エピローグ
一件のメッセージによって、僕は外出することになった。会社が休みの日に買い物以外で家を出るなんていつ以来だろう。
『本日、有名モデルが帰国するということで空港では多くの方々が――』
座席に座り、電車に揺られながら設置されたディスプレイを眺めていた。
あの戦いから一か月が経過して、世の中の記憶からは蚊帳の外になっていた。
公には会社員同士の揉め事と発表された。発表当初は世間やマスコミからの激しい追及があったけど、そこは腐っても大企業なのか、次第に沈静化されていき今では、もの好きだけが触れている程度になっている。
(結局の所、事件前とあんまり変わっていない気がするなぁ)
チェインでは事件に関わった数人が責任を取らされて辞めることになったらしい。
だけど根本的な部分は何も変わっていないので、次にまた何かを企んでいてもおかしくはない。
対して、僕の方はというと――こっちもあまり変わってはいない。
大野主任は自主退職という形で今回の件の責任を取って、会社を去ることにした。また、その数日後には部長の方も何故か会社から消えていた。
部長が去ったことで、幸いにも以前よりかは仕事でのストレスは減り、会社の風通りも格段に良くなった。有休も申請すれば取れるようになったし、残業時間も以前に比べたらからり減ってきている。ブラック企業がグレーくらいの色に変わってきていると思う。
ただ、僕の班は大野主任がいなくなってから、どこか哀愁に満ちていた。
それでも日常は止まってくれない。
会社の重鎮が二人もいなくなってしまったので、仕事の忙しさは事件前よりも増していた。それでも何とか喰らいついて日々を過ごし乗り越えていた。そんな中で取ることが出来た久々の有休。事件解決からは、あまり休めていなかったので身体の回復に努めていると、
『今日はお休みだったりしない?』
ピコンとスマホにメッセージが送られてきた。
送り主とはあの事件以来会っていない。
唐突な誘いに面食らい、急いで身支度を済ませることになった。
仕事の忙しさからか、何だか久しぶりのような気がして
「そういや、この駅名……どこかで聞いたような」
どこか見覚えのある駅内に懐かしさを感じながら、目的地に向かって足を進めた。
何だかこうしてゆっくりと歩くのは久しぶりかもしれない。
「ここ……で、いいのかな?」
送られた画像を頼りに、時間をかけながら指定された場所に来てみると、そこには小さな喫茶店があった。
最近オープンしたのか、外観には汚れ一つ見当たらないほど綺麗で、入り口の近くには開店祝いと書かれたスタンドの花が一つ置かれている。
小さな鈴の音を鳴らせながらドアを潜る。どこか怖々した気持ちを抱えつつ、ゆっくりと歩を進め店内に入ると、中にいた店員さんと目が合い、思わず目が飛び出そうになるほどの衝撃を受けた。
「いらっしゃい」
「大野主任!?」
「もう私は、主任じゃないよ。ただの店員だ」
驚きのあまり動けなくなった僕を、まるで何事も無かったかのように、カウンターへと案内してくれた。
「一体これは、どういう……」
「オープンさせた」
「へ?」
「かなり小さいが――私の店をな」
状況をまるで整理できていない僕は、ただただ首を傾げるばかりだった。
「元々、喫茶店っていうか、自分の店を開くのが夢だったわけ」
小気味のいい音と共に、どこか吹っ切れたような感じで語り始めた。
「そんで会社も辞めることになったし、良い機会かなと思って始めたってこと」
慣れた手つきで作業している。要領の良さは会社の頃と変わらない。
待っている間、改めて店内を見渡してみる。確かにこじんまりとした小さなお店だ。だけど、それ以上に無駄な力や変な気がいらなくて、座っているだけでもリラックス出来る様な伸び伸びした雰囲気。
店内は明るく、少しアンティークな催しが一層味を出していた。
初めて来たはずなのに、とても落ち着く。何だか実家のような安心感があった。
「良い店ですね」
「だろ」
純粋なウインクが返って来た。
「コーヒー……は会社で飲んでいる気がするから紅茶にするぞ。甘いもの飲んで身体、休ませとけよ」
暫くするとフルーティーな香りが広がり、鼻腔をくすぐる。砂糖の量を答えると、シンプルな白の容器に入った黄金色に輝く紅茶が出された。
湯気が立ち上るほどの熱々だったので、一口しか口に運べなかったけど、それでスッキリとした甘みと飲みやすさは疲れていた身体に染みわたった。
「お金とかは大丈夫だったんですか? お店を開店するってなると相当かかったんじゃ……」
「まぁ、ある程度溜めていたし、それに――」
くるりと背を向け、近くの引き出しを漁っている。
そして取り出したものをテーブルにバンッと叩きつけた。衝撃で少しだけ紅茶が零れ出た。
「クソ部長とのやり取りを全部録音して、パワハラ認定させて、金ふんだくって来たから心配することじゃねーよ。既婚者のくせに女性陣にも手を出していたみたいだったし」
通知書と書かれた紙には沢山の文字と和解金が書かれてあった。
パッと見ただけではどんな内容が書いてあるのかはわからなかったけど、少なくとも六桁目までゼロが並んでいたことはだけは認識できた。
もしかして、部長が会社からいなくなった理由ってこのことが原因なんじゃないのかな?
