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平凡な社会人は非現実的な出来事に目を背ける


「……だからさぁ、すみませんは聞いたんだよ! それよりも数字を取るための解決策が聞きたいのって何度も言っているよな? わかってんのか、新井?」

 

 大げさに吐かれた溜息によって、肩がビクリと反応する。全ての言動に対して恐怖がつき纏う。


「す、すみません」

 反射的に深々と頭を下げ、何度も同じ言葉を繰り返すほかない。

 僕の対応を見て再び生成された溜息の中身は、怒りよりも呆れが勝っているのが伝わってくる。

 同じ場所に立ち続けて、三十分ほど経ったのだろうか。掠れた声を出し、周囲の人達からの飛ばされる哀れみの視線も心が痛む。


「……もういい、ここで問い詰めたところで売り上げが伸びるわけじゃないし、私も暇ではないからな。今度こそ必達だからな、必達!」

「は、はいっ! 申し訳ありませんでした」


 何度目かわからない頭を下げ、その場から逃げるように離れる。

 ようやく解放された、流石に気が滅入るなー……。既に身も心も憔悴しきっていて、自分の席に戻る足取りは力を入れなければふらついてしまうほど。


「おいおい、またあいつ部長に怒られていたぞ。今回はいつにも増して長かったな」

「未だにノルマを達成した事が無いって言うのもあるが、流石に目を付けられているのは可哀想だな」


 席に座るや否や、先輩や同僚からの視線、ひそひそ話が僕を襲う。今すぐ何もかも投げ捨てて逃げ出し

たい衝動に駆られるも、グッと奥歯を噛み締めて感情を無くさせた。


(まだまだ、帰れそうにないなぁ……気持ち、切り替えないと)


 ちらりと視線を壁にかかった時計に向ける。既に針は下を向いていて定時は過ぎていたが、机の上にある溜まった用紙が帰宅を阻んでくる。

 仕事が出来ない僕も僕だ、急いで終わらせないと。

 怒られたことに心を沈ませていたら日付を跨いでしまう。

 折れてしまいそうな心に嘘をつきながら、ただ無心に目の前の業務をこなしていく。

 大学卒業後に今の会社に就職し、二年目を迎えた。新人ではないがまだまだ社会人としては一人前から程遠い立ち位置だ。


「お先に上がります」

「失礼します」

「お、お疲れ様です」


 パソコンで資料作りをしている僕を尻目に続々と他の人達が帰宅していく。一応、挨拶だけはちゃんと返すようにしてはいるが、そこに愛想や感情を入れることが出来ないほど疲弊していた。

 眠気を抑えるためだけに買ったエナジードリンクを無理矢理喉に流し込み作業を続行。学生時代は毎日のように好んでいたのに……今では、仕事をするための道具の一つでしかない。味覚も疲れているのか味がしない液体に変わり果てていた。


「はぁ……」


 終わらない作業に、思わず溜息が零れ出た。

 社会人になってからと溜息をつく回数が格段に増えている気がする。

 そう思った瞬間、キーボードを打っていた手が止まり、自ずと顔も下を向いた。


「――おい、まだ残ってたのか」

「あっ、すみません……資料作りが終わらなくて」


 怒りにも呆れにも捉えることが出来るような声調が突然耳に届き、慌てて振り返る。

 腕を組み、睨みつけるような鋭い視線を送る大野主任が立っていた。

 ショートヘアの髪はバラのように赤いのが特徴的。

 会社だというのにスーツは着崩していて、純白のブラウスによって胸のふくらみが強調されている。黒いストッキングによって引き締まった細い脚。僕と同じくらいの背丈で見た目少し派手かもしれないが、反して出来る女という言葉がこの人以上に似合っている人物はいないと僕は思う。それくらいカリスマ性があると思う。


「新井、もう帰れ。何時だと思っているんだ。定時はとっくに過ぎているんだぞ」


 左腕に巻かれた腕時計をトントンと叩いていた。ハッキリと時刻は確認できなかったけど、確実に定時は過ぎていることだけはわかる。


「すみません、資料がまだ完成してなくて……」

「その資料は、今日中に作らないとダメな物なのか?」

「い、いえ……でも、明日も他の仕事がありますし、時間がある時に作らないと……」


 蚊の鳴くような呟きに、大野主任は大きな溜息をついた。


「真面目過ぎなんだよ、お前は。その仕事も、どうせ部長に擦り付けられただけだろう? あいつは仕事しねぇーくせに他人にばっかり振りやがって」


 確かに昨日、部長にやるようにと言われたものだ。でもそのことは、誰にも話してないのにどうして知っているのだろう?


「あとどれくらい残っているんだ? 量が量なら私も手伝うぞ」


 言葉遣いは少々乱暴だけど、内容には主任の優しさを感じる。

 そしていつもお世話になっているので、頭が上がらない。


「あっ、いえ……あと少しで終わりますので大丈夫です」

「……本当だろうな?」

「は、はい。これだけやったら帰りますので」


 首を前に出し、ジッと僕が作業していたモニターを見つめている。

 どうやら言葉だけでは信じてもらえてないみたいだ。


「まぁ、確かにあと少しみたいだな……じゃあ、私は帰るからな。ちゃんと終わったら直ぐに帰るんだぞ」


 口元に手を当てながら、少し眠たそうな口調だった。

 やっぱり主任も疲れているみたいだ。そんな中で手伝おうとしてくれていたなんて……心に染みるものがあった。


「――それと会社から出る時、ちゃんと鍵が掛かっているか確認してな。最近、何かと話題になっている事もあるし」

「話題って……あの、窃盗の人達ですか?」

「あぁ、怪盗少女やら魔法少女やら言われているらしいけどな」


 やれやれとばかりに息を吐き出した。


 大野主任が口にした話題、最近巷を賑わしている窃盗事件及び、超常的事件の事だ。複数の女性が真夜中に建物に侵入して物を盗んでいるというものだ。ただ実際に何を盗んでいるのか、目的は何なのかが明らかになっておらず不可解な事件として取り上げられている。

