表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

初雪

作者: 吉江和三

 車中に弱く差し込んだ路肩の街灯の灯に、白いブラウスを着た、幸子の胸に着けている小さなダイヤのブローチがオレンジに薄く輝いていた。


 二人の乗った車は、真っ直ぐで寂しげな国道を、少しゆっくりめに走り続けている。

 他に国道を走る車は見当たらない。

 幸子は、自らの顔が薄く映った車窓の向こうを流れていく街並みを、何も言わず手持ち無沙汰に、ただぼんやりと観つめている。

 

  ――― 11月の札幌はまだ雪は降らない。

 

 しかし、車窓の向こうを流れる閑散とした街並みは、寒さに振るえているようだった。

 松崎は軽くハンドルを握りながら、彼女をチラリと見つめた。

「寒いですか?」

 少し心配になり、松崎は声を掛けてみたが、彼女は返事をしなかった。


「そろそろ食事にしましょうか?」

 もう一度、彼がちょっと大きめに声を掛けた。


「・・・・それより早く帰りたいわ」

 彼女は、窓の外を力なく見つめたまま言った。

 

 ――― またはじまった・・・。松崎は心の中で思っていた。


「教授は今日は帰らないんですよね?」

 彼が念を押すように、少しきつめに尋ねた。

「ええ、東京へ学会に出かけています」

 彼女は答えたが、その視線は車内を虚ろに泳いでいた。


「じゃあ、少しくらい遅れて帰っても」

 そう言った彼は、ハンドルを握りながらもう一度、彼女をチラリと見た。

 彼女の細く白い首にかけていた、金色のネックレスが、小さく輝いていた。 

 

  ――― 時刻はまだ7時に少し前。


 国道沿いに、1基、ファミリーレストランのかなり古そうだが大きな看板が見えてきた。すると、そのレストランの広い駐車場に車を止めようと、彼は左に大きくハンドルを切った。


 駐車場に入り、車を止めた彼はドアを開け、車から降りた。しかし幸子は車を降りようとしない。仕方なく、彼女の座った助手席側のドアを開けてやると、やや間を開けて、ようやく彼女はその細く長い足を地につけた。

 

 車から降りた幸子は11月の冷たい風に思わず赤いコートの襟を立てた。


 二人が古くて広い店内に入ると、客はほとんどいない。

 店の奥の窓際の席に二人は座り、彼がスパゲティとコーヒーを2つずつ注文し、幸子を見つめながら少し遠慮がちにタバコに火をつけた。

 すると、突然小さな声で、幸子が囁くように言った。

「やっぱり帰らなきゃ・・・」

 その時の彼女の顔は、松崎には微かに青ざめて見えた。

 驚くようにそんな彼女を彼は見つめていた。

「どうしたんです?」

「主人から、榎本からメールが入ってる」

「返信しておけばいいじゃないですか、教授は東京なんでしょ?」

「でも・・・」

「落ち着いてください」

「今さら引き返せませんよ」

 彼女を見つめながら半分呆れた口調で松崎は言った。

「ごめんなさい・・・」

 彼女が美しく、小さく囁いた。

「最近なんだかどこにいても、主人に見られているような気がしてしまって」

「今日、出かけたいと言ったのは、あなたなんですからね」

 彼は幸子を叱りつける様に言った。

 


 その日、榎本は医学部の学生、吉川翔子と定山渓の温泉にいた。


「どうして奥さんにメールを入れるの?」

 淑子は不思議そうな顔で榎本を見た。

「自分でも分からんな」


 苦笑いをしながら榎本は翔子を見返した。

「私は嫌だな、私と会ってる時に、貴方が奥さんのこと考えてるの」

 榎本も不思議だった。何故自分がこんな時に幸子にメールを入れるのか。


 思い出せと言っても彼女の顔すら思い出せそうにないのだ。


「さあ、行きましょう」

 翔子が榎本の手を引き湯へ向かった。

 彼は、広く熱い男風呂の湯の中で一人、冷たい風を感じながら考えていた。


 『自分は何かに迷っていた。何が自分を幸子という女性に引き付けるのか。あの時自分は仕方なくお見合いを承諾し、結婚したのだ。


 ――― 自分は幸子を愛してはいない?。


 だが、いつも自分は彼女のもとに帰る。

 自分には分からなくなっていた。

 結婚というものがどういうものなのか。

 今さらもし誰かを愛してしまったら?・・・。』

 

