パンプキン・バンク
ハロウィンの夜には、毎年ひとりだけ『本物の死者』がパレードに紛れている。
そう聞いたのは、たしか小学生のころだったと思う。
誰が言い出したかは分からないけれど、町の子どもたちはみんな、その話を知っていた。
「仮装していればバレないんだって」
「顔を隠して、列にまぎれて、目的の人のもとへ行くんだって」
その『目的の人』が、一体どうなるのかは誰も知らなかった。
「連れていかれる」とか、「消える」とか、はたまた「入れ替わる」とか。
いろんな推測はあったけれど、どれも噂話の中でしか語られない。
ただ、ひとつだけ共通していたのは——
『死者は愛した人のもとに行く』ということ。
だから今でも、パレードのときに誰かと目が合うと、少しだけどきっとする。
仮面の奥にあるはずの表情が、なぜか見えるような気がしてしまうのだ。
毎年毎年、忘れていた記憶のフタが開く。
うだるような暑さが鳴りを潜め、吹き抜ける風が肌に冷たくなってくると、僕はこの話を思い出す。
――――ああ、また、今年もハロウィンの季節だ、と。
◆
その日、僕は『預け物』をしに来ていた。
――パンプキン・バンク。
それは、十月の終わりにだけ姿を現す不思議な店舗だ。
古いレンガ造りの一角に、紫とオレンジの天幕。
提灯のようなランタンがいくつも吊るされていて、風に揺れるたびぼんやりと笑う。
笑ってはいるが、空洞の目の奥は覗き込めば覗き込むほど暗い。
そんなパンプキン・バンクの入り口には張り紙がある。
『ようこそ、パンプキン・バンクへ!
当行では、あなたが手放したい『怖かったもの』をお預かりいたします。
預けられた恐怖は、我々が責任を持って保管いたします。』
文言だけを見れば冗談みたいに聞こえる。
けれど、ここ数年、この町ではまるで恒例行事のように足を運ぶ人があとを絶たなくなっていた。
うまくすると眠れるようになる、悪夢を見なくなる、心が軽くなり、安心してクリスマスを迎えられる――そんな口コミが広がって、今ではすっかり行列のできる店だ。
僕が訪れたのは、ハロウィンのパレードが開始した直後だった。
行列もなくなり、店内には数人の客と、残務処理をする職員。静かな空気だけが残っている。
受付の奥にいる職員は、全員ジャック・オー・ランタンの仮装をしていた。
顔全体を覆う大きなかぼちゃのマスクに、ピシッとしたスーツ姿。
その中から、こもった声が僕を捉える。
「預けたい記憶をお持ちですか?」
低い声だった。男か女かは判断がつかない。
僕は頷いて、両手をテーブルの上に置いた。定められたように置かれた用紙の上に黒い影が落ちる。
「……ひとつだけ、預けたいものがあります」
「どのような恐怖でしょうか?」
言葉にしようとした瞬間、喉の奥が少しだけ冷たくなった。
僕が思い出すのは、記憶の断片だ。
夜の道。光。雨。誰かの声。
あのとき僕は、確かに恐怖の真ん中にいたはずなのに、今はその輪郭すら掴めない。
ただ、それが怖かったことだけは、確かだ。
「名前も、顔も……思い出せないんです。ただ、怖かったってことだけが残っていて」
職員は無言でタブレットを操作し、僕の言葉を打ち込んでいた。
液晶の光がかぼちゃの穴に反射して、無機質に揺れる。
「それで、このよく分からない恐怖を、取り除いてほしくて……」
「申し訳ありません」
僕の言葉を遮るように言って、かぼちゃ頭は僕を見た。
「そちらは、お預かりできません」
「……え」
思わず、僕は顔を上げた。
大きなかぼちゃの、真っ黒い穴に視線が吸い込まれる。
「純粋な記憶ではないようです」
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味です。恐怖の中に、『不純物』が混ざっています。私どもがお預かりできるのは、純粋な恐怖心のみです」
僕は何も言えなくなってしまった。
「どうしてそんなことが分かるのか」と問いただしたかったけれど、喉がまた冷たくなった。
職員はタブレットを伏せて、丁寧に頭を下げる。
重たそうなかぼちゃがぐらりと揺れる。
「きちんと思い出したときに、もう一度お越しください。ハロウィンの夜が終わるまで、当店は貴方をお待ちしております」