 何より話題に火をつけたのが目撃証言で、口をそろえて複数の人物が不可思議な現象を見たと証言していて、その光景はまるで魔法のようだと言っている。

 このことが瞬く間に広がり、いつしか怪盗少女、魔法少女などという文言で報道されていて、世間一般には怪盗少女の名で広がっている。忙しすぎてテレビやスマホを見る暇が無い僕でも、成り立ちを知ってしまうほどに話題が沸騰している現状だ。


「まっ、うちの会社には盗むほどの価値がある物なんて無いしな。けど、顧客情報は盗まれたら流石にヤバいから戸締りはしっかりしろよ」

「あっ、はい。わかりました。お疲れ様です」


 椅子に座りながら一礼をする。

 大野主任が去っていく足音が消えると、部屋の中はいつにも増して静まり返った気がした。どこか寂しさを感じたけど、その思いも直ぐに振り払って作業に取り掛かる。

 肩をだらんと下げ、半開きの目で必死に進めていた。


(……ん? まだ誰かいるのか?)


 数分後にキーボードの打鍵音以外の異音が耳に入って来た。まるでプログラムされた機械のように指先を動かしてので、ゆっくりと振り返ってみたら、そこには帰ったはずの大野主任の姿があった。

 思わず情けない声を上げて辺りに響き渡ってしまった。朦朧としていた意識が一気に戻り、ありとあらゆる感覚が目覚める。

 そんな僕の反応を見た大野主任は、ゆっくりと近づきため息交じりに吐き出した。


「わ、忘れ物ですか?」

「……無茶だけはすんなよ、壊れた身体は元には戻らないからな」


 次の瞬間、コトッと軽い音を立てながらデスクの上に何かが置かれる。音がした箇所に目を向けると、可愛らしいマグカップが置かれていた。そこから立ち上る湯気からはコーヒー豆の良い香りが鼻腔を擽らせる。

 手に取るとやけどしそうな熱さだったが、今の僕にはとても温かく感じられ、触れている部分だけでなく心にまで届きそうな温かさだった。

 握りしめながら振り返ると、既に主任は歩き出していた。


「あ、ありがとうございます!」


 残っている元気を全て注ぐかのように、席を立ちあがり勢いよく頭を下げた。

 数秒後に顔を上げると立ち止まることなく右手だけを上げ、ひらひらと振って返答してくれた。

 去っていくその背中は、とても大きく見えた。

 ……でも、ごめんなさい。さっきモニターに映っていた仕事以外に、もう一つ片付けたい仕事があります。なので、時間はもう少しかかりそうです。

 感謝の気持ちと少しの罪悪感を携え、仕事に取り掛かった。コーヒーの味は少し苦めだ。


「…………」


 ひたすら無心に文字を打っていく。辛い、苦しい、厳しい、そんな感情なんて二の次になっている。

 集中しているというよりも、気力で踏ん張っている状態だった。


「あと少し……」


 自分を鼓舞するかのように呟いた。

 画像を貼り付け、文字を入力し、そして上書き保存のボタンを押せば――


「終わったーー!」


 万歳をするかのように両手を突き上げ、溜まっていたストレスを吐き出すかのように歓声を挙げた。

 伸ばした身体からは音が何度か鳴り、口からは大きな欠伸が生成される。


「あー……疲れた」


 終わったことにより集中の糸が切れ、一斉に眠気と疲れが襲い掛かって来た。

 仕事が片付いたことの達成感と、終わったことによる解放感に少しばかり浸っていた時だった。

 ――カツッ


「……え?」


 音がしたような……。

 ブーツで誰かが歩くような甲高い音が耳に届いた。

 突然の物音に身体の毛が逆立ち、音がした方向に振り向くも、そこには誰も何も無い。

 膝小僧を震えさせながら物音一つ立てずにゆっくり向かうも、そこに誰かがいた形跡は存在しない。


「気の……せい?」


 大野主任は、とっくに帰ったはずだし……、誰だ?

 必死に状況を整理しようと試みるも、残業による疲労のダメージが思ったよりも大きく考えがまとまらない。

 周囲を見渡しても誰もいない。ましてや照明が消えていて、この状況下では人を見つけること自体が困難だ。


「……幻聴が聞こえてくるなんて、相当疲れているな」


 そうだ、何か物が落ちたとか、機械の音とかだろう。

 無理やり自分に言い聞かせて、そういう結末にすることで完結の印を押した。

 今は少しでも動くためのエネルギーを残しておかないと、帰宅できなくなりそうだ。だから考えることを無理矢理放棄しよう。

 どうやら自分が感じている以上に身体は限界を迎えているらしい。

 先程の気味の悪さの事も相まって自ずと足早になっていた。

 ビルから出る際に、軽く辺りをうろついてみたが、何か変わったことは無かった。ましてや誰かが存在した痕跡も無かった。

 脳裏に色んなことが思い浮かんだが、少しでも思い出すと背筋が凍りそうになるので、極力脳内から排除して足を動かした。最寄り駅に向かうまでの間、一切振り返ることはしなかった。


「それにしても……結局、遅くなっちゃったな」


 鞄と立ち寄ったコンビニの袋を引き下げて、静かな道を重い足取りで歩く。

 電車に乗ってからも、どこか浮いた気持ちが収まらず、何度か周囲を警戒していた。

 スマホを確認すると、辛うじて日付を超えてないことがわかり、少しだけ安堵した。


「ただいま……」


 あれ? こんなに扉って重たかったっけ?

