうちに入ってこれるしね」
少しだけ、ひよりは口ごもった。
大翔の父は、すでに鬼籍に入っている。車に轢かれ亡くなったのは、小学五年生のとき。大翔はもう、父の不在を嘆く子供ではないけれど。
「はは、勝手に菓子とか食い漁ってるかもしれんぞ?」
「別にいーよ、だいちゃんだったら」
かたん、という音とともに門を開けながら、ひよりは言った。
「そういえばだいちゃん、すごい美人な人に見つめられてたって本当?」
「な、なんで知ってんだ……?」
まるであたりまえのことのようにひよりが言ったものだから、焦りを隠せずに大翔は声をうわずらせた。また、いつの間に彼女を作ったのかと責められるのだろうか。
「んー、なんか噂だよ? 隣のクラスに、熱烈カップルがいるって」
「カップルじゃねぇ……」
思わず大翔は、がりがりと頭を掻いた。そんな大翔を、ひよりはじっと見つめている。
「いや、ほんと。さっきもさんざん祐介に責められてたんだ。カップルなんてとんでもない、今日逢ったばっかりの、隣の席のやつなんだよ」
「ほんと……?」
(ん?)
ひよりの声がうわずったのに、大翔は首をかしげる。大翔よりも頭半分ほど背の低い彼女は、少しだけ上目遣いになってじっと大翔を見つめている。
(なんだ? なんか、今にも泣き……)
「ほんとに? ほんとに、彼女じゃないの?」
「違うって!」
両手で空をかき回すように、大翔はぶんぶんと「違う」のジェスチャーをする。
「彼女とか……恐いよ。彼女なんかじゃないってこと、おまえも、明日見に来いな?」
「そんな、見せものじゃないんだから……」
ひよりは少し苦笑して、本当に大翔の言うとおりなのか、確かめるようなまなざしでこちらを見た。
「すごい美人らしいね。芸能人並みって」
「祐介も言ってた、そういうふうに」
「だいちゃんも、そう思う?」
そう言うひよりはまた先ほどの泣きそうな、拗ねたような目つきで大翔を見ている。
「思うな。でも、俺が見つめられる理由はまったく心当たりがない。それは本当だから」
「ほんとに、知らない人なの……?」
探るように、どこかおどおどと、ひよりが言った。
その、とき。
「わぁぁぁぁっ!?」
ききーっ、と大きなブレーキ音がする。大翔はとっさにひよりの背を抱き寄せて、ふたりして門の中に転がり込んだ。
「っ、だよ……危ねぇ……」
ふたりの立っていた、道にいきなり入り込んできたのは一台の白い車だった。こんな住宅街で出すには速すぎるスピードで、まさに暴走車といっていい暴れかたで車は通り過ぎていく。
――父さんも、あんな暴走車に轢かれて死んだ。保険金と、母が独身時代に就いていた仕事に復帰できたことで経済的には困っていないけれど、だからって諦められるものでもないんだ。
ひよりを抱き寄せて転がったまま、大翔は呻いた。ふたりを轢かんとしていた車は通りすぎ、あたりにはまた静寂が戻ってきた。
「はぁー……っ、乱暴な運転だねぇ」
ひよりの声は、こういうときにもどこか呑気で、大翔は思わず笑ってしまう。父が死んだときも、隣家の幼馴染みのこの声音にどれだけ救われたかしれない。
「こんなところで、あんなスピード……だいちゃん、怪我してない?」
「大丈夫だ。おまえこそ、スカートとか汚れてないか?」
と、ひよりの様子を見ようとして――大翔は、自分がひよりを抱きしめたままであることに気がついた。
「わわっ、ごめん!」
「きゃっ、わたしこそっ!」
ぱっと手を離し、ふたりして慌てて立ちあがる。抱き寄せたことで密着していたとはいえ、相手は幼馴染みだ。小さいころは一緒に風呂だって入っていた――ぽんぽん、とスカートをはたくひよりは、頬を赤くしている。その理由がわからなくて、大翔は首を傾げた。突然のことに、興奮を煽られたのだろうか。
「まぁ、なんせ轢かれなくてよかった」
「うん、だいちゃんも大丈夫そうだね」
ふわり、と大きな風が、ひよりのセーラー服の襟と、スカートの裾を揺らし――。
そこには、彼女がいた。
「神嶋くん」
(誰……?)