 そこへ平然と翔子が男湯の扉を開け、入ってきた。

「背中流しましょうか」 

 榎本は驚いて身を引いた。

「おいおい、ここは男風呂だぞ」

「他に誰もいないからいいじゃない」

 そう言いながら、翔子は男湯に浸かってきた。

「最近の若い子は大胆だな」

 そう言いながらも、榎本の目は、男風呂に入ろうとしていた、翔子の桃色の裸体をしっかりと追っていた。


「アーいい気持ち」 

 はしゃぐように彼女は湯につかり、榎本の横に並んだ。

 知らない人が見たら、それは親子に見えたかもしれない。


「最近授業は出ているんだろうな」

 榎本は半分、湯からふくらみが透けている、翔子の胸を横目で見つめた。

「大丈夫、先生をあてにしてるから」


 彼女は桃色の肩を榎本に摺り寄せながら言った。

「勝手にあてにされても困るぞ」

「それに私、卒業してもお医者さんになる気はないから」

「どうするつもりだ」


「先生のお嫁さんになる」淑子は無邪気に笑った。

「・・・・・」

 榎本はその言葉を否定も肯定もできなかった。


「いいでしょ」

「それはとりあえず医者になってからの話だ」

 榎本は突っぱねるよう言って、いきよいよく湯舟から上がった。

 

 湯殿から出て渡り廊下を歩いていると、紅葉が見えた。

 真っ紅に色づいた紅葉の色は、その時の彼にはまるで血の色に見えた。

 それを見て彼は思った、

『欲しいものを手に入れるには、身を切らねばならぬのだ、では幸子は?』



 食事を終えた松崎と幸子は店を出た。

 すると雪がちらつき、枯れ木の間でまるで雪虫のように揺れながら輝いていた。

「雪、雪が降ってる」

 幸子は顔を輝かせて子供の様にさけんで、立ち止まった。


 松崎はそんな幸子を気にもせずに、駐車場に止めた自分の車へ向かい、車のドアのキーをはずし、ドアを開け、振り向いた。


 幸子が白いワンピ―スの裾をちらつかせて、白い雪の中で踊っているようだった。

 彼はその時、そんな彼女に、亡くなった妻の面影を見ていた。


「早くしてください」

 しかし彼は平静を装い、彼女に声を掛けた。


 すると、走って近づいてきた彼女は、車に乗り込み、突然松崎に言った。

「やっぱり、今日は帰るわ」

「どうしたんですか。会いたいって言ったのはあなたですよ」

「会いたいって言っただけよ」


 しかし、彼は車をゆっくりと走らせ、駐車場を出ると、思い切って幸子の家路と逆向きにハンドルを切った。

「えっ、どうしたの、どこ行くの?」

 助手席の彼女は驚いて松崎を見上げた。


「少し飲みましょう」松崎が平然と言った。

「飲むって、飲んだら帰れないじゃないの」驚いたように幸子が言った。

「帰らなきゃいいんです」彼は言った。

「・・・・・・」彼女は、それ以上、何も言わなかった。


 街中のホテルに着き部屋を取ると二人はホテルのバーへ足を向けた。

 時刻はようやく8時を少し過ぎた。

 店内はまだ閑散としている。


 人が集まるには、まだ早い時間だった。

 周りは観光客だろう、外国人のカップルが数人いるだけだ。

 