 凭れかかるようにして扉を開けるのがやっと。中に入っても足元すら見えにくい暗さが待っている。僕の言葉に対して返答は勿論あるわけが無い。

 家に帰ってきたら、まるで機械化されているように、着替えて風呂に入って、飯を食べる。ルーティン化してきている流れを終えれば、僕のエネルギーは枯渇寸前だ。


「…………もう無理、寝よう」


 倒れるかのように布団に飛びつき、視界を暗くする。


(明日、終われば休みだ……)


 仕事のことが頭にちらついて心底憂鬱な気分になり、自然とため息が漏れた。

 大学生になってから地元を離れて五年。

 特にこれと言った取柄が無い僕は、大学卒業後は都内の会社に就職し、営業職として配属された。

 やりたいこと、成し遂げたいこと、成長したいなどの、これといった目標は無いし、叶えたい夢があるわけでもない。

 たまたま内定をもらった会社に勤めているだけなので仕事へのモチベーションは皆無だ。ただただ世間体を気にするためだけに働いているようなものだ。


(僕は一体、何のために働いているんだろう)


 段々と意識が遠のいていく中で、ふと脳内にちらついた。

 大学入学前に上京してきた頃は、子供のように目を輝かせ、やる気と熱意、夢と希望、様々な思いを引き連れてきた。それが今となっては、どこに仕舞ったのかわからなくなっている。

 ただ毎日、同じことを繰り返す日々。思い描いていた社会人生活とは遠くかけ離れている気がする。

 答えの出ない問題が脳内に残された時、僕の意識は消えていった。


 

 鳴ってほしくないアラームによって瞼が開かれる。


「…………」


 身体を起こして溜息をつくまでがセット。抜ききれてない疲れを引き連れて、活動を開始する。

 朝の支度は如何に時間を短くすることが出来るかのタイムアタックになっていた。不足している睡眠時間の確保のために、ルーティン化されている作業をどれだけ早くこなせるかが鍵になる。


「……行ってきます」


 最小限の音量で呟かれた言葉に返信は無い。行きたくない本音をグッと心の中で握りつぶし、足枷がついたように重たい足取りで自宅を出た。

 今日も仕事か……めんどくさいなぁ。

 朝日の眩しさが目に染みる、眠たさも相まって半開きの状態で通勤を始めた。

 通勤時間は自宅のドアから会社のデスクまでは大体三十分前後。一人暮らしをしていることもあって比較的に近い場所に住んでいる。

 人混みの電車に揺られ、最寄り駅に着いた瞬間から憂鬱な気分は最高潮。

 偶々就活で引っかかった会社に就職して一年が過ぎた。ただ漠然と目の前の仕事をこなす日々、会社と自宅の往復。

 一体僕は何のために生きて、何の為に働いているんだろう、そんな事を昨夜の就寝の続きのようにいつも考えながら出社している。

 何事も起きないで、定時に帰れるといいなぁー……。

 僕史上、就職後から一度も叶った前例が無い願いを思い秘めながら向かった。


「おはようござ――」

「退職しただと!?」


 会社に入るや否や僕の挨拶を遮るかのように、響き渡った声。

 直ぐにその声の持ち主が部長の物だと理解した。

 ……嫌な予感がする。


「は、はい……先程急に電話がありまして、その、本日を持って退職なさると……」

「ふざけるな!」


 バンッと強く叩く音が辺りに響き渡る。

 その威力と迫力に、一斉に視線が部長の方へと集まっていく。皆が気を取られている間に、自分の席へとたどり着くことに成功した。


「お、おはようございます。あ、あの何があったんですか?」

「新井か、おはよう。見ての通り、おっさんが切れ散らかしている」


 話が漏れぬよう最小限の音量で、隣に座る大野主任に挨拶を交わした。


「……部長の直属の部下が急に辞めたらしい。どうやら退職代行を使ってとのことで、本人と直接連絡が

出来ないと。そういうのも含めて係長が状況説明をしたところ、御覧の有様ってわけだ」


 指を指した大野主任は、呆れと哀れみを込めた視線を送っていた。


「まぁ、いい! あんな使えない奴、いてもいなくても同じようなもんだからな。わかったらさっさと戻れ!」


 掴みかかってきそうな剣幕で係長に怒号を浴びせている。全く非の無い係長が可哀そうだが、些細な事が目に入るようなものなら、飛び火を貰ってしまうので、心の中でそっと合掌しておくことにした。