風が目に入って、桜の花びらが目の前を邪魔して、見えなかった。しかしその、鈴を振るような声――大翔には、初めて聞く声ではなかった。
「あなたに、逢いに来たわ」
ふわり、と舞い上がった風が、ざぁっと音を立てて。大翔は、目を開く。そして視界の中にあった姿に、瞠目した。
「……乙女、さん……」
そこにいたのは、烏の濡羽色の髪の主――壮絶なる美貌を持つ彼女が、立っていた。
「綾音、でいいわ。あなたは……大翔、だったかしら?」
桜色の風が、綾音の髪が舞う。セーラー服の襟が、スカートが、まるでそんな動きも計算され尽くしているかのように、完璧な美しさを持ってひらめく。
「あなたに、用があるの。お邪魔してもいいかしら?」
「え、今から……?」
今日、隣の席になったばかりの間柄だ。いきなり家に訪ねてくるとか、家にあがりたがるとか――今日一日ずっと見つめられていたことといい、ちょっとばかり。
(ちょっと……エキセントリックな子?)
「ねぇ、だいちゃん」
そっと小さな声で、ひよりが尋ねてきた。「あの人が、例の彼女?」「彼女じゃねぇっ!」。
「じゃあ、わたし、帰るね」
どこか威圧されたように、小さな声でひよりは言った。
「だいちゃんも、気をつけて……」
「お、おぅ」
威圧されていたのは、大翔も同じだった。ひよりは綾音に、ひとつぺこりと挨拶をする。ひよりが玄関のドアを開けられたのは、そちらは鍵が開いていたのだろう。ひよりは、家の中に入ってしまった。
残された大翔は目の前に立つ少女に、今日教室で浴びせられた視線のお返しだ、とでも言わんばかりにまなざしを投げかけた。
陽の下にいるからだろうか、透けるような肌が際だつ。綾音は、教室で見たよりももっと美しかった。もちろん、教室でだって充分美しかったのだけれども。
「そっちが、大翔の家ね。お邪魔するわ」
「お、おぅ……」
先ほどひよりにかけたのと、同じ口調でそう言ってしまった。綾音は、突然現われた自分に大翔が驚いていること、陽の下にいることで教室で見たよりももっと美しい姿に威圧されていることにも気がついていないかのように、隣の大翔の家に歩いていく。
「あ、ちょっと……」
慌てて、大翔は追いかける。ふたりはこぢんまりとした一軒家の前に立った。
先ほど、ひよりの家の門を開けてやった鍵のついているキーホルダーについている別の鍵で、門を開ける。門を開けて玄関に向かった大翔に、綾音は黙ってついてきた。
(こんな、すごい美人は……どっか、エキセントリックなものなのかな)
何だか妙な感覚を抱きながら、中に入る。綾音はやっぱりなにも言わず、大翔が促すままに、上がり框で靴を脱いだ。
「今、親もいなくて……コーヒー、インスタントでいい?」
「別に、いらない」
やはり、鈴を振る声で綾音は言った。何をしに来たのかは知らないが、ずっとこの声を聞かせてくれるのならそれも悪くないと、大翔は思う。
綾音は、やはり大翔が促すままにリビングのソファに座り、促すままにバッグを足もとに置いた。大翔は――綾音は「いらない」と言ったのだけれど、なにも出さないわけにはいかないだろう――インスタントコーヒーを淹れながら、ちらりちらりと綾音を見る。
(やっぱ、美人だよな……)
思わず、感嘆の声を洩らしてしまいそうだ。芸能人並み、いやそんじょそこいらの芸能人なら裸足で逃げ出す美貌の彼女は、見慣れたリビングの様子からは異様に浮いていて、やはり彼女の美しさは本物だと、ついため息。
「お待たせです……、って、インスタントでごめん」
ポットの湯を注いだだけの、簡易すぎるもてなしに、綾音は文句は言わない。それどころか、話を切り出す機会を待っているのか、じっと身じろぎもせずに座っている。
綾音の前のローテーブルにコーヒーを置き、斜め向かいに置いたひとり用のソファに座った大翔は、自分の前にもカップを置く。
「え」
なんの用なのか、さらにはなぜ教室であれほど熱心に大翔を見ていたのか、問おうとして、大翔は妙な声をあげてしまった。
「わぁぁぁ、あぁぁ!?」
気づけば、天井が視界に――なぜ、天井が!?
