仕事終わりは一番気が抜ける
「――わかりました。では、そちらでお願いいたします」
「残りの細かいことは、上と相談したのちに返答させていただく形でよろしいでしょうか?」
「えぇ、お願い致します」
壁に掛かっている時計をチラリとみると、どうやら一時間近く話していたらしい。
ようやく終わった……安堵した瞬間、全身の力が抜けるような感覚があった。
「あぁ、エレベーターまで送っていきますよ」
片付けも終え、部屋から出る際に言われた。
疲れたから一人にさせて欲しい、何ていえず曖昧な返事でごまかした。
首から下げていた社員証を翳すと、エレベーターのボタンは起動した。どうやら社員証がカードキーになっているらしい。
ただ、エレベーターが来るまでの待機時間が苦痛だ。会話することも無く微妙な空気が流れて息苦しい。
まぁ、とりあえずこれで一件落着ってことで――
『ねぇ、聞こえるかしら。今横にいる人に、以前会ったことがあるかどうか聞いてほしいのだけれども』
……え?
田原さんの言葉に耳を疑った。
『えぇ!? それは危険なんじゃないかな?』
『どう反応するか見てみたいの。もしかすると、この前スーパーで戦った人物かもしれないわ』
『確かに何かしらの情報は欲しいですが、リスクが大きい気もします』
『百も承知よ。それでも得られるものがあると思うの、お願い出来るかしら』
何やら少し揉めているみたいだ。互いの言葉に熱が籠っている気がする。おかけで耳を澄ましていないと、会話の内容が入ってこない。
「先程から耳を抑えていますが、大丈夫ですか?」
「ふえ!? あぁ……あの、お、お構いなく……」
突然の声掛けにビクッと肩が跳ね、素っ頓狂な声が出てしまった。
しっかりと会話を聞こうとして、髪に隠れたイヤホンに手を当てていたところを見られていたようだ。
『軽く触れるだけで構わないから』
こ、この状況でですか!? い、いやそんな疑念を抱かせるような質問は……って、もうエレベーターが来るよね!?
……もう、やけくそだー! どうにでもなれ!
覚悟を決めて、口を開いた。それと同時に、チンッと到着の音を立ててエレベーターの扉も開いた。
「あの……以前どこかでお会いしたことがありますか?」
「……いえ、初めてだと思いますが? 何か気になることでも?」
「あぁ、すみません。え、えっと……どこかで聞いたことのある声だと思いましたので」
「そうですか……何度か御社に電話を掛けたことはありますので、もしかしたらその際に言葉を交わしたかもしれませんね」
「そ、そうですよね…………で、では失礼いたします」
「降りる時もカードキーを翳さないと全てのボタンが反応しませんので気を付けてください」
相手の忠告にも目を一切合わせずに頭を下げ、エレベーターに乗り込んだ。閉じるボタンを連打したい感情を押し殺す。
カードキーを翳してボタンを押す。そしてドアが閉まった、その瞬間。
「あぁー……緊張した」
張り詰めていた糸がプツンと切れたように、全身の力が抜けた。
何度も何度も詰められた。何一つ変わらない表情で淡々と詰めてくるのは、怒鳴られるよりも恐怖を感じるくらいに委縮した。
胸に手を当てると、まだ心臓がドクドクと波立っている。
「な、何とか必要最低限のノルマは達成できた」
会話しただけなのに満身創痍、濃くなった部分がワイシャツの腋から見じみ出ている。
(本来なら、ここで帰れるはずだけど……)
早く帰って、お布団に潜りに行きたい。何も考えずにダラダラしたい。頭の中が休みたいとの思いで埋め尽くされていく中、
『お疲れ様!』
悶々とした感情を吹き飛ばすような明るい片瀬さんの声。
「あの……一応、話は終わりました。それでなんですけど――」
『ありがとうございます。お疲れの所申し訳ないのですが、出来る範囲で構いませんので、色んな場所を探索してきてもらいませんか? それと電池の残量が少なくなってきたので、申し訳ありませんが会話機能は切らせていただきます』
「……わ、わかりました」
有無を言わせない唐木田さんの頼みに僕は従うしかなかった。
彼女達にとっては、内部を知ることが今回の目的だ。故に今までの話し合いは全くと言っていいほど彼女達には関係のないことだ。なので、ここからが本番になるのは理解できるけど……支持無しでやるのは難しくないかな? それにどんな映像を取ればいいのかもわからないよ。
一抹の不安は僕の気を落とすのに十分な材料だった。