「集まれ! 朝礼を始めるぞ!」


 部長の荒げた声によって、社内にいる全員に緊張が走った。

 誰もが手を止め、まるで軍隊かのように姿勢を正している。


「腹正しいことに、突然一人退社したそうだ。まったく、こんな忙しい時に……」


 腕を組み、眉間にしわを寄せ、片足でリズムを取るかのように高速で足先で床を踏んでいる。そこから誰かを探すように周囲に睨みを利かせていた。……何だか胸騒ぎがする。


「お前らの所で、今日中に埋め合わせしろよ!」


 部長が向けた視線の矛先は大野主任に向けられたものだった。


「ちょっと待ってください、私達の所も先週、無理矢理振られた部長の仕事分がまだ残っています。いくら何でも今日中は無理です」

「知るか! お前らの仕事の仕方が悪いんだろ! 口ごたえする暇があるならさっさとやれ! 私は接待があるから忙しいんだ! これは命令だからな!」


 聞く耳を持たず。それから数分間の愚痴と怒声が始まり、少し憂さ晴らしが済んだ時に地獄のような朝礼は終わりを迎えると、そのまま直ぐに部長は外へと出て行ってしまった。

 先ほどまでの騒がしかった会社が、嵐が過ぎ去ったように静寂が訪れ緊張が解かれる。


「あの野郎……」


 今にも噴火してしまいそうなほどの怒りを抱えている。憤怒に燃えた目で去っていった部長の方角を睨みつけていた。


「――――ってるだろ……」

「お、大野主任?」


 下唇をギュッと噛み締め、拳を力一杯握りしめている姿は、直ぐにでも誰かに殴りかかってもおかしくはない。

 恐怖を植え付けられそうになるほどの剣幕に、たじろいでしまう。


「あっ……いや、何でもない」


 無意識に零れた言葉に、我に返ったかのいつもに主任に戻った。


「ったく、しゃーねぇから、やるとしますか」


 溜息を吐き、何事もなかったかのように腕のストレッチを行っている。

 ただ一瞬、垣間見えた横顔が、僕の脳裏に焼き付いて離れなかった。


「班の朝礼会議始めるぞ」


 毎朝恒例の朝礼会議が始まった。

 会社では班ごとに分かれていて、全部で五つある。その中の大野班に僕は所属している。

大野主任がリーダーとなり、その下で僕を含めた五人が在籍している形だ。大野主任は僕にとって言わば直属の上司という形になる。


「あのクソ部長のせいで余計な仕事が増えやがった、申し訳ないが少し作業が増えることになる」


 やっぱりか……そんな空気が漂い、班の皆が項垂れている。


「私も今日は取引先に行かなければならない用事がある。一応、会社に戻るつもりでいるがいつになるかわからない。場合によっては日付が超えるかもしれない。空き時間をみつけて私も進めるから、すまないが皆で片付けよう。とはいえ、優先事項はあくまで自分の仕事ということは忘れないでほしい。終わらなくても、責めるつもりは微塵もない。むしろクソ部長に文句を言ってくるから」


 頼もしい発言に皆が頷き、小さく拍手をする人もいる。

 クソ部長と言ったように以前から大野主任と綾瀬部長は犬猿の仲の関係だ。よく揉めている光景は、もはや会社の風物詩。

 反りが合わず、部長が一方的に目の敵にしてから始まったとかで、過去に何かあったみたいだが、その内容はわからない。

 聞いてみたい気もするけど、何故か皆知らないんだよなぁ……。

 ちらりと視線を大野主任に向けるも、口を動かしながら準備をしていたので、聞く決断を実行するのには明日以降になった。

 入社して間もないころに上司や先輩方に聞いてみたが、誰も知る人はおらず結局の所よくわかっていない。もしかしたら聞いてはいけない内容かもしれないので最近は気にかけないようにしている。

 その他の連絡事項が話されて、班の朝礼会議は終わった。


「すまないが、行ってくる。もし何かクソ野郎が言ってくるようであれば連絡してほしい。話をしておくから」


 頼れる言葉を残し、部長の机を睨みつけてから取引先へと向かっていった。

 僕も仕事をしないとな。

 一呼吸入れてから、作業に取り掛かるためパソコンを起動させる。


(今日はずっと事務所で作業することになっているけど……)


 ちらりと視線を動かすと、そこには山積みになった紙が置かれている。どれも今日中に終わらせなければならないものなので、言語を絶するほどの気が重くなった。


(今日も遅くなりそうだな……)


 休日前、残っている本日の業務、そして追加された仕事。

 始業開始から数十分でポキッと心が折れる音がしたけど、仕事なので投げ出すわけにもいかない。まるで機械のように黙々と手を動かし続けた。

 一枚、また一枚と山から紙を減らしていき――

 眠くなってきたので一息入れようと周りを見た時には、近くに人はいなくなっていた。電気も既に自分以外の箇所は消えている。

 あれ? この状態ってことは、まさか……

 慌てて時刻を確認したところ、スマホで映った画面にはあと数分で日付が変わる事を示していた。


「嘘でしょ……」


 肩を落とし、天を仰いだ。

 蓄積されていた疲労がどっと身体に襲い掛かってきて、立ち上がる事すらままならない。

 文字通りの満身創痍、それでも時間を忘れ周りが見えなくなるほど消耗したけれど、山は開拓され平地にまでなっていた。ゴールテープはすぐそこだ。

 ようやく…これでようやく終わりを迎えられる。

 どこか思いふけるように本日の苦しさを噛み締めていた。


 そんな時だった、カツカツと遠くの廊下から足音が聞こえてきた。どこもかしこも無音なので、とても少量の音だったけど、とてもよく耳に残った。

 何だ……って、あれ? そういえば昨日も似たような音を聞いた気が……。

 ふと脳裏に浮かんできたのは昨日の出来事だ。思い出した瞬間に背筋に悪寒が走った。

 こんな時間に、ましてや人が来るなんて考えられない。

 日付が変わる時間に会社に戻って来るなんて――

 大野主任、じゃないのか? うん、きっとそうだ。だとすれば、作業を進めていた方が良いな。手を止めていたら、また変な心配をかけてしまうかもしれない。それに戻ってくるって言っていた気がする。