「あぁぁ、っ、……!?」
ごん、と後頭部に、絨毯越しの固い床の感覚を感じた。大翔の口からは、思わず悲鳴がこぼれ出す。
「いてぇ……、って、なんだなんだ!?」
おののいてしまうほどの美貌が、目の前十センチ先にある――本気で、大翔はぞくりとしたのだ。綾音の、凄まじいまでの美貌が、近づいてくる。
(なんで、目の前……!)
そこで大翔は、自分が女の子に押し倒されていること――自分は絨毯の上に横になっていて、そんな大翔の上にのしかかる恰好で、綾音が馬乗りになっている――。
大翔は、押し倒されていた。女の子に。あまりにも美人すぎて、恐いくらいの美少女に。
「わぁ、ぁぁ、ぁっ!」
「あなたを、食べさせて」
彼女は、言った。
女の子に、押し倒されて。とっさには理解できない言葉をささやかれて。
「へっ、なに……?」
なおも十センチの距離を保ったまま、綾音はじっと大翔を見つめている。
「食べ……、って……!」
海翔の脳裏に浮かんだのは、食べるイコールあーんなことやこーんなこと。大翔は体の芯からの熱を感じ、同時に真っ青になった。
「なに、変な顔してるの」
すがめた目で、綾音は言った。しかし大翔を押し倒した体勢はそのまま、耳もとに再びのささやきを吹き込んでくる。
「呪詛よ。あなたの呪詛を、食べさせてほしいの」
「カー……? を、食べ……?」
大翔は、呆然としていた。床に叩きつけられた背の痛みも、うっかりぶつけてしまった後頭部の痛みもそれどころではない。
見開いた視界には、これ以上近づかないでほしいと願ってしまうほどの美貌が映っていて、その主である綾音は今までに見たようではない、どきりとするような真剣な表情を見せている。
「食べる、って……なにを? カース……?」
「そうよ」
大翔の肩に、彼が起きあがることを恐れるように綾音の手が置かれている。とはいえ、それを振りほどいて起きあがることなど簡単なのだけれど、それよりも彼女の妙な言葉が気になって、大翔は床に横になったままだ。
「呪詛。あなたが身に宿している、その大きな呪詛……!」
綾音はそうささやき、同時にその表情は愉悦に彩られた。まるでマタタビを与えられた猫のようだとでも言おうか、うっとりした顔にはかすかに上気したようにも見える。
「ちょうだい……、お願い、食べさせて……」
(なんだ、食べるのはカースとやらか)
安心したような、それでいて少し残念なような気もしつつ、大翔は息をついた。と、同時にそれどころではないと焦燥する。
「いやいやいや、ちょっと待てっ!」
さっきから、しきりに「食べさせろ」と言われている。もしかすると綾音は鋭い牙を隠し持っていて、油断すると体のどこかを噛みちぎられてしまう――そんなことが頭によぎって、大翔はひるんでしまった。
「カースってなんだ、食べさせるってなんのことだぁーっ!」
「あら、いちいち説明しなくちゃいけないの?」
少しだけ上気した頬は、たちまち冷めてしまう。心の底からつまらなそうにそう言って、綾音は頬を膨らませる。
(あ、かわいい……)
今まで、強烈なインパクトを与えすぎる彼女の美貌に視線を奪われていたのだけれど、そうやって拗ねた顔は相反してかわいらしい。
(美人って、どんな顔しても目の保養にしかならないんだなぁ)
「面倒だわ」
大翔の心中になど気づかない綾音は、悩ましく首をかしげてそう言った。うっかりそれに見とれそうになり、いやいやと大翔は首を振る。
「面倒でもなんでも、考えてみろよ! 教室でじろじろ見られたと思ったら、そいつが家に押しかけてきて、押し倒されたと思ったらいきなり『食べさせて』って、なにを!? 意味わかんねぇよ!」
ひと息にそう言うと、大翔は両足をばたばたさせた。それにどう思ったのか、綾音は体を起こす。
「そうね……そう言われれば、そうだわ。いきなりのことで、あなたも理解が及ばないでしょうし」
「ご推察に、感謝します」
綾音は絨毯の上に座り込む恰好になり、大翔に手を差し出してくる。この手につかまって起きあがれ、ということらしい。
手は、少し冷たくて、柔らかかった。つないだところから、すぅっと清涼感が伝わってくるような気がする。
(これが、女の子の手かぁ……)
女の子と手をつなぐくらい、幼馴染みのひよりと何度も経験済みだ。しかしそれは幼稚園や小学校低学年の幼いころ。高校生という年齢で、女子と手をつなぐのは初めてだ。
(って、味わってる場合か!)