その声には、定型文をなぞるような温度のなさと、ほんのわずかな優しさが混じっているように聞こえた。
外に出ると、冷たい風が頬を叩いた。
遠くから、パレードの音楽が聞こえてくる。
金管と太鼓と、群衆のざわめき。
オレンジの灯りが並ぶ通りに、様々な仮装をした人たちが笑いながら歩いている。
一本外れた路地からそれを眺めながら、僕は立ち止まった。
風にまぎれて、耳をかすめる声を聞いた気がした。
――ねぇ、こっち。
振り向いても、そこには誰もいない。
けれど、風の匂いが甘く変わった。
柚子と煙草の混ざった、どこか懐かしい香り。
胸の奥で、眠っていた何かが小さく動いた。
僕は喉を鳴らし、一瞬だけ躊躇してから歩き出した。
あの声を、確かめなければいけない気がした。
◆
パレードの中は、灯りそのもののようだった。
提灯の列、ネオンの反射、仮装した人たちの笑い声。
普段は薄暗いこの商店街も、今夜だけは異国の通りみたいに賑やかだ。
僕は、人の流れに身を委ねながら歩いていた。
それが、どこに向かうのかも知らずに。
大きなともしびの一部になったかのように。
「……?」
ふと、誰かの視線を感じて振り返る。
僕を見ていたのは、通りの真ん中にいた一人の女性だった。
黒いドレス。胸元には青いバラの刺繍。
仮面は白く、頬に金の紋様があった。
手には小さなランタンをぶら下げている。
オレンジの灯りが、光と喧騒の中でも、彼女の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。
視線が交わる。
彼女は何も言わず、ただ首を傾けた。
その所作に、僕は自然と足を向けていた。
「こんばんは」と言うと、彼女も頷く。
「仮装、素敵ですね」と続けると、彼女は口元だけで笑った。
「あなたも、似合ってるわ」
柔らかい声だった。
少し掠れていて、でも、不思議と耳に残る。
「そのマント、どこで手に入れたの?」
「これ? ただ、昔のやつを引っ張り出してきただけだよ」
僕は肩にかけたマントを広げながら、謙遜するように言った。
「昔?」
「うん。高校の文化祭とか、そのへんで使ったやつ」
彼女は「へぇ」と言いながら、僕のマントの裾をそっと摘まんだ。
まるで、それを通して記憶に触れようとしているかのようだった。
「……あなた、昔から変わらないのね」
その言葉に、心臓がひとつ大きく跳ねた。
何気ない言葉のようで、妙に奥深く届いた。
「もしかして僕たち、会ったことあります?」
「さあ、どうかしら」
彼女はからかうように笑うと、ランタンを持ち直して歩き出す。
僕は慌ててその隣に並んだ。
ふたりで歩くパレードは、不思議な時間だった。
音楽や歓声が遠くに感じられる。
まるで、僕たちだけが別のリズムで動いているような、そんな感覚。
彼女は時折り立ち止まって、風船を持つ子供たちや、飴を配るピエロを眺めた。
その横顔は、どこか楽しげで、寂しそうでもあり、懐かしくもあった。
彼女の視線に気づいたピエロが、ふざけた足取りで近づき、彼女の手に飴をひとつ、落とした。
それを両手で受け取った彼女は、驚いたように僕を見る。
「もらっちゃった」
続いてピエロが僕の前に立ち、同じように飴を落とす……が、その手には何も握られていなかった。
「僕にはくれないのかよ!」
愉快そうに去っていく背中に文句を言うと、横からくすくすと楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
やれやれ……と思いながら、僕はズレた仮面を直す。
「……ねぇ。ハロウィンって、どうして仮装するか知ってる?」
再び歩き出すと、彼女がそう尋ねてきた。
「うーん……はしゃいでる姿を隠すため、とか」
「ふふっ、違うよ。死者に気付かれないようにするため」
「…………」
僕が答えに窮していると、彼女はそのまま続けた。
「こんな話、知ってる? このパレードには毎年、ひとりだけ『本物の死者』が混じってる……って」
「本物……」
「そう。本物。本当に……亡くなった人」
彼女はそう言って、仮面の奥で笑った。
その微笑みが、ほんの少しだけ震えて見えた気がした。
◆
その言葉を聞いた直後、周囲の笑い声が遠くなった。
