言葉を奪われた令嬢は、精霊の「真名」だけが読める
## 序——黒い文字が、揺れている
「完治不能」と、三人の魔法士が首を振った。
それだけだった。
侯爵家の三女が喋れなくなった夜、誰も泣かなかった。父は書類を閉じた。母は視線を逸らした。長女はそっと口元を押さえた——笑いを噛み殺す仕草だと、アリアにはわかった。
三年前のことだ。
今でも、声は出ない。
アリア・ヴェルダン、十六歳。侯爵家の「落ちこぼれ」として知られている。
この世界の魔法は「魔法式」で動く。数式と記号を空中に描き、精確に起動する。百年前の大魔法戦争以降、それが唯一の正統魔法だ。感情や歌声で発動する「原始魔法」は野蛮な遺物とされ、今や子どもに聞かせる昔話になっている。
だからアリアは落ちこぼれだった。声が出なくても魔法式は書ける。指で空中に数式を描くことだってできる。
問題は、そこじゃない。
アリアには、見えてしまう。
魔法式の——奥に。式の、根元に。
うごめく黒い文字列が。
「また見てる」
隣の席のセルカ・ロウが呆れた声で言った。金髪を三つ編みにした美しい少女。魔法式の成績は学年三位。空気を読む能力は学年一位。「先生の式が何だって言うの」
アリアはノートに書いた。
〈式の後ろに何かある。ずっと揺れてる〉
「……精霊?」
〈たぶん〉
「存在しないでしょ、精霊なんて」
アリアは何も書かなかった。
見えている。見えているものは、ある。
声を奪われてから三年間、それだけが彼女の確信だった。
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##
王都魔法学院の入試当日。
会場は静まり返っていた。三十人の受験生。春の光が石造りの壁に差す。磨き込まれた床が冷たく光っている。
アリアは膝の上で手を組んだ。震えを隠すように。前夜から一睡もしていない。
「今年より、魔力の質的評価を導入します」
試験官が台の前で言った。「封印石に魔力を通してください。感情成分の割合が基準値以内なら合格です」
ざわめいた。
アリアは息を止めた。
封印石——魔力を「論理成分」と「感情成分」に分解する特殊な鉱石だ。感情成分が高いほど低評価になる。それは——
自分に最も不利な試験形式だった。
順番が来た。
薄暗い試験室。台座の上に直径三十センチの灰色の石。無数の細かい傷がついている。何千人もの手の跡だろう。
アリアは石に手を添えた。
魔法式を頭の中に描く。ゆっくりと、丁寧に。感情を排除して——
その瞬間。ざわ、と動いた。石の奥で。
黒い文字列が。
揺れている。うずくまっている。まるで小さな生き物みたいに。
アリアは手を引きかけて——止まった。
見える。石の中に、何かがいる。精霊じゃない。もっと古い。石そのものが持つ根源的な「名前」だ。
アリアは唇を動かした。声は出ない。でも——心の中で、その文字列を「読んだ」。
石が光った。
「——っ!」
試験官が立ち上がった。補佐官が石に駆け寄る。「今、何をした!」
アリアはノートを取り出した。
〈石の中の名前を、読みました〉
「名前?」
〈石が、応えてくれました〉
試験官の顔が青ざめた。補佐官と何か囁き合い、やがて言った。
「不合格です。これは試験の逸脱行為です」
廊下に出た。視線が刺さった。
「落ちこぼれ侯爵令嬢だって」「声も出ないのに受けるから」「石を壊しかけたって」
俯いた。爪が手のひらに食い込んだ。
痛くない。もう慣れた。
でも——
〔石が、応えてくれた〕
それだけは確かだった。それだけは、誰にも奪えなかった。
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##
試験から三日後、王都北区の空が赤く染まった。
魔法式の魔力は青白い。あれは赤い——怒りのような、深い赤だ。
アリアは外套を羽織って走り出した。
逃げてくる人々とすれ違う。子どもを抱えた母親。荷物を捨てた行商人。焦げた匂い。石畳が震えている。
「神獣だ! 北から来た! 軍が押さえられない!」
神獣。百年前に絶滅したとされる、巨大な魔獣の王。かつて「語り部」と呼ばれた人間と契約し、世界を守護したとされる伝説の生き物。
瓦礫の向こうに、それはいた。
でかかった。