 そんな中で二人は、何も言わずにワイングラスを傾けていた。

 しばらくすると、松崎は思い切って幸子に打ち明けた。



「榎本教授、文学部の美人助教授と最近うわさが立ってるんですよ。それに今日、東京で医学部の学会など開催されていませんよ」

「知ってます。毎回、学会、学会と言って、学生と遊びに行って・・・」

「その、腹いせに僕を利用してるんですか」

「腹いせなんて・・・」


 彼女はそれ以上何も言えなかった。 

 松崎は、彼女のその気持ちには気がついてはいた。

 

 彼女の主人の榎本は、T大学卒業の若いS大医学部教授だったのだが、若い頃から女癖の悪い事でも評判の男だった。

 

 その彼の女癖の悪さのせいもあって、その頃、彼の上司にあたった幸子の父の名誉教授が、早く彼の身を固めさせようと、自分の娘の幸子と見合いをさせて、やや強引に二人を結婚させてしまったのだ。


 松崎はその事実を知っていた。


 S大医学部助教授である松崎は、医学部パーテーで幸子と知り合い、何となく付き合い始め、その事実を彼女から聞いた。


「外に出て歩きましょうよ」少し飲みつかれた幸子が言った。

「創成川ぞいにでも行きましょうか」松崎が答えた。


 フロントに鍵を預け、二人はホテルを出た。

 そして冷たい風の横切る大通りを、東に向かって歩いた。

 この季節の大通り公園は、噴水もすでに止められ、噴水の中で茶色い枯葉が季節の変わりを告げるように踊っていた。


 それでもその公園の寒いベンチに、幾人かの少し淫らなカップルが腰を掛け、愛を確かめ合っていた。

 創成川につくと、幸子は枯れたライラクの木に手を伸ばし、微笑んで松崎を見た。突然、美しい雪が、幸子の周りに白く輝きながら舞い踊った。


「雪、雪よ」

 彼女が子供のように叫んで嬉しそうに松坂を見た。

 

 松崎はタバコに火をつけながら彼女を見つめた。

 この季節、ライラックはすでにすべて葉を落としていた。


 時々、厚い雲の切れ間から三日月が流れた。そんな創生川沿いの葉を落としたライラックの枯れ木の間にテレビ塔が見えている。

 テレビ塔の時刻が9時になったら、ホテルに戻ろうと松崎は思っていた。

 

 9時過ぎなり、二人はホテルに着いた。

 

 そして松崎はベッドの上で、いつもの様にぎこちなく彼女を愛した。

 幸子もそんな彼を、どうしても熱く、本気では愛せなかった・・・。



  次の朝、定山渓の温泉では、まだ少し薄暗い部屋に敷かれた布団の中で、二人はまだ裸のまま横になっていた。

 翔子が布団から胸をさらけ出したまま肘をつき、半身、身を起こし、榎本に言った。

「やっぱり帰っちゃうの?」

「もう1日いいじゃない」

「ダメだ」榎本が裸のままの翔子に強く言った。

 すると、胸をさらけ出したままの翔子が、榎本の耳元で妖しく囁いた。

「先生が今、文学部の美人助教授と噂がある事、私、知ってるのよね・・・」

 榎本は何も言わなかった。

「でもね、でもね、私知ってる。先生、本当は心の奥底で奥さんの事、愛してるのよね・・・」

「先生、自身がないんでしょ?」

「奥さんが本当に自分の事愛してるかどうか、自身がないんでしょ?」

「だから浮気して奥さんの気を引こうとしてるんでしょ?」

「何言ってるんだ」榎本は赤くなって翔子から顔をそむけた。


 その日の午後、いつも通り榎本は何も言わずに幸子のもとへ帰ってきた。


「あなた、学会ご苦労様でした」

 何時もの様に幸子が榎本に行った。

「ああ。君はどうしてたの?メールに返信がなかったようだけど」

 榎本が彼女を見ながら言った。

「えっ。気がつかなかったわ」

 幸子は彼の顔を見ずに、あらかじめ用意した嘘を言った・・・。


 そして二人はさり気なく何時もの夫婦生活へ戻った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