私の世界が広がった瞬間
ねえ、ルーク。
あなたのおかげで、私の世界はこんなにも輝いて見えるようになったんだよ。
いつもの昼下がり。
夜空を溶かしたような濃紺の髪を持つ青年は、長いまつ毛を伏せて静かにうたた寝している。
私はその隣に座り、透き通るような桃色の髪を揺らしながら、そっと身を寄せた。
彼の吐息がかすかに触れる。
それだけで胸の奥が熱くなる。
――幸せって、きっとこういうことなんだ。
***
私はリシェル。この国の王女なんだって。
でも……王女がどんなものか、本当はよくわからない。
私はずっと、この部屋から出たことがないの。
部屋にあるのはベッドと机と本棚。それだけ。
窓の外に何が広がっているのかも、知らない。
一日三度、扉の向こうから食事が運ばれてくる。
いつも同じ、パンとシチューとサラダ。
……え? 食事って、そういうものじゃないの?
本棚にはたくさんの本がある。
けれど、物語を読んでも――「うれしい」とか「かなしい」とか、わからない言葉ばかり。
結局、専門書ばかりを手に取る。
文字や花や生き物。わかるものは増えていく。
(......まあ、それだけなんだけどね)
着替えやお風呂は侍女が手伝ってくれるけれど、私から話しかけることはほとんどないよ。
彼女たちはただ黙々と私の世話をして、去っていくだけ。
だから私は毎日、食べて、眠って、本をめくる。
それだけを繰り返してきた。
……人生って、そういうものなんだよね?
***
今日の私は、いつものように本を読んでいた。
すると、突然――扉が音を立てて開いた。
(あれ、今はご飯の時間だっけ?)
なんだか外が騒がしい気がする?まあでも、気にすることでもないかな。
私は特に気にも止めずに本をめくる。
だけど、入ってきた人は何も言わない。
(なんだろう……?)
いつもなら「ご飯です」とか「着替えです」と声がかかるのに。
思わず顔を上げると――知らない人が立っていた。
濃紺の髪に、宝石みたいに綺麗な金の瞳。
私と目が合った瞬間、その人の瞳がぱっと大きく見開かれた。
そして彼は、ゆっくりと口を開いた。
「……あなたは、王女様ですね?」
「……? んー、そうみたい。たぶん」
「……は?」
彼は言葉を詰まらせている。
なんでだろう?
「ここで生活しているのですか?」
「うん」
「……ひとりで?」
「うん。でも、ご飯と着替えは手伝ってもらえるよ」
そう答えると、彼はまた黙り込んだ。
眉を寄せ、顔を歪めていた。
(……さっきから、なんだろう?)
私、そんなに変なこと言っている?
そして彼は、硬い表情のまま続ける。
「……こんな生活は、辛くはないのですか?」
「……? つらいって、なに?」
「たとえば……寂しいとか、退屈だとか」
「さみしい? たいくつ?」
知らない言葉だった。
でも――心の奥がちくりと動いた。
「……誰かにそばにいてほしいとか。楽しいことがなくて苦しいとか」
「うーん……わかんない! お兄ちゃん、むずかしいこと言うね」
説明されてもわからない。
でも……なんだろう。胸の奥があたたかくて、落ち着かなくて。
自然と、口元が上に引き上げられていく。
「それよりもね、誰かとこんなに話したの、はじめて! なんか胸が変なの! あったかい? ぽかぽか? ……これ、なに?」
彼はまた言葉を探すように黙り込んだ。
けれど、やがて静かに答えてくれる。
「……“嬉しい”という気持ちだと思います」
「......っ!」
――”うれしい”
その瞬間、世界が音を立てて広がった。
知らなかった言葉と、今の気持ちが、線で結ばれる。
「へぇ! これが“うれしい”か! 本で読んでもわからなかったんだ。ありがとう、お兄ちゃん!」
今まで感じたことのない気持ち。
心があたたかくなる。
(そっか、これがうれしい......)
自然と笑顔が溢れ落ちていた。
これが、私の世界が広がる第一歩だった。