人の群れが波のように流れて、僕らの周りだけがぽっかりと空いた。
ランタンの灯がかすかに揺れる。影が揺れて、顔の金模様がきらめいた。
「そんなの……子供のころに聞いた噂話だよ」
「そう。でも、誰も確認したことがない……けど、たぶん――ほんと」
彼女はランタンを持ち上げ、通りの奥のほうを見た。
そこではピエロたちが列をつくり、踊るように進んでいる。
笑い声は高く、けれど笑顔の裏側には妙な規則性があった。
笑うたび、全員の首が同じ角度に傾く。
僕はその異様に揃った動きを見て、少しだけ身震いした。
「……もし、本当に亡くなった人が混ざっていたら……どうすればいいの?」
「ちゃんと『生きている人の仮装』をしていれば、連れていかれないよ」
「生きている人の仮装?」
「うん。笑って、泣いて、明日を楽しみにしている人の顔。死者にはできないから」
彼女はゆっくりとこちらに向き直る。
仮面の奥の顔は、笑っているのか、それとも無表情なのか、判別がつかない。
僕は呼吸が浅くなるのを感じた。
「あなたは、仮面の下でどんな顔をしてるの?」
「……さぁ、どうだろう」
僕は冗談めかして答えたつもりだったが、喉の奥は冷たかった。
「たぶん、仮面がないと困るような顔だ」
彼女はくすっと笑った。
その音は、どこか懐かしかった。
しかし、それを聞いた瞬間、胸の奥で懐かしさよりも先に、別の感情が立ち上がった。
怖い。
「…………会ったことがある気がするんだ」
僕は、自分でも驚くくらい率直に言葉を並べていた。
「前に。あなたみたいな声で笑う人と」
「……そう」
彼女はそれ以上、何も言わなかった。
その代わり、僕の腕を軽く取った。
ランタンの光がふたりの影をひとつに繋げる。
パレードの音が再び近づいてくる。
音楽隊が角を曲がり、通りを包む灯りが増える。
人の波に乗るようにして、僕たちは歩き出した。
彼女の指先は、冷たくも熱くもなかった。
触れているのか、いないのかも分からないような感覚だった。
風みたいな、夢みたいな温度。
「名前を……教えてほしい」と僕は聞いた。
彼女はしばらく黙ってから、答えた。
「柚希」
その音が出た瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
息を吸うと、空気の匂いが変わる。
柚子と、煙草。あの匂いだ。
脳の奥で何かが開いて、封じられていた映像が少しずつ滲み出す。
雨。
光。
真っ赤に濡れたオレンジ色のリボン。
誰かの声。
「……柚希?」
僕が呼ぶと、彼女はほんの少し悲しそうに笑った。
「やっと、思い出した」
その瞬間、パレードの音楽が途切れた。
世界の音の全部が一瞬だけ止まった気がした。
怖かった記憶の中身が、ようやく形を持ち始める。
そうだ、あの夜――僕は確かに、『彼女』を失っていた。
柚希は、パレードの続く先を見ながら言った。
「もう少しだけ、歩こう。ね?」
そして僕は、何も言えずに頷いた。
◆
パレードの終点は、古い公園だった。
噴水の水は止まっていて、かわりに無数のかぼちゃの灯が浮かんでいた。
それぞれの灯りが風に揺れて、まるで誰かの心臓みたいに明滅している。
柚希はそのひとつを拾い上げ、掌に乗せた。
オレンジの火が指先を透かす。
「ここまで来たら、もう帰り道はないね」と、彼女が言った。
「……帰り道?」
「うん。行列の最後は、帰る場所がなくなるの。みんな、顔を外していくから」
僕が反応に困っていると、柚希は静かに仮面を外した。
そこにあった顔を見た瞬間、心臓が止まったように感じた。
白い頬。少し上がった眉。
笑うと片方だけ深くなるえくぼ。
何度思い出そうとしても思い出せなかった顔。
柚希の指先が、僕の手を包み込む。
公園を包む灯りが滲み、周囲の人々の笑い声も、どこか遠くで再生されているように響く。
記憶の底で、雨が降っていた。
白い傘の下で、彼女が笑っていた。
信号が青に変わる。
その瞬間、ブレーキの音。光。叫び声。
僕は振り返るのが一歩遅れた。
「……怖かったんだ」
僕の声が震える。
「思い出すのが。君がいなくなったことが。自分だけが生き残ったことが……全部、怖かった」
柚希は静かに頷いた。
「だから、預けようとしたのね。パンプキン・バンクに」