大翔は、激しく自分にツッコんだ。
ふたりしてリビングの床に座り、顔を見あわせる。綾音は、どこから説明しようか、とでもいうように考え込む様子を見せていた。
「で? なにを食べるって?」
説明してもらおうか、と大翔が迫ると、綾音はじっとこちらを見つめる。そして、その熱が伝わってきそうなため息をついた。
「ああ……、やっぱり……。すごく、大きい……」
「な、なにがっ!?」
なんとなく貞操の危険を感じて、自らの腕で自分をかばってしまった。しかし彼女自身はどういうつもりで言ったのか、大翔の反応にきょとんと目を見開いている。
(どんな表情しても、美人ってのは本当に美人なんだな……)
綾音と逢ってからそれほど時間が経ったわけではないのだけれど、すでにいろいろな表情を見せてもらった。そして一番かわいらしいのは、このきょとんとした表情だと思う。
「もちろん、呪詛がよ。あなたほどに大きい男は……見たことがないわ」
大きいと言われることにはやぶさかではないが、カースが大きいというのはいいことか悪いことなのか。まったく見当がつかず、大翔は戸惑うばかりだ。
今度は綾音の、またうっとりとした表情。先ほどとは少し違う彩りが添えられている。
「なにが、どうだって?」
今度は、隙を衝かれて押し倒されるわけにはいかない。綾音が突然襲ってきても先ほどのように易々とは意のままにならないと、大翔は全身に力を籠めた。
「カースってのがなんなのか、説明してもらおうか」
「ああ……」
心底面倒そうに、綾音はため息をつく。そしてじっと大翔を見据えて、言った。
「あぁ、あのね……呪詛、よ。呪い。あなたの抱えている、呪いが大きいって言ってるの」
「呪いー!?」
思わず、ぞっとした。大翔は自分の身を抱きしめて、声をあげる。
「冗談でも、そういうのはやめてくれよー! 俺、怪談とか苦手なんだよ!」
「怪談じゃないわ。本当のこと。あなたは、とてつもなく大きな呪詛……呪いを持っていて、それでいてその呪いに殺されていない」
そのことがなぜか、綾音をうっとりさせるらしい。彼女はまた息を吐いて、彼女は恍惚の表情を見せる。
「あなたは本能で、自分の呪いを身の奥で飼う術を知っているの。呪詛って言葉さえ知らないってことは、自分のことを知らないの? 知らないのに、そんな……ああ」
綾音は、また息を吐いた。
「素敵だわ……素敵すぎる。今まで我慢していて、本当によかった」
「我慢って、なにを!?」
なにがなんだか、わけがわからない。うっとりする綾音の前、混乱する大翔は、また自分をじっと見てくる綾音の視線に晒される。
「だから、呪詛を食べることを、よ。……わたしは、呪詛喰らい(カース・イーター)。より大きな呪詛を求めてさまよう生きものなの」
「はぁ……っ……?」
大翔は、何度もまばたきをした。
「生きもの、って……人間じゃないってこと……?」
「そう、呪詛喰らい(カース・イーター)っていう種類の、生きものよ」
生きもの。人間ではない。大翔は唖然とし、そんな彼に、綾音は大きく頷いた。
「呪詛喰らい(カース・イーター)たちは、擬似的家族を構成して、人間の中に潜んでるの。わたしも、『お父さん』『お母さん』そして『お姉さん』と一緒に、三丁目に住んでるわ」
「へ、へぇ……」
呪詛喰らい(カース・イーター)のお姉さん。「妹」がこれほどの美女なのだから、疑似家族とはいえ『家族』もそれ相応だろう。彼女の言う『家族』を見てみたいと、大翔は好奇心を疼かせた。