建物三階分。漆黒の毛皮。四本の足が着地するたびに地面が沈む。三つに分かれた尾の先端から赤い炎が散っている。二本の角が天を衝き、瞳は深い金色に輝いていた。
黒き霊獣——〈焔虎〉。
その全身に、アリアには見えた。
黒い文字列が。びっしりと。全身を包むように。
呪いじゃない。怒りだ。悲しみだ。孤独だ。言葉にならない感情が文字になって、その巨体を覆っている。
「離れろ! 民間人は下がれ!」
軍の魔法士たちが式を展開した。氷の壁。刃の嵐。連続した爆発が轟音を立てた。
〈焔虎〉は動じない。
一吠えで氷が砕け、爆発の衝撃を尾ひと薙ぎで弾いた。
当然だ、とアリアには思えた。
文字列が全ての魔法式を拒絶している。数式の論理を、感情の奔流が上書きしている。数字は感情に勝てない。
アリアは一歩、前に踏み出した。
「——馬鹿か、お前!」軍の魔法士が怒鳴った。「近づくな! 死ぬぞ!」
振り向かなかった。
瓦礫を踏み越える。砂埃が舞う。熱気が頬を焼く。地面が揺れる。
〈焔虎〉の金色の目が、アリアに向いた。
低い唸り声。腹に響く。空気が燃える。
五メートル。三メートル。二メートル——
白い炎が牙の間に灯った。
周囲の魔法士たちが叫んだ。
アリアは目を閉じた。
文字列を、読む。
怒りの文字。悲しみの文字。そして——小さな、途方に暮れた文字。
探している。何かを。ずっと。百年間。
「語り部」が来るのを——ただ待ち続けた孤独な文字列が、そこにあった。
〔怒ってるんだね〕
心の中で、言葉にならない言葉を作った。音じゃない。感情の輪郭を直接形にした何か。
〈焔虎〉が止まった。
白い炎が揺れた。消えかけて、また揺れた。
〔何を失ったの〕
金色の目が、揺れた。
鋭い獣の目に——子どもみたいな迷いが宿った。
アリアは一歩、前に出た。手を伸ばした。
〔教えて〕
〈焔虎〉が動いた。
頭を下げて——アリアの手に、鼻先を押しつけた。
熱かった。
炎のような体温。でも焼けない。不思議なことに、まったく焼けない。
その瞬間、流れ込んできた。映像。感覚。言葉にならない記憶。
廃都の跡地で、一頭の黒い子獣が鳴いている。語り部の民が暮らしていた集落の跡。百年前に滅んだ、声で魔法を使った人々の残影。石造りの廃墟。燃え落ちた図書館の柱。
何年も。何十年も。何百年も。
来ない。誰も、来ない。
アリアは目を細めた。
三年前の夜を思い出した。呪紋をかけられた夜。一人で朝を迎えた夜。誰も来なかった夜。
わかる。その孤独が、わかった。
その文字列の中から、一つの文字列を選び出した。
五十三の文字で構成された、複雑な輝き。リズムがある。抑揚がある。最初から歌になるように設計されているみたいに。
これが——この子の、真名だ。
声では発音できない。言語でもない。
でも——心の中で、歌にすることはできる。
アリアは目を閉じた。
歌った。
声なき歌。音のない旋律。感情だけで編んだ五十三の音節。
一音目。〈焔虎〉の体が震えた。
二音目、三音目——赤かった炎が青白く変わる。怒りの色が、溶けていく。
七音目——まるで夜が明けるように。街を包んでいた熱気が、すうっと消えた。
光が差した。瓦礫の上に、春の光が戻ってきた。
最後の一音。五十三番目。
〈焔虎〉が鳴いた。
子犬みたいな、高い声で。
そのまま、どさりと横になった。三つに分かれた尾が左右に揺れた。
——尻尾を振っていた。
アリアは膝から崩れた。〈焔虎〉の側腹に手をついた。温かかった。火山みたいに熱いのに、怖くなかった。
〔名前をあげる〕
心の中で言った。
〔君の名前、ちゃんと呼べたから——私も、名前をあげる〕
ノートを取り出した。書いた。「アリア」と。
〈焔虎〉の前に差し出した。読めるはずがない。
でも——〈焔虎〉は頭を傾けて、鼻先でそっとその文字に触れた。
一度だけ鳴いた。まるで、名前を呼ぶように。
周囲の魔法士たちが、呆然と口を開けていた。誰も、何も言えなかった。
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翌日、王都が揺れた。物理的にではなく——社会的に。
「神獣を単独制御した令嬢が現れた」「声なしで」「魔法式を一切使わず」
朝刊。昼の瓦版。夕方の立て看板。
王宮から使者が来たのは六時間後だった。
