幼い頃にした性の勘違い
これから書くのは、幼い頃に抱いていた性にまつわる勘違いの話だ。
僕は子供の頃、性についてまったく分かっていなかった。子供にはまだ性という概念がないし、何よりそれが目覚めていないから、分からないのは当然のことだ。
とはいえ、無垢なのは子供だけで、その周りには性が氾濫している。幼い子供であっても、性にまつわる話に触れる機会は決してゼロではない。ただ、当時の僕には知識も経験もなかったため、無邪気に勘違いし、自分なりに解釈していた。きっとそれは僕だけではなく、誰もが一度は経験することなのだろう。
例えば、なぜ男と女がいるのか。最初にそんなことを考えたのは幼稚園児の時だ。当時の僕は、本当の意味での性を一切知らなかった。
子供であっても、男女の差で最も大きいと感じるのは、女の子にはちんちんが無いということだ。それに気づいたのは、たしかプールの授業の時だった。幼稚園の頃の僕たちは幼く、誰も気にせず裸になって着替えていた。僕も裸になり、ふとクラスメイトの女の子の股間を見たとき、そこにはちんちんがなかった。ちんちんが無いことは、どこか知識として知っていた気がする。けれど、実際に自分の目で見たのはそれが初めてだった。ちんちんがあるべき場所に、代わりに割れ目があって、なんだか桃みたいだと思った記憶が今も鮮明に残っている。
では、幼かった僕は、男と女は何故分かれているのかという疑問に対してどう考えたか。
それは単に、ちんちんがあるかないかというだけの違いなのだろうか。当時の僕は、力仕事は男が担い、家のことは女が担うという、単純な役割分担のようなものだと思い込んでいた。力強い人がいないと世の中は困るだろう、という程度の、ひどく単純な感覚だ。生殖という概念など微塵もなく、世の中に溢れていた男らしさや女らしさというステレオタイプを、そのまま男女の存在意義なのだと信じ切っていた。
この時は、子供を作るのに男女が必要だということさえ、全然分かっていなかった。子供が欲しい夫婦の元に、コウノトリが赤ちゃんを運んでくるという話を本気で信じていた。空を飛ぶコウノトリがおくるみに包まれた赤ちゃんを運んでくる様子を想像していた。
母親のお腹から赤ちゃんが生まれると知ってからも、「じゃあ父親は何のためにいるのだろうか」と疑問に思った。当時は、父親は母親や子供を守るための役目だと思った。そして、赤ちゃんがどこから来るのかは分からないが、母親一人で赤ちゃんを作れるのではないかと考えていた。今振り返ればめちゃくちゃだが、当時は至って真剣だった。
僕はちんちんが初めて勃起した、つまり性的な反応をした時のことを覚えている。それは幼稚園のとき、祖父母の家に遊びに行った際のことだ。
祖父母と父母、そして兄妹と一緒に晩御飯を食べ、テレビを見ていたとき、「そろそろお風呂に入りなさい」と言われ、おばあちゃんにお風呂に入れてもらった。風呂場で頭を洗ってもらい、一緒に湯船に浸かって、十秒ほど数を数えた。その後にお風呂から上がり、おばあちゃんにタオルで身体を拭いてもらった。
僕はそのまま全裸で居間へ行った。そこでふと自分のちんちんを触ってみると、それがどんどん硬くなって立ち上がった。自分でも一体何が起きているのかさっぱり分からず、ただただ不思議で、笑いながらそれを眺めていた。周りにいた家族もそれを面白がって笑っていた。けれど、これが性的な反応だなんて、当時の僕は全く分かっていなかった。
もちろん、子供だったが、僕にも性を見る機会はあった。それが実感を持つものではなかったが。記憶にあるのは、小学校低学年の頃に動物番組で見た交尾のシーンだ。オスがメスの背中に乗っかる様子を交尾として説明し、その後に赤ちゃんが産まれるシーンがあったため、交尾は動物が赤ちゃんを産むのに必要な行為なのだと理解した。一生懸命にメスの背中に乗っかろうとするオスが滑稽で面白く感じた。
しかし、僕はそれを人間にも当てはめて考えることはしなかった。それに、交尾はただ乗っかるだけであり、ちんちんをメスに差し込んでいるとは夢にも思わなかった。知識も実感もない子供時代だったからこそ、そんな結論になった。他の子供たちも同じだったはずだ。
この頃は、男女がキスをすれば子供ができると考えていた。夫婦になった男女が仲良くキスをすれば、子供が出来るのだと信じていた。好きだという気持ちを示す行為の最大級がキスであり、それをすれば子供ができるのだと思ったからだ。