「わたしたち呪詛喰らい(カース・イーター)は、人間に憑いた呪詛を食べるの。たいていは小さな呪詛ばかり、たいしてお腹の足しにはならないんだけど、あなたの……あなたの、呪詛は……」
ごくり、と綾音は咽喉を鳴らす。その仕草も色っぽくて、大翔は思わず見とれてしまう。
「あなたの呪詛は、わたしを一生養ってくれるだけの大きさがあるわ」
吐く吐息も、艶めかしかった。海翔もまた固唾を呑みながら、ささやくように言った。
「ええと……、乙女、さん」
「綾音でいいと言ったわ。よそよそしいのはやめて」
また、もう少し怒った顔。いずれも違う雰囲気があってかわいらしく、思わず見とれてしまう。そんな大翔の心を読んでいるかのように、怒った顔のまま綾音は言った。
「じゃあ、今まではどうしてたんだ……?」
「わたしは、呪詛を食べたことがないの」
小さな声で、綾音は言った。
「小さな呪詛をちまちま食べるなんて、わたしの趣味じゃないわ。あなたくらいの大きな呪詛持ちを、ずっと探してたのよ。ほかの呪詛喰らい(カース・イーター)に、少しずつ呪詛をわけてもらいながら……」
そして、じっと大翔を見つめる。
「でも、やっと見つけた。あなたの呪詛を、わたしが食べるの」
「食べるって……どうやって?」
意味もわからないままに、大翔は問うた。すると綾音は、今度はぱっと顔を赤らめる。先ほどのうっとりした表情よりも赤みは強く、そのぶん彼女の顔は彩りに染められて艶を増した。
「ええと……あのね」
綾音は、その『烏の濡羽色』の髪に指を絡め、くるくると巻き取った。先ほどまでの居丈高なまでの態度はどこへやら、殊勝なかわいらしさに大翔は目をみはる。
「あなたの持ってるほどの大きさの呪詛を食べるためには……」
そこで、綾音は言葉を切った。言い出しにくそうに、もじもじしている。
「あの……。『大人の行為』を、するの」
「いぇあ!?」
「そうやって、あなたの呪詛をあまさずわたしの中に取り込む……」
綾音がはにかんでいること、そして「食べる」という言葉から、推測された意味に大翔は飛びあがりそうになった。妙な言葉まで出てしまう。
「はぁぁぁっ!? 大人って、なに言って……」
「これ以上、言わせる気?」
今度は、本気で怒った表情になって綾音は言った。
「もう言わないわよ、何度も同じこと、言わせないで!」
「いや、無理やりには言わせないけど……」
指に絡めた髪をきゅっと引っ張ってしまい、「きゃん!」とあがる声は子犬のしっぽでも踏んだみたいだ、と大翔は思い――それは一種の、現実逃避だ。
「……そういう、意味なの?」
思わず声を潜めてしまう。綾音は、朱の走った顔のままうなずいた。
「じゃ……、綾音さんは、俺の呪詛とやらを食べる生きもので……、それを食べるためには、大人……」
そこまで言って、はっとした。呪詛、呪い。最初はそれをただの怪談のはじまりかと思ったけれど、違うのか。呪い、という言葉に大翔は思い当たる節があった。
「あのさ……、俺って、ものすごく運が悪くてさ」
どう言えばいいのか、言葉を探しながら、大翔は言った。
「しょっちゅう時計がいつの間にか止まってて遅刻ぎりぎりになったり、犬に吠えつかれて噛みつかれたり、車に轢かれそうになったり、ひとりだけ食べものにあたったり、とにかくいろんな目に遭うんだよ」
その先を言うべきかと少しためらったけど、それもこの話の一環かもしれないと付け加える。
「小学生のときに、父親が死んじゃうしさ。そういうのって……もしかして、呪いのせい?」
「そうよ」