アリアが屋敷の中庭で〈焔虎〉に黒パンを食べさせていると——神獣が黒パンを好むとは誰も思っていなかった——白い礼服の男が現れた。四十代後半。眼鏡。鋭い目。でも今だけは、その目に何か子どもっぽいものが宿っていた。
「王立魔法研究院主席研究員、クロヴィス・ハインです」
アリアはノートを向けた。
〈何をご確認に?〉
「神獣制御に、魔法式を使いましたか」
〈使っていません〉
「では何を使いました」
〈真名を読んで、歌いました〉
長い沈黙。〈焔虎〉が黒パンをもぐもぐ食べている。
クロヴィスは眼鏡を直した。「……百年前、語り部の民が持っていたとされる能力があります。『万物の真名読み』。その能力の保有者が過去五十年で記録から消えています」
アリアは目を上げた。
「あなたが——唯一の現存語り部かもしれない」
心臓が、強く打った。
唯一。三年間、落ちこぼれと呼ばれ続けた。声がないから。感情的すぎるから。魔法式の向こうにある文字列から目が離せないから。
でも——
〔見えていたものが、本物だった〕
〈焔虎〉がアリアの肩に頭を乗せてきた。重い。すごく重い。でも温かい。
アリアはノートに書いた。
〈語り部になれば、試験を受け直せますか〉
「……試験、ですか?」
〈学院の入試。三日前に落ちたんです〉
一拍。クロヴィスが噴き出した。笑い声を押し殺しているが、肩が震えている。
「試験どころか——王立研究院直属の語り部として、国家登録の話が出ていますよ。あなたの能力は現代魔法の根幹を揺るがす可能性がある」
〈それよりも学院に行きたいです〉
「……なぜです」
〈魔法式の根元に見える文字列が何なのか、ちゃんと理論で理解したい。直感だけじゃ、いつか間違える〉
クロヴィスは長い間、アリアを見つめた。
やがて深く頭を下げた。「……わかりました。推薦状を書きましょう」
〈焔虎〉が黒パンを食べ終えて、満足そうに尾を三本、同時に振った。
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## 幕間——セルカの話
「信じられない」
試験から一ヶ月半後、セルカがティーカップを乱暴に置いた。侯爵家の応接間。クッキーが皿に三段重ね。暖炉の前で〈焔虎〉が丸くなっている。
「あなた、神獣連れて学院に正規入学したの。なんなの」
〈一行で言うと——石の中の名前を読んだら、全部繋がった〉
「全然わからない」
〈じゃあ二行で。魔法式の根元には全部、精霊の文字がある。私はそれが読める〉
「……要するに最初からチートだったってこと?」
アリアは少し考えて、書いた。
〈声を奪われなかったら、たぶん気づかなかった〉
セルカが止まった。「……どういうこと?」
〈声があったら普通に詠唱の練習をしてた。声がなくなったから、別の方法で世界と話す方法を無意識に探してた〉
セルカの目が、潤んだ。少しだけ。
「……呪いが、才能になったってこと?」
〈正確には——呪いが、元からある才能を掘り起こした〉
セルカは乱暴にクッキーを一枚食べた。「もう。そういうこと先に言いなさいよ」
〈先に言えたら苦労しなかった〉
声なく笑った——アリアは唇だけで、セルカは声に出して。
暖炉の前で、〈焔虎〉が尾を揺らした。
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##
学院の廊下は毎日、壁際が空いていた。
〈焔虎〉が隣を歩くからだ。今は体を縮めて柴犬ほどの大きさになっているが、廊下の端に張り付いた学生たちの顔はどれも引きつっていた。「……あの令嬢が語り部の」「神獣普通に連れてる」「怖くないの?」
アリアはノートに書いて後ろに掲げた。
〈真名は心で読むものだから、怖くないです〉
固まった学生たちの横を通り過ぎた。
担当教官のグラン教授は最初の授業でこう言った。
「語り部の特例は認めない。ここでは魔法式で解答しろ。君の真名読みは別の能力だ。ここで学ぶのは論理だ」
〈わかっています〉
「なぜここに来た」
〈魔法式の根元に見える文字列を、理論で理解したい。直感だけでは間違える〉
グラン教授が眉を持ち上げた。長い沈黙。教室の後ろで誰かがくすくす笑った。
グラン教授がその生徒を見た。笑い声が止まった。
「面白い。着席」
アリアは窓際の席に座った。〈焔虎〉が足元に丸まった。教室の温度が少し上がった。隣の生徒が「暖かい……」と呟いた。
入学から二週間後の深夜、問題が起きた。