「うん。けど、『純粋な恐怖じゃない』って断られた」
「当然よ」
柚希は笑う。
「それは『私を想っていたから』。愛の中の恐怖なんて、純粋じゃないもの」
「……そっか」
「もし預けられていたら、化けて出てやるところよ」
「……出てきてるじゃないか」
僕が言うと、柚希は「確かに」と頷いた。
二人の笑い声が重なって、響く。
「……ねぇ」
柚希がぽつりと言った。
「ハロウィンのパレードには毎年ひとりだけ死者が混じる……あの話、嘘なの」
「嘘?」
僕が眉をひそめると、柚希は小さく笑う。
「死者はね、お祭りが好きだから」
僕が顔を上げると、広場にいた人々が次々に薄れていく。
ピエロ、魔女、海賊、狼男にヴァンパイア。
誰も悲鳴も上げず、ただ受け入れるように仮装だけを残して消えていった。
「年に一度、みんな楽しみにしてるんだって」
柚希が微笑む。
「生きていたころの姿で歩けるから」
僕は言葉を失った。
僕が参加していたのは、初めから死者の行列だったのだ。
あの音楽も、笑い声も、全部彼らの祝祭。
僕はそこに、何の違和感もなく混ざっていた。
柚希が、僕の胸に手を当てる。
「本当は、あなたを連れていくつもりだった」
彼女の声は、噴水の底に沈んでいくように冷淡だった。
「でも……あなたの中には、まだ灯りがある。私たちの世界には、もうないの」
「柚希……だけど、僕は……僕も、一緒に――」
「ダメ」
その一言が、優しく僕を制した。
「怖がって。ちゃんと、生きて。私のいない寂しさも、私と過ごした時間の愛おしさも……全部抱えて、幸せになって」
ランタンがひとつ、音もなく消える。
その光が、彼女の輪郭を溶かし始めた。
頬の金模様が淡く光り、風にほどけて舞い上がる。
「ありがとう……大好きよ」
それが、最後の言葉だった。
柚希の姿は霧のように消え、噴水の縁に綺麗なかぼちゃ色のリボンだけが残った。
気が付けば、広場は静まり返っていた。
風の音すらなく、誰の気配もない。
僕の足元には、無数の仮装の名残――マスクやマント、帽子、鮮やかな色の服たちが、空気の抜けた風船みたいにしぼんで転がっている。
死者のパレード。
僕は、その真ん中を歩いていた。
それでも、彼女と一緒だったから、恐怖はなかった。
リボンを拾って、胸に握る。
柚子と煙草の匂いが、指先にわずかに残っていた。
◆
夜の町は嘘みたいに静かだった。
あれほど騒がしかった音楽も、人の気配も、初めからなかったかのように。
ランタンの火は消えかけ、風が仮装の残骸をいくつか転がしていた。
レンガ造りの一角に立ち止まると、僕は迷わず扉を開けた。
パンプキン・バンク。
ぎぃ、と軋む音とともに、ほんのり甘い香りが鼻をくすぐった。
キャンディ、シナモン、仮装の余韻。
半分以上の明かりが落ちたフロアの奥から、昼間と同じジャック・オー・ランタン姿の職員が姿を現す。
相変わらず仮面で素顔は見えないが、かぼちゃ頭はくぐもった声で言った。
「申し訳ありません。もうすぐ閉館となります。来年まで、お預かりは――」
「これだけ、預けさせてください」
僕は口を挟むように言った。
「今日、ちゃんと思い出せたんです」
そして、手の中のリボンを見つめる。
「僕が、怖かったのは……彼女を忘れてしまうことでした」
職員は、しばらく黙って僕を見ていた。
やがて、かぼちゃ頭の奥から優しげな声が返ってくる。
「それでしたら、お預かり可能です」
差し出された小さな紙袋に、僕はリボンを入れた。
温もりも、声も、匂いも――全て胸の奥に残したまま。
「来年も、お待ちしております」
丁寧に頭を下げる声に、僕は答えなかった。
けれど、肩の力が少しだけ抜けていた。
建物を出ると、時計の針はちょうど零時を指していた。
数歩歩いたところで、ふと振り返る。
そこにあるはずの不思議な銀行は、もう消えていた。
古びたドアも、温かな灯りも、紫とオレンジの天幕も。
まるで最初からそうであったかのように、レンガ造りの壁が広がっているだけ。
それでも、僕は特に驚かなかった。
ポケットの中で、『預かり証』とかぼちゃのスタンプが押された小さな紙きれを遊ばせる。
風が止み、遠くで小さな鈴の音がしたような気がした。
空を見上げる。
月は、ただ静かに笑っていた。