あっさりと、あたりまえのことのように綾音は言った。
「あなたが、呪詛持ちだからそうなるのよ。あなたほどの呪詛持ちだもの、むしろ犬に噛まれても死ななかっただの、実際には轢かれなかっただの。そんな強靱さを持っていることも、わたしが食べたい、ほかにはないあなたの特性なの」
え、と思わず眉根を寄せた大翔は、それよりも、と綾音が寄ってきたことに驚いた。また押し倒されるのかと全身に力を入れるが、綾音にはもっと気になることがあるらしい。
「お父さんが、亡くなったですって?」
「お、おぅ……」
そんな綾音の勢いに押され、彼女が肩口に顔を寄せてきたことを阻めなかった。まるで首筋にキスでも受ける恰好になって、大翔は慌てる。
「ちょ、綾音……、さ……」
「……やっぱり」
くん、とまるで食べものを前にした猫のように鼻を鳴らして、綾音は言った。
「あなた、その呪詛……ずっと昔の先祖から受け継いでいるものね。道理で大きいはずだわ」
「先祖、って……」
「お父さん、亡くなったって。お父さんも、運の悪い人じゃなかった?」
「あ……」
そういえば亡くなった父も、たまたまニス塗り立ての階段ですっ転んで頭を打って救急車、何度も車に轢かれかけたり(そして実際に轢かれて死んでしまった)など、武勇伝には事欠かない人物であった。
「お父さんは、呪詛喰らい(カース・イーター)に出会う前に呪詛に犯されて、死んでしまったのよ。そのぶん、蓄積された呪詛が、あなたの身に宿ってる」
「ええっ……」
思わず、眉をひそめてしまう。綾音の言うことは意味がわからず奇妙なばかりなのに、そう言われてみるといろいろなことに辻褄が合ってしまうのだ。
「その、前は? あなたの、お祖父さんは? あ、父方のね」
「俺が生まれるずっと前に、亡くなってるよ。ばあちゃんは、小さい子供抱えて苦労したって、何度も……」
ああ、と思わずうなずいた。また、辻褄が合った。
「……じいちゃんも、呪詛のせいで早くに死んだってこと?」
「たぶんね」
このうえもなく真面目な顔で、綾音は言った。
(あ、その表情、また見たことない……)
新たな綾音の表情に、うっとりと見とれた。聞かされた話が衝撃的過ぎて、それは大翔の再びの脳内逃避だ。
(本当に、いろんな顔見せてくれるなぁ……それが、全部が全部、美人だっていうのがすごいけど……)
「これで、はっきりしたわね」
大翔の逃避には気づいていないらしい綾音が、その真面目な顔のまま、言った。
「あなたの呪詛が、本物だってこと……何代にも渡る本当に大きな呪いを抱えていながら……今まで、死なずに済んでるってこと」
綾音はそうつぶやくように言い、身をしなだれかけさせてくる。上目遣いに見あげられ、うっとりした頬の紅潮と熱い吐息を見せつけられて。
(大人の、行為……)
思わず、ごくりと息を呑んでしまう。そんな大翔に、綾音は期待するまなざしを向ける。
「わたしが、呪詛喰らい(カース・イーター)だってこと……信じて、くれた……?」
「うん……」
「あなたの呪詛が、わたしのためにあるってこと」
「……う、ん……」
ますます、綾音は身を寄せてくる。彼女を胸で受けとめる恰好になってしまった。
「ほかの呪詛喰らい(カース・イーター)に、呪詛を食べられていなくて、本当によかった……」
恍惚の表情で、綾音はささやく。また、熱っぽい息をついた。
「もっとも、今まで呪詛喰らい(カース・イーター)に会わなかったのは、大翔の不運だけれどね。さっさと食べさせておけば、呪いから解き放たれたはずなのに」
「呪詛を食べられたら……呪いがなくなるのか?」
綾音は、うなずいた。
「あなたに憑いている呪詛はさっぱり消えて、普通の人間になるの」
でも、わたし以外は食べちゃだめ。大翔の呪詛は、全部わたしのもの。うたうように、綾音は言う。
「あなたの持っている呪詛はとても大きいから、わたしの一生に一回で、充分……」
そうつぶやき、頬を赤らめている綾音を前に、大翔は唖然と彼女を見つめる。
(呪いが解けるんだ。喜んで受け入れ……)
ごくり、と大翔は息を呑んだ。
(今、母さんが留守なのは天の思し召し……いや、呪いだから、地獄の……? ……そんなことは、どっちでもいい)
すりっ、と綾音が艶やかな髪を寄せてくる。
(呪詛とか、意味わかんないけど……綾音の言うとおりだったら、……俺は今から、このものすごい美人さんと……、大人の行為を……)
そう思うと、大翔は全身の力が抜けるのを感じた。
(大人の……行為……!)
「ちょっと待て!」
大翔のあげた声は、体を寄せてくる綾音に向けたものか、自分自身にツッコんだものか。
「ちょっと待て待て! そういうわけにはいかんでしょーが!」
言葉遣いが妙なものになってしまう。大翔は素早く身をすべらせて、綾音から逃げた。女の子を前に「逃げる」という行為は、なんとも情けないけれど。
「俺たち中学生、じゃなくて、高校生になったばっかり! そーゆーのはなしっ!」
「ええぇ、大翔……」
綾音が、不満そうな声をあげる。その表情も、またかわいらしいのだけれど。
「わたしとじゃ、いや?」
「いやなわけない、けど。いやなわけないけど、こーゆーのはだめだって!」
綾音と距離を取ろうとする。大翔が後ろに腰をすべらせると綾音は前に寄り、また大翔が逃げると、綾音が寄ってくる。
「なんで逃げるの、大翔……」
「逃げるよっ! てか、それでいいですか綾音さんっ!?」
語尾が、おかしなふうにうねった。そんな大翔を、綾音は不満げに見やる。
「あら、だって言ったじゃない。大翔ほどの大きな呪詛持ちも見たことがなければ、それだけの呪詛を押さえていられる呪詛持ちも初めてなの」
だから、と綾音は寄ってくる。
「呪詛喰らい(カース・イーター)の冥利に尽きるわ……、だから、早くあなたを食べさせて?」
「いや、そんなに簡単に心、決められないから! てか、こんな昼間っからなに言っちゃってんの!?」
「夜だったらいいの? なら……」
「いやいや、そういう問題じゃないから!」
もちろん(と威張ることでもないが)、大翔も男として、目の前の超級美少女に反応しないわけではない。
「でも、俺にはまだ早すぎますーっ!」
自分でも、情けないと思う。しかし心の準備もなく、受け入れられないものは受け入れられないのだ。
(ヘタレだと、言わば言え! 心の、心の準備ができてないんだっ!)
大翔は、がばりと立ちあがる。そして二階に向かって、走った。
「あっ、大翔!」
「助けて、じいちゃん、父さんっー!」
「大翔、待ってよぉっ!」
ばたばたと二階の自分の部屋にあがると、進学祝いに「自分のプライベートも必要でしょう」と母がつけてくれた、鍵をがちゃりと閉める。
「大翔っ、どうして籠城しちゃうの!」
「籠城もするっての!」
綾音はいつまでもどんどんとドアを叩いていて、大翔はベッドのうえで小さくなっていた。
「これも、俺の不幸……いや、幸運!? いったいどっち!?」
高校生になったばかりの身には、『大人の行為』どころではない。これが、精いっぱいだった。