寮室でノートを書いていると廊下に気配がした。足音が止まる。丁寧なノック。
「アリア・ヴェルダン嬢。少しよろしいですか」
知っている声だった。
クロヴィスの補佐官——エルド・マーシュ。三十代。金色の短髪。いつも笑顔が人当たりよく見えるが、目だけが笑わない。
アリアはドアを開けた。
「単刀直入に言います」笑顔のまま。「あなたの能力を研究院が独占管理したい。語り部の力は国家機密に相当します。今後、学院を含む外部での活動は制限していただく」
〈断ります〉
「断る?」
〈私の能力は私のものです〉
エルドの笑顔が薄くなった。「わかっていますか。あなたの力が広まれば——百年前の、原始魔法と詠唱魔法の対立が再燃します。社会が壊れる」
〈だから隠せと?〉
「管理する、と言っています。あなたの安全のためにも」
〈焔虎〉が廊下に出てきた。
低い唸り声。金色の目がエルドを真っ直ぐに見た。
エルドが一歩後退した。笑顔が、揺れた。
「……今夜はご検討だけ」
足音が遠ざかった。
アリアはドアを閉めた。ノートに書いた。
〈調べなきゃいけないことが、増えた〉
翌朝、封印石が十七個破壊されていた。
王都全域に設置されている魔法測定用の石だ。三日前から数が減っていたが、昨夜一気に失われた。
グラン教授が教壇で緊張した声で言った。「全て失われると、王都の魔法インフラが停止します。水。火。輸送。全部」
アリアは手を挙げた。
〈破壊された跡なら、残留する文字列から何者が触れたか読めるかもしれない〉
「試してみなさい」
廃工場の跡地。砕けた封印石の破片。
アリアは手を添えた。冷たい。粉々になっていた。でも——
残っていた。かすかに。文字列の残影が。
読んだ。
怒りじゃない。計算された意志。感情のない冷たい目的。そして——
文字列の奥に、人間の輪郭があった。
語り部の。
アリアは口が動いた。声は出ない。でも動いた。
グラン教授が言った。「何が見えた?」
手が、わずかに震えていた。
〈もう一人いる。語り部が〉
〈封印石を壊しているのは、その人間です。目的はわからないけど——私の能力をずっと前から知っていた〉
グラン教授が息を呑んだ。〈焔虎〉が低く唸った。怒りじゃない。警戒の唸りだった。
〈今夜ここに来ます。その人が戻るかもしれない〉
「一人で行くな」
〈一人じゃないです〉
〈焔虎〉を見た。尾がゆっくりと揺れた。
その夜、寮に戻るとドアに紙が挟まっていた。
封はない。走り書きが一行。
『大人しく研究院に来い。さもなければ神獣の真名を公開する。あの獣を誰でも制御できるようになれば、君の存在意義は消える』
エルドの字だった。
アリアは紙を折り畳んだ。ノートに書いた。
〈脅しが来た〉
もう一行。
〈つまり、追い詰められている〉
〈焔虎〉が顔を覗き込んできた。金色の目が問いかけていた。
アリアは頭を撫でた。「大丈夫」と口だけ動かした。
声は出ない。でも〈焔虎〉には伝わった。尾がゆっくり揺れた。
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##
夜。廃工場の跡地。月が青白い光を落としていた。
人影があった。五十代の老人。白髪。黒いローブ。手に、砕けた封印石の破片。
全身に文字列が見えた。
アリアの文字列とは違う。もっと古い。もっと複雑な。百年分の歳月を経た語り部の真名。
老人が振り返った。目が合った。
「……来たか。若い語り部」
〈あなたが壊しているんですか〉
「そうだ」
〈なぜ?〉
老人が笑った。悲しい笑顔だった。
「この石が、精霊を縛っているからだよ。百年前、戦争の後に魔法士たちは精霊を数式に封印した。封印石は、その鎖だ」
アリアは息を止めた。
「君には見えているだろう。魔法式の根元に、うずくまっている文字列が。あれは精霊の言語だ。数式という牢獄に閉じ込められた声だ。百年間——ずっと」
知っていた。でも言葉にされたことはなかった。
〈封印石を全部壊すと何が起きますか〉
「精霊が解放される。魔法式は全て無効化される。百年間の魔法体系が崩壊する」
〈それはだめです〉
「なぜ」
〈人が死ぬ。王都は全部、魔法式で動いている。水も火も輸送も、全部止まったら死者が出る〉
老人が沈黙した。「……わかっている」声が、少し掠れた。「だが——精霊も苦しんでいる。百年間」