 自分に強く言い聞かせるも、キーボードを必要以上に強く打ち込む。

 段々と大きく、近づいてくる。そして足音は僕の直ぐ後ろで止まった。


「お疲れ様です。すいません、あと少しで終わるので……これが終わったら帰りますから」


 ただ振り返る勇気は無かったので、パソコンの画面から目を離さず、手と口を動かした。

 とはいえ、この時間まで残っているので、怒られることに気持ちを身構える。

 けれど返事は無かった。

 不気味な無言が返って僕の気を散見させる。一旦手を止めて様子を探るも、返ってくるものは何も無かった。でも、背後から視線は感じる。

 もしかして、進み具合を確認しているのかな? そ、それとも怒りのあまり言葉すら出ない……とか?

 いずれにせよ、気になってしょうがないので、意を決して首だけを回してゆっくりと振り返る。


「あ、あの……って――ぶ、部長!?」


 思いもよらぬ人物に、椅子から飛び上がるほどの衝撃を受ける。

 そこには大野主任ではなく、茶色いスーツを身に纏った綾瀬部長が立っていた。

 想定していなかった人物のお目見えに、寿命が縮まる思いがした。


「い、今……戻られたんですか」


 僕の言葉に部長は返すことはしなかった。

 黙って俯いている。口は噤んだままで、部屋が暗いので表情はよく見えない。

 何だか重たい空気と気まずい空気が辺りに充満していて生きている心地がしないほど、緊張感に包まれていた。


「す、すいません。今、もう……終わらせますから」


 委縮しながら逃げるように仕事に戻る。

 冷徹な機械のように、黙ってこちらをみていた部長。そんな部長と二人きり、それに夜中になんて……今すぐにでも抜け出したいほど、心が苦しい。


「あ、あの……」


 先度から一言も発することも無く、無言を貫く部長に気が気でない。横目でちらりと様子を何度か窺ってしまうほど手につかなくなってしまった。

 椅子から立ち上がり、振り返ってみるけど、先程と全く同じ格好で立ち尽くしている。

 まるで電源の落ちたロボットのように項垂れている。腕にも力が入っていないのか、だらんと垂れ下がっていた。


「……ど、どうかなさいましたか?」

「……――」

「えっ――」


 意を決して言葉を掛けると、突如として起動した。僕の目線に合わせるように顔を上げたが、その瞬間戦慄した。

 部長のその目には生は宿っていなかった。

 充血した白目が僕に向かれている。

 その刹那――


「うわぁ!」


 近くにあった椅子を蹴り上げられ、驚きのあまり尻もちをついてしまう。


「い、いくら何でも……それは……」


 雪崩が起きたかのように物が散乱した。

 突然の荒行に言葉が詰まる。

 罵詈雑言を浴びせられてきたけど、流石に暴力はダメだと思います!


「――――」

「あ、危ない!」


 僕の呟きに部長は答えることはなく、再び近くにあった椅子を、片手で軽々と持ち上げて投げつけてきた。

 身構えることすら出来ずに、ただ目を瞑ることだけが唯一取れた行動だったが間一髪、頭の上を椅子が通過していった。背後からパリンとガラスが割れる甲高い音が響き渡る。

 あまりの暴挙に開いた口が塞がらない。


「流石に部長と言えど、これは――」

「――――」

「……ぶ、部長? ……部長ですか?」


 目の前にいる生き物に対して、近くにいるだけでも悪寒が走る。

 視界に映っているのは確かに綾瀬部長だ。だけど部長であって部長じゃない。まるで獲物を見つけた獣のように僕に狙いを定めているみたいだ。


「――――」

「なぁっ!?」


 僕に一直線に向かってくると、まるで扱いがサッカーボールのようにお腹を強く蹴られた。


「いった……」


 一度床を跳ねてから、二回転ほど転がるってようやく勢いが落ちて止まったほどの威力。

 込み上げてくる胃液と痛打、打ち付けられた時の背中に送られた痛みが骨にジンジンと響く。

 休むことなく倒れこんだ僕の上に部長が馬乗りになり、首を締めあげてきた。


「――――」

「ぐぅう……」


 息苦しさに歯を食いしばりながら、何とか手を動かして、締め上げる部長の手を剥がそうと腕を掴む。

 だけど、全く力が入らない。

 このままじゃ――そう思った瞬間、身体が宙に浮いている感覚が襲うと、視界が急速に揺れ動く。

 風を切りながら、まるで背負い投げをされたみたいに投げ捨てられた。


「うぐっ!」


 壁に衝突し、背中に感じた事のない激痛が走る。一瞬、呼吸が止まり、背中の方で骨がずれるような鈍い音が聞こえた。

 息を吸うだけでも痛みが襲ってくる。

 その場でもがくことしか出来ない僕が、存在に気が付いた時には、既に準備が整い後は実行するだけになっていた。


「うわぁ!」


 手を伸ばせば触れられる距離にまで迫っていて、尚且つ拳を限界まで引いていた。

 咄嗟に身体が反応し、顔の前に腕を交差する。

 ――やられる!