(カードキーによってエレベーターの行き先を決められているから他の階に行くことが出来ない……上手く出来ているなぁ)
一階に辿り着くまで、途中で乗って来た人達にチラリと視線を向けると待っていた職員らしき人が腕時計を翳していた。たぶんカードキーの変わりなのだろう。
なるほど、そうやって外部の人と区切りをつけているのか。よくできたセキュリティに関心をしながら周囲を見渡す。
(一階だけでも、相当広いぞ)
出入口から見ると、一番近くの正面に受付があって、受付から左右に分かれていて右側に僕が乗って来たエレベーターがある。
(と、なるとまだ行っていない左側に潜入しないと)
未開拓の地へと侵入を決意し、目的地へ向かう。
チラリと横目で見ると、受付の人と視線が交わった。というよりも、何か不審な目で僕を見ている気がする。
用件を終えた外聞の人間が、何故か受付を通り過ぎ別の場所へと向かっているんだから、当たり前ではあるけど……。
罪悪感が身体を付きまとい、僕の心臓を握りつぶしてきそうで息苦しい。
(む、無理だ……流石に無視はできない)
意を決して、受付へと向かう。
「あ、あの……すいません、トイレをお借りしたいのですが、場所はどこにあるのでしょうか?」
「あ……は、はい。そちらにございますよ。看板にも書かれていますので、わからなければ、そちらもご参照ください」
一言、礼を言ってからその場を立ち去った。
少し不思議な目で見られていたような気もするけど致し方ない、だって数十メートル先にトイレがあるんだから。
「一先ずはこのあたりでも散策して――」
まるで建物内を観光するかのように歩き回る。
(それにしても、大きな会社だな)
見渡せば見渡すほど強く感じた。
エレベーターの奥にはカフェが併設されており、さらにコンビニや会議室なんかも見受けられた。それら全てを映像に残すため、中に入るギリギリまで近くを通った。
(本当に、なんでこんなところと取引があるんだろう)
凄すぎて最早乾いた笑みが零れた。
建物意外にも最新鋭と思われるシステム、見たことのない設備、電子の世界と思ってしまうほどの空間、当たり前のようにいる異国の方々。
「取りあえずは、これくらいで良いのかな?」
会社内で施設の中に入っていないのに一階だけで数分間、どれだけ広いんだ!
これ以上の捜索は僕の気持ちの方が持たなさそうだ。心の底で、いつトイレに行くといった嘘がバレてしまうのか、気になって仕方が無かったからだ。
視線を合わせないで受付にカードキーを返して、外へと出た。
今度こそ正真正銘の解放に安堵のため息が生成された。身も心も途端に軽くなった。
「ええっと……『一先ずは終わりました。後で撮ったものをお送りいたします』っと、これで送信」
送る内容をもう一度確認してから、遠慮気味にボタンを押した。
スマホを仕舞おうと上着の内ポケットに入れた瞬間、ピロンと直ぐにスマホが鳴った。可愛らしいヒヨコのスタンプが送られている。
(社会人の僕より、返信が早い……)
正直、仕事でのやり取りの中でメールやメッセージでも気が重い。『わかりました』の一言でさえ躊躇う時もある。
仕事以外で人とやり取りをしたのは何だか久しぶりな気がする。
それほどまでに忙しいのか、はたまた気軽に連絡を取ることが出来る友人がいな――うん、やめよう。考えるほど悲しくなってきたので考えないことにしよう。
帰路の最中は一切仕事のことを考えず、出来るだけ早く歩いた。
「何とか無事に戻ってくることが出来た……」
思わず、玄関で座りこんだ。もう、立ち上がる気力もないよ……。
緊張感と不安から解放され、安堵のため息が漏れる。
「しかし……意外と綾瀬部長も凄い人だったんだなぁ」
まさか、大企業と繋がりがあるなんて思わなかった。
(でも、繋がりがあるということは確かだ)
もしかすると部長も何かしらに関わっている可能性もゼロじゃない。あの事件の時に部長は操られていたけど、もしかして自作自演だったりして――って、そんな事を考えたら明日からどんな顔をすればいいのかわからないよ!
怪しく微笑む部長の姿が浮かび上がってくる。そんな嫌味な部長とは確か明日会議をすることになっていたようなって――明日か……。
明日……。
明日も仕事か……。
長く出たため息と共に肩を落とした。
だけど在宅になっているからほんの少しだけ気は楽だ。そう思っていないとやってられない。
何もする気にはなれなかったので、最低限の身支度を整えたら直ぐに目を閉じて、身体を休めた。