アリアは目を細めた。
見えていた。魔法式の根元でうずくまる文字列が——確かに苦しんでいることが。でも——
〈私が解放できる〉
老人が顔を上げた。
〈封印石を壊さなくても、精霊の真名を呼べば解放できる。一体ずつ。石を壊さずに〉
「……できるのか?」
〈〈焔虎〉でできた。同じはず〉
長い沈黙。
老人の目に、何かが灯った。
ゆっくりと、老いた膝が折れた。
「……若い語り部よ。頼む」
老人の名前はグスタフ・ローエと言った。語り部の民の生き残り、最後の一人。
封印石を壊し始めたのは十年前からだった。精霊の苦しみに耐えられなくなって。でも石が壊れるたびに精霊は傷つき、魔法インフラは傾き——自分がやっていることの矛盾に、ずっと気づいていた。
「正しい方法を知らなかった」グスタフが言った。「語り部は私一人しか残っていないと思っていた。君が現れるまで」
アリアはノートに書いた。
〈一緒にやりましょう。正しい方法で〉
グスタフは目を潤ませた。皺だらけの目が、子どもみたいに揺れた。
その夜遅く、エルドが現れた。廃工場の入口に、笑顔で立っていた。
「面白いところにいますね。語り部が二人。——これで研究院も動かしやすくなる」
〈焔虎〉が唸った。
「神獣がいても構いません」エルドが言った。「私は脅しを実行するだけですから」
懐から書類を取り出した。「この真名の写しを公開すれば——」
アリアは手を差し出した。
書類ではなく——エルドに向かって。
エルドが怪訝な顔をした。
アリアはノートに書いた。
〈あなたの文字列も、見えます〉
エルドが止まった。
〈怒っていますね。研究院に認められたくて、でもずっと補佐官のままで〉
「……何を」
〈あなたが本当に欲しいのは、管理じゃない。証明したいんだ。魔法式の理論が正しいということを〉
長い沈黙。
エルドの笑顔が、初めて崩れた。
「……うるさい」声が、掠れていた。
「うるさい。お前みたいな——声も出せない落ちこぼれに」
でも書類を握る手が、震えていた。
アリアは静かに書いた。
〈私が証明します。魔法式の基礎が精霊言語から来ていることを。それはあなたの理論を否定しない——補完する〉
〈一緒に研究しませんか。語り部と魔法士で〉
エルドは長い間、その文字を見ていた。
書類が、静かに折り畳まれた。懐に戻っていった。
「……考える」
それだけ言って、去っていった。
グスタフが呟いた。「……文字列を読むとは、そういうことか」
〈精霊だけじゃないです。人間にもついてます〉アリアは書いた。
〈ただ、人間のは本人が気づいていないことが多い〉
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翌朝から始めた。
封印石一個ずつ。王都全体で二百七十三個。
一個ごとに手を添えて、中の文字列を読んで、心の中で歌った。
一つ目。石が静かに光った。数式が消えた。でも石は壊れなかった。精霊だけが、すっと抜け出した。透明な小さな光が、空に溶けていった。
グラン教授が横で観察記録を書いた。「……式が消えているのに、測定値が維持されている」
クロヴィスが声を上げた。「精霊を解放しても石の機能は変わっていない。つまり——封印石の効果は精霊を縛ることではなく、精霊と共鳴することだったのか」
〈それが本来の使い方だと思います〉
グスタフが隣に立っていた。「……百年間、間違えていたのか。私たちは」声が震えていた。「解放するために壊そうとしていたが——呼べばよかったのか。最初から」
アリアは何も書かなかった。
代わりに、グスタフの手を少しだけ握った。
老人が目を閉じた。
五個目、十個目——少しずつ、石の中の文字列が変わっていくのがわかった。苦しんでいた輪郭が、ほどけていく。
二十個目で、通りすがりの子どもが「なんか光ってる!」と叫んだ。石が微かに輝いていた。
二十七個目が終わった夜、アリアの手が震えた。
疲弊だ。真名を読み続けることは体力も精神力も削る。声がない分全部が内側に向かうから、消耗が早い。
〈焔虎〉が横に来た。頭を手に乗せた。暖かかった。
「休め」とグラン教授が言った。
〈あと二百四十六個〉
「わかっている。今夜は休め」
セルカが夜食を持ってきた。黒パンとスープ。「私にできることこれしかないけど」と言いながら目が赤かった。
アリアは食べた。温かかった。
