幸せの時間
それからのリシェルは、俺が少しでも離れることを嫌がるようになった。
「ルーク……今日もお仕事なの?」
「……ああ」
「働かないとご飯が食べられないんだもんね。私、ご飯は勝手に運ばれてくるものだと思ってたから……」
そう言って、寂しそうに微笑む。
「がんばってね。さみしいけど、待ってるよ」
胸が痛む。
──喜んではいけないのに。
日に日に募るリシェルの依存は、俺にとって毒のように甘い。
それも当然だろう。
彼女は今まで他人と関わることもなく、ただ食べ、眠り、本をめくるだけの毎日を送っていた。
比較するものがなければ、それを異常だとも思わない。
“当たり前”として受け入れてしまう。
だから、感情が育たなくて当然だ。
そんな中で現れたのが俺という存在。
感情を知ってしまった以上、彼女が縋るのは──俺しかいない。
「ああ、待っててくれ」
気づけば俺は、そっとリシェルを抱き寄せていた。
彼女は小さな手で俺の服をぎゅっと掴む。
……ああ、行きたくない。
本当は、リシェルの不幸を変えてやるべきなのに。
リシェルの世界は、あの閉ざされた世界に俺”という存在が増えただけ。
状況は何ひとつ変わってはいないのだ。
その事実から、俺は目を逸らした。
そして──その不幸の上に立ちながら、必要とされる喜びに酔っていた。
***
リシェルとの生活に慣れ始めた頃、彼女に小さな変化が生まれた。
「ねえねえ! 外ってどんな感じ?」
「本で読んだんだけど、お花がいっぱい咲いてたり、海があったりするんでしょ?」
瞳を輝かせて問いかけてくる。
――外に、興味を持ち始めたのだ。
けれどリシェルの存在が人々に知られれば、たちまち命が脅かされるだろう。
それほどまでに王族への憎悪は深い。
俺の魔法を使えば、姿を偽って外へ連れ出すこともできる。
……だが、本当は俺自身が怖いのだ。
彼女が外の世界を知り、俺以外のものに心を奪われたら。
もう、俺を必要としなくなるのではないかと。
それでも、このまま閉じ込めておくのは残酷すぎる。
罪悪感が喉を締めつける。
「リシェル……外に出てみたいか?」
思い切って尋ねると、彼女はしばらく黙って俺を見つめてきた。
息が詰まる。早く答えてくれ……俺の決心が揺らぐ前に。
けれど返ってきたのは、意外すぎる言葉だった。
「ううん、行かない」
「え……?」
「だって、ルーク……行ってほしくないって顔してる」
「……!」
目を見開く俺に、リシェルは小さく笑った。
「わたしにとっては外よりも、ルークが全部だから。興味なんてないよ。ね?」
――嘘だ。
本当は世界を知りたがっていることくらい、俺にはわかっている。
(この言葉に、喜んではいけないのに......)
リシェルの世界を狭めているのは俺だ。
間違っていると、頭では理解している。
……それでも。
俺はその言葉に甘えてしまう。
「……リシェル」
そっと彼女を抱きしめると、リシェルは安心したように身を委ねてきた。
「えへへ……あったかいね」
もう、手放せない。
俺は気づいてしまったのだ。
――この胸を締めつける感情の正体に。
それは愛なのか、それとも鎖なのか。
答えを出すのが、怖かった。
***
ある日、仕事から戻ると、いつものようにリシェルが飛びついてきた。
「ルーク! おかえりなさい!」
「ただいま、リシェル」
けれど、そこで彼女の動きが止まった。
ぎゅっと抱きついたまま、沈黙が落ちる。
――おかしい。
普段なら「今日はどんなことがあったの?」と、にこにこ問いかけてくるのに。
「……リシェル? どうした?」
小さな声が返ってきた。
「……きらいにならない?」
思わず内心で苦笑する。
嫌いになんてなるわけがない。俺がどれだけ彼女のことばかり考えているか、知りもしないくせに。
「なるものか。俺は、リシェルが大好きだよ」
自然に口からこぼれた言葉に、リシェルの抱きしめる力が少し強まる。
「わたしも……だいすき」
胸の奥が跳ねる。
わかっている。彼女のいう「好き」と、俺の抱える「好き」が違うことくらい。
けれど――その違いさえも愛しい。
「でも、今日のルーク……いつもと違う匂いがする」
不安げに顔を上げ、真っ直ぐ俺を見つめる。
「……だれ?」
その瞳に胸を締めつけられる。
今、不安を抱いているというのに――その姿を可愛いと、嬉しいと感じてしまう俺は、本当に最低だ。
「仕事でな、馴れ馴れしいやつがいて……抱きつかれただけだ。すぐに引き剥がしたよ」
「……ほんとうに?」
縋るような視線。唇が小さく震える。
「もちろんだ。リシェルがいちばん……いや、リシェルしかいない」
まっすぐに告げると、涙が止まったようだった。
「……よかった。ルーク、ずっといっしょ」
「ああ、もちろんだ」
そっと抱き寄せる。
ああ、なんて幸福な時間だろう。