 瞼をギュッと閉じ、来るべき瞬間に備えた時だった。


「――待ちなさい!」


 風が走った。

 意識を切り裂く透き通った声。

 二人の視線の先が変わり、一か所に集められる。

 突然の出来事の来訪に、言葉が出ず目を見張る。


『月明かりに導かれ』


 割れた窓ガラスを背に立っている、満月の光を浴びながら。


『皆の想いを取り戻す』


 ゆっくりと、まるでファッションショーのように一歩ずつ近づいてくる。


『怪盗少女エトワール参上!』


 一人の少女が現れた。

 優雅に、華やかに、そして大胆に。


「な……何だ?」


 床に倒れこみながらも目を凝らして状況を把握しようとした。

 薔薇色のような華やかな赤色の瞳。整った容姿はどこか幼くも見える。顔だけで見れば僕より若そうで、少なくとも職場にいる人間よりかは確実に年は低く見える。

 風によって黄金色に輝く長いポニーテールが靡いている。

 袖の無い黒のタートルネックによって柔らかな曲線を描きながら胸の膨らみを強調させている。

 肘まで伸びた黒い手袋、赤いミニスカートは角度によっては見えてしまいそうなほど短い。

 ガーターストッキングにガーターベルトはどちらも黒く、彼女の細さをより一層際立たせている。

 痛さも忘れるほど、浮世離れした美しさだった。

 時間が停止したかのように目を奪われてしまう。


「あなたの相手はあたしよ!」


 少女は部長に向かって指を指した。すると、その上からステッキが現れ、それを握りしめる。


「――――」


 言葉を理解したのか、襲うべき対象を僕から怪盗少女と名乗った少女に変わった。文字にならない奇声を上げながら、一直線に向かっていく。


「あ、あぶな――」

『エトワール・ジェル(動くな)!』


 僕が危機を知らせる声を上げるよりも早く、少女は言葉を叫んだ。

 ステッキの先から星々が飛び出すと、取り囲むようにして部長の周囲を飛び交っている。次第に夜空を横切るように存在する雲状の光の帯のような形状が出来上がると、部長を中に閉じ込めるように光の輪っかが形成された。

 すると次の瞬間、錆びついた機械のように部長の動きが鈍くなる。


「な……なに、が……起きているんだ?」


 現実は到底思えない衝撃的な光景を目の当たりにした。驚きと恐怖で腰が抜けてしまい、先程の痛みも相まって立つことが出来ない。


「お兄さん、大丈夫?」

「えっ……」


 そんな僕に差し伸べられた。顔を上げると少女が心配そうな目で見つめている。

 少し目を離しただけ、足音も近づいて来た気配も感じなかった。黒いグローブに包まれた手を取り、少女の肩を借りながら起き上がる。物に手を当て支えにしながら、何とか身体を保っていた。

 はぁはぁと粗い呼吸が、今の僕の状態を物語っている。


「あたしが引き付けるから、その間にあなたはここから離れて」

「えっ……」


 耳元で少女が呟いた。優しい吐息が耳に当たり少しばかりくすぐったい。


「で……でも、き、君は――」

「心配してくれてありがとう。でも、あたしの事は大丈夫」


 ゆっくりと、彼女の手の掌が僕の背中をなぞっていく。人肌の温かみと、ほんのちょっとくすぐったさを感じながら、先程までの耐えられない痛みが、嘘のように消えていく。


「こ、これは――」

「これで平気かな? 急いでここから離れて、とても危険だから」

「い、いや……でも――」

「あたしは大丈夫」

「――――」


 真っすぐな瞳と屈託のない笑顔が向けられる。

 綺麗で見とれてしまいそうだったけど、直ぐに我に返った。どうしてかわからないけど少女の表情を見て大丈夫だろうと感じ、反射的に思わずうなずいてしまった。


「――っ! 魔法の効き目が――早く安全な所へ!」


 少女から離れた途端、あたかもタイミングを計っていたかのように、けたたましい奇声が耳を襲う。

 聞こえた方向に視線を向けると、動きを封じ込めていた星々が消え始めていて、部長が活動をしようともがいていた。

 少女の言葉はまるで魔法の効果でも織り交ぜられているかのように、僕の背中を押し足を動かせる。


「――――!」


 化け物の咆哮が聞こえるが、リアクションの一つもせずに一直線に、部屋から出るために扉へ向かう。

 危険な場所から退避して、後は警察に連絡をして――そんなことを考え、取っ手に手を掛け、力を入れる。が、


「なっ!? なんで!? と、扉が開かない!?」


 鍵はかかっていないのに、どうして!?

 押そうが、引こうが、スライドさせようが、まるで糊で固められているみたいに扉はうんともすんとも言わなかった。

 力の限り体当たりしても、反射するように自分の身体に衝撃が返って来るだけで効果は無い。ありとあらゆる方法を試してみるも閉ざされた扉が開くことはなく焦燥感に駆られる。


「はぁああ!」

「――――」


 僕の目を覚まさせるような音が背後から聞こえてくる。日常生活では聞くことが無い騒がしい音と声が響いている。

 ふっと、我に返り振り返ると、少女が部長と戦っている光景が映った。どうやら少女の攻撃の最中だったのか部長が吹き飛んでいた。


(これは現実なのか? 変な夢でも見ているんじゃないか?)