五十個目を超えたあたりから、変化が出始めた。
王都の各所で、魔法式の安定性が上がった。崩れかけていた水路の制御式が自動修正された。長年不安定だった街灯の式が、突然に安定した。
クロヴィスが興奮した声で言った。「精霊が解放されることで、魔法式の精度が上がっている! 縛っていたときより——共鳴しているほうが、出力が高い!」
百個目を超えた夜、エルドが現れた。
廃工場の跡地に、書類を手に持って。
「……この数値を見た」エルドが言った。笑顔ではなかった。代わりに、真剣な顔をしていた。「精霊解放後の魔法式安定度が、解放前の百十七パーセントになっている」
〈本来の共鳴状態に戻っているから〉
「理解したい。記録させてくれ」
アリアはノートに書いた。
〈どうぞ〉
エルドが頭を下げた。深く。笑顔ではなく——本当に頭を下げていた。
その後ろ姿に、文字列が見えた。
解放されていた。怒りの文字列が、少しほどけていた。
二十日かかった。
二百七十三個、全部。
最後の封印石の精霊を解放したとき——
王都の空が、一瞬だけ青白く光った。
街中の人間が、同時に空を見上げた。
でも——
アリアだけが聞こえた。
音のない、声なき歌声が。
二百七十三の精霊たちが同時に歌っているのが。
感謝の真名。解放の真名。百年ぶりの、自由の歌。
グスタフが隣で泣いていた。声を立てずに。皺だらけの顔に、涙が伝っていた。
アリアは目を閉じた。
胸が、いっぱいになった。
〔よかった〕
心の中で答えた。
〔やっと、歌えるね〕
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## 終章——ノートの最後のページ
学院の図書館の片隅。
アリアがノートに何かを書いている。
クロヴィスが横に座って言った。「真名の文字列に、規則性は見つかったか?」
〈少し。魔法式が複雑になるほど真名も長くなります。たぶん——魔法式は精霊の言語を数式に翻訳したものだと思う〉
クロヴィスが目を見開いた。「百年前に排除されたはずの精霊言語が、魔法式の土台になっている?」
〈発明者たちは気づいていなかった。精霊語の音律を分解して再構築したら数式になった。でも元は同じ〉
「それが本当なら——現代魔法の全ての基礎が書き直しになる」
〈証明するまでは言えないけど〉
「君一人で証明するつもりか」
〈証明できたら先生に検証してもらう〉
クロヴィスが苦笑した。「……私を使うつもりか」
〈最初から〉
隣のテーブルで、エルドが記録を整理していた。
三週間前から、毎日ここに来ている。研究院の仕事と並行で、精霊解放の観測データをまとめている。笑顔はほとんど見せなくなった。代わりに、真剣な顔をすることが増えた。
アリアが通りかかると、短く言った。「この式の解析が詰まった。真名との対応を見てくれ」
〈わかった〉
それだけの会話だった。でも十分だった。
グスタフは王都の外れに小さな部屋を借りていた。週に一度、アリアのところに来て、百年前の語り部の記録を持ってくる。手書きの古い文書。黄ばんだ地図。消えかけた真名の写し。
「全部持っていってくれ」と老人は言った。「私の代で終わらせるより、続けてくれる人間に渡したほうがいい」
アリアはノートに書いた。
〈続けます〉
グスタフが笑った。今度は悲しい笑顔じゃなかった。
窓の外から、〈焔虎〉が顔を出した。大きすぎて中に入れないので外から覗いている。金色の目が二人を交互に見ていた。催促するように、尾が揺れた。
「それにしても」クロヴィスが言った。「あの神獣が人に尻尾を振るとは思わなかった」
〈名前を呼んでもらえたら、誰だってそうなります〉
クロヴィスが静かに笑った。
窓の外で、〈焔虎〉が三本の尾を一斉に振った。
夕日が沈んでいく。
空が赤く、金色に染まる。
その全ての色に——アリアには、文字列が見えた。
夕焼けの真名。黄昏の真名。風の真名。時間の真名。
全部、読んでみたかった。全部、歌ってみたかった。
声はない。でも歌はある。
声がなくても、世界と話せる。声がなくても、星を呼べる。
声がなくても——
語り部は、ここにいる。
ノートの最後のページに、アリアは書いた。
たった一行。
〈まだ、読んでいない名前がたくさんある〉
〈焔虎〉の三本の尾が、夕空を背景に揺れていた。