「まだ、あそこで頑張っているのか?」
「はい、何とかやっています」
「そっか……無茶だけはすんなよ。一度壊れた物は何でも元に戻すのには時間が掛かるからな」
「は、はい」
「会社にはもう行かれないけど、ここに来れば私はいるわけだから、なんかあったら溜め込む前に吐き出しに来るんだぞ。話だけは聞いてやっから」
「あ、ありがとうございます」
優しい心配りに胸がジーンとする。
「それに、ほら」
親指で指した箇所には唯一のテーブル席、さらにその奥には間仕切りの薄いカーテンが暖簾のようにかかっていた。
何のことだかわからずに、その場で立ち尽くしていると、大野主任からカーテンを潜るように指示が飛んできた。
恐る恐る向かうとそこには三つの頭が見えていた。
「皆さん!」
「あっ! こんにちは、お兄さん。こっち、こっち」
「……どうも」
「お邪魔しています」
元気とクールと上品な挨拶は、それぞれの個性を表している。
招かれた僕は遠慮気味に片瀬さんの隣に座った。
「こいつ等の丁度いい、場所になるかなって思ってさ」
「場所? ……それってもしかして――」
「はい、今までは場所を転々としていましたし、誰かに聞かれ、話が漏れてしまう可能性もありましたが、大野さんがこの場所を使っても良いって言ってくれました」
「……ま、こいつ等には世話になったんでね」
視線を逸らした主任の頬はほんのりと赤く染まっていた。
「それに、甘いものも出てくるしね!」
「本当に甘いものに目が無いわね……」
「ちゃんと、お金は払うんだぞ」
「えっ!? そ、そうなの!?」
「たりめーだ。助けてもらったことは感謝しているが、それとこれとは別だ」
悲しそうに財布を確認しながら涙を流す片瀬さん、永久無料の食べ放題だと本気で思っていたのだろう。
「……値段については、多少の融通利かせてやるから」
「えっ!? ほ、本当!?」
「どっかの出来の悪い部下も世話になっていることだしな。その世話代ってことで」
「こ、心苦しいです……」
ニヤリと悪戯っぽい笑顔で口撃は、僕の心に突き刺さる。
でも居心地は悪くないし、暖かく感じる。
「そういえば皆さん、その服装ってことは学校帰りなんですか?」
「うん、そうだよ。三人とも同じ学校に通っていて、その帰りに集まったの」
「通っている高校の最寄り駅が、すぐそこになるんだとさ――っと、ほれ、焼きあがったぞ」
その一言で三人から歓声が上がった。
テーブルの上に置かれたアップルパイは黄金に輝いている。
口いっぱいに広がる甘酸っぱさとサクサクのパイ生地が絶妙なハーモニーを生み出していて、食べながら始まった思い出話に花を添えた。この前の戦闘のことや事件のことなどは、すっかり笑い話となり、日が暮れるまで話は尽きることは無かった。社会人になって初めて充実した一日になった。