 そんな懐疑的な視線を向けていたのに気が付いたのか、少女は僕の方に駆けつける。


「どうして、まだ中にいるの?」

「ひ、開かないんです!」


 再び目一杯の力を入れるも扉は動くことを拒絶する。

 少女もまた力の限り扉も動かそうとするが進展は無い。


「魔原素が扉に付随されている……あいつを倒さないと外へは出られない」

「そ、そんなっ!」

「絶対、あたしが守るから。だから少しだけここで待っててね」

「で、でも――」

「大丈夫」


 赤子を宥めるかのような柔らかい言葉は、激しく動いていた焦りを沈静化させる。

 出られないと聞いて浮足立っていた僕に、少女はすっと僕に顔を近づけてくると唇に人差し指が優しく当たった。

 突然の行為に驚きで目を見張り、僕の心臓がドクンと跳ね上がる。


「これも――あなたの仕業ね!」


 放心状態になった僕から離れるとキッと、鋭い視線を向ける。

 その先には部長は地面に倒れていたが、ゆっくりと身体が起き上がる。


「もぅー、頑丈なんだからぁ」


 文句を言いながら頬が僅かにぷくっと膨んだ。けれども直ぐに少女は攻撃を開始する。

 握りしめたステッキを用いながら魔法のようなものを放つ。

 す、凄い……。

 目の前で行われているものが現実離れしていて言葉が出てこない。ただただ目を奪われてしまうほどの迫力は、僕の奥深くに眠っていた少年心を動かせる。


「ア、アニメや漫画の世界だ……」


 意識せずに声が漏れ出てしまった。幼い頃に憧れたファンタジーの世界が今、目の前で行われている。

 自分の置かれている状況を忘れてしまうほど見入ってしまった。


(しかも……圧倒している)


 ステッキをタクトのように振るい魔法を放つ。幻想的で煌びやかな演出に見えるけど、着実にダメージを与えていた。

 このままなら少女が勝つのは時間の問題。そう思ったので安心して戦いを見ていた時だった。


「――――」

「えっ……」


 攻撃が当たり、満身創痍の様子でよろめく部長。戦いに少しばかりの間が出来た瞬間、突如として存在を思い出したかのようにこちらを振り返り視線が交わってしまった。言葉や表情はないけど、向けられた視線は敵意むき出しとわかるほど。


「っ!? いけない、逃げて!」

「あ、っ……」


 まるで蛇に睨まれた蛙ように恐怖が襲い、足がすくんでしまう。

 力が入らず、身動きが出来なくなってしまった僕をあざ笑うかのように大きく口を開けた。

 黒い光が急速に集まり丸みを帯びていく。部長の身体が煌々と輝きだす。


「――――」


 口から放たれた光線は、一直線に僕の方へ向かってきた。


「うわぁああ!」

「危ない!」


 耳を劈く轟音と共に発射された黒い光線は、僕にどうしよう、なんて思考する時間を与えずに一直線でやって来た。咄嗟に目を瞑り、前に腕を出して身を守るポーズを取るだけで精一杯。

 終わった……。

 そう確信を抱いたとき、

 カキィイイン! と、甲高い音が発せられた。


「――――?」


 来るはずの痛みが訪れず、恐る恐る視界を開けた。


「くぅうう……」

「なっ――」


 目に入った光景に声が震えた。

 まるで盾になるように少女は僕の目の前に立ち、腕を交差しながら青い魔法陣のようなものを壁として展開して光線を防いでいた。

 だけど少女は苦悶の表情を浮かべ、じりじりと光線に押される形で後退していく。


「ど、どうして……」


 身を挺してまで僕を守っている……? 今さっき出会った人を?

 目を疑うような少女の行為に声が詰まる、と同時に、

 パキッ、ピキッ――


「そ、そんな!?」


 耳を疑いたくなるような不吉な音は、僕達を青ざめさせるには十分だった。

 魔法陣が光線に耐え切れなくなってきたのか、徐々に亀裂が入り、欠片が飛び散っていく。


「だ、だめ――」


 パリーンッ!


「きゃあああ!」

「うわぁあああ!」


 魔法陣がバラバラに砕け散り、視界が黒色に染まる。その刹那、身体が浮かび上がる感覚と体の中に稲妻が走ったように痛みが走り抜ける。

 壁に衝突し骨がずれるような激痛が背中を襲われると、ようやく床に身体の一部が接触した。


「かはっ……」


 身体中を駆け巡った鉄の味が口から噴き出してくる。

 背中に鈍痛が響く。まるでトンカチで殴られたような気分だった。肺に息を吸い込むだけでも痛みが襲ってくる。数秒の間、動くことが出来ず、蹲るだけで精一杯。

 何とか歯を食いしばって顔を上げたとき、入ってきた光景に思わず目を見張った。


「うっ……くっ……」


 少女が部長に首元を握りしめられ、そのまま軽々と持ち上げられていた。

 身体が宙に浮いていて、バタバタと足を動かしているがほんの僅か地面に届いていない。


「けほっ、けほっ……」


 乾いた咳の音が耳に残る。

 このままじゃ二人仲良くやられてしまう。


「あっ……がっ……」


 何とかしたいけど身体が言うことを聞いてくれない。

 全身に浮かぶ冷や汗、僅かでも動かすと走る激痛、止まらない吐血、次第にかすんでいく視界。

 もう限界が――


「に……にげ、て」

「え?」


 途切れそうだった意識が、絞り出された言葉によって繋ぎ止められた。


「うぅ……は、や……く」


 カランッと握りしめられていたステッキが地面に落ちた。

 限界が近いのか、腕は力が無くなりだらんと、ぶら下っている。

 それでも微かに少女の瞳孔は僕を捉えていた。


「あっ……う、ぅ……」


 少女の表情がどんどんと青ざめていく。


「は…………や、く……」

「――――」


 蚊の鳴くような細い声。どくん、と心の奥で脈打った。

「……く、が……僕がやらなきゃ! 今度は僕が助けなきゃ!」


 ギュッと強く拳を握る。

 苦しむ少女の顔が今一度視界に入る。どれほどの攻撃を受けても少女は自分の事ではなく、僕の心配をしていた。胸の熱さが、僕の身体に活力を与えてくれる。少しでも動かすと激痛が走るけど構うものか。

 助けなきゃ、僕がやらないと!


「う、うぉおおおお!」


 上げた事の無い雄たけびは、勢いをつけるためと、震えが止まらない恐怖を隠すため、そして痛みに負けていた自分を超えるため。

 歯を食いしばり、苦痛で顔を歪めるも地面を蹴り上げ駆け出した。そのままラグビー選手がタックルをするかのように、無我夢中で足元に向かって飛び込んだ。


「――――!?」


 思いのほか綺麗に決まったタックルによって、部長の体勢が崩れしりもちをついた。だが、勢い余って床と擦り合わさる。


「ぐっ!」


 壊れかけの身体は悲鳴をあげるかのように、気が狂いそうになるほどの痛みを生成させてきた。その場でうずくまり歯を食いしばりながら何とか痛みに耐えていた。

 身体の内側から色んな物が逆流する感覚が襲ってくる。駆け巡る気持ち悪さが行動しようとする僕を阻もうとしてくる。

 痛みも、気持ち悪さも、僕の身に起きている全ての感覚を押し殺して、立ち上がろうと顔がゆっくりと上がる。

 だけど、僕よりも先に部長は既に行動に移していた。

 目の前に佇む部長の姿に、戦慄が走った。


「――――」

「うわ――」


 やられる、そう思いとっさに目を閉じた。その時――、


『エトワール・アレット(止まれ)!』


 透き通った声が響き渡った。部長の拳が僕に当たる寸前で動きが止まっていた。

 振り返ると、そこにはステッキを握りしめた少女の姿があった。


「た、助かった?」

「その邪悪な心を取り除いてあげる!」


 一度ゆっくりと息を吸い込み、少女はステッキを胸に当てる。


『アニュッレット・シード!』

「――――」


 まるで太陽のような温かな光が少女の胸から灯っていた。

 光が動けなくなった部長に浴びせられると、呻き声を上げながら苦しめ始める。すると飛び出るように黒い種のような物が部長の身体から出現した。まるで引き寄せられるかのように浮遊しながら、少女の手元に収まった。


「元に戻れ」


 少女は呟くと同時に黒い種をゆっくりと握り潰した。

 光の粒子になって手の中から砂のように零れると、宙に舞いながら再び部長の身体へと戻っていった。

 先程まで蠢いていた部長が、ぱたりと倒れ動かなくなった。


「や、やったのか? ぐっ……」


 安堵したのも束の間、壁にもたれかかるように崩れ落ちる。思い出したかのように痛みが僕の全身を掛け走ってきた。


「っ! 今……治すから、少し待っててね」


 そう言い、少女は床に手を当てる僕の目の前に駆けつける。


『エトワール・トレット(治療)!』


 伸ばした両の掌を僕の身体に当てる。


「い、痛みが……」


 ひ、引いていく。

 先ほど背中の痛みが無くなった時と同じだ。

 身体の中に暖かくて優しい液体を注ぎ込まれているみたいで不思議な感覚だった。

 完全に、とはまではいかないが、自分の力で行動を出来るくらいまで痛みは引いてきた。


「あ、ありがとうございます」

「これで、だ……だいじょ、ぶ――」


 少女の身体がぐらりと傾いた。


「えっ――あっ!」


 危ないっ!

 本能的に身体が反応した。


「うわっ――」


 だけど僕の身体も限界を迎えていた。

 揺れ動く少女の身体を支えようとするも、身体に全くと言ってもいいほど力が入らず覆いかぶさるように倒れこんだ。


「――――」


 触れあった唇の柔らかさは、今までに感じた事のないものだった。

 ほのかに漂う花のような香り、密着する身体、透き通った白い肌。

 心臓がドキドキして耳に届きそうなほど鼓動が高まり、時が止まったかのように数秒間、そのままの状態で放心してしまう。

 赤い瞳が僕の姿を映し出した時、僕達の身に起きていることを悟らせる。

 故に現状を理解した瞬間、人類の最速記録が出るくらいの速度で飛びのいた。


「も、も、ももも申し訳ありません!」


 やってしまった! これは完全に警察にお世話になってもおかしくない!

 膝を付き、何度も頭を擦りつけながら床につける。それはもう摩擦で煙が出るほどの勢いだった。


「…………?」


 真っ白になっていた頭が段々と色彩を取り戻したころ、少女からの返答は未だに無かった。

 恐る恐る首だけを動かして見上げると、そこには顔を真っ赤に染め、目が泳いでいた


「えっ……あ、あっ――」


 瞳の端に涙をためながら、口元を手で隠している。

 羞恥か怒りか――どのみち何かしらの制裁を受けることには間違いないだろう。

 そう思って身構えていた、が、


「ご、ごめんなさいっ!」


 くるりと方向を変えて、少女は逃げるように駆け出した。そして勢いが落ちることなく、そのまま最初に入って来た窓から飛び降りた。


「えっ……ちょっと!」


 ここビル五階だよ!?

 慌てて後を追い、窓から身を乗り出して地面を見るも、そこに少女の姿は無かった。見渡す限り辺りには足場に使えそうなものや、着地出来る箇所は無い。


「この高さからどうやって……