もう少し後になると、男女が裸でベッドに入れば子供ができると思うようになった。この頃の僕でも、男女が裸で寝るという行為には、どこか言いようのないいかがわしさがあるとは感じていた。それでも、裸で一緒に寝るだけで完結するのであり、それ以上の刺激的なことをするとは夢にも思わなかった。こうした知識は、主にテレビドラマのベッドシーンから得たものだ。
ただ、家族と一緒にテレビを見ているわけだから、そういうシーンが流れた時に漂う独特の気まずさを、僕は幼いながらにしっかりと感じ取っていた。同時に、学校ではクラスの友達と、あのシーンについてコソコソと内緒話をした記憶がある。けれど、そんな会話の中でも、ベッドシーンにちんちんが関係していることなど、当然ながら想像すらしていなかった。
また、自分のちんちんと大人のちんちんの扱いの違いを意識し始めたのもこの頃だ。
子供のちんちんは何か規制されることはなかった。でも、テレビ番組を見ていて、大人のちんちんが出た瞬間、例えばお笑い芸人が服を脱いで全裸になった瞬間などに、ちんちんにモザイクがかかるのを見た。
僕は、大人のちんちんはちん毛が生えていて大きく、見た目が汚いから見せてはいけないのだと思い込んでいた。当時の僕にとって、大人のちんちんに毛が生えているのは、大人に髭が生えているのと同じくらいの感覚だった。そもそも、なぜ大人になると髭が生えるのかさえ分かっていなかった。ただ、僕はそのモザイクがかかったちんちんが面白くて、爆笑していた。
睾丸についても、なんのためにあるのかと不思議に思った。二つのボールのような形をしていて、ここを蹴られたら痛い急所なのだから、ない方がいいと思った。二つあるのはバランスを取るためなのか、それともおしっこを溜めるためなのか。正解のない問いに、一人であれこれと考えを巡らせた。
そういえば、男は股間におしっこをする穴とうんこをする穴しかないから、女だって同じ構造なのだと思い込んでいた。だから、あんなに小さいおしっこの穴から赤ちゃんが出るはずがないと考え、うんこのように肛門から出てくるのではないかと本気で勘違いしていた。僕がトイレでなかなか力んでもうんこが出ない時、硬いうんちがなかなか肛門を通って出ないあの痛みに耐えながら、赤ちゃんを産む時はこんな感じに辛いのだろうかと、想像した。
そんな無垢な僕だったが、セックスという言葉を友達から聞いたのは、小学三年生くらいの頃だった。でも、当時はただ面白い新しい言葉に過ぎず、具体的に何をするのかは分かっていなかった。むしろ、言ってはいけない言葉だからこそ面白いと感じて、連呼していた。なので、この言葉を知ったからといって、何か意識が変わったわけではない。
そのあたりから、ちんちんにはおしっこ以外の役割があるのだと分かり始めた。例えば、精子がちんちんから出てくるということだ。でも、その時はおしっこを精子と同一視していた。科学の本などで精子と卵子が受精することなどは知っていたため、精子という存在は認識していた。けれど、ちんちんから出た精子をどうやって卵子に届けるのかについては、自動で届くのだと思っていた。あるいは、性の絵本に載っていた、男が女を抱きしめて寝ている時に女の人にちんちんが刺さっている描写を見て、寝ている時に体が動いて勝手にちんちんがバギナに挿入されるのかなと考えていた。
ちなみにバギナというのは、その性の絵本に載っていた表現だ。当時の僕は、ちんこという言葉に対応するような、いわゆるマンコという呼び方など、もちろん知らなかった。
たしか小学四年生の頃だったと思う。そのときもまだ、僕はおしっこと精子を同じものだと思っていたし、女の子のおしっこにも、男の精子みたいなものが入っているのだと信じていた。だから、クラスで仲がいい、というか、実際はそうでもないんだけど、周りからやたらと冷やかされている男女が二人いて、僕はその二人のおしっこを混ぜたら子供ができるんじゃないかと、本気で考えていた。
頭の中では、シャーレの上で二人のおしっこが混ざり合い、その中に含まれた精子と卵子が受精して、やがて試験管のような透明な筒のような場所で、小さな赤ちゃんが育っていく、そんな妙に具体的な光景まで想像していた。
というのも、当時の僕はなぜかバイオテクノロジー的なものにやたらとハマっていたからだ。実際そんな実験をしてみたい、とか思っていた。なんというか性的な好奇心というよりは、純粋な知的好奇心の対象だった。
ここまでは僕がまだ性とは無縁だった時の勘違いの記録だ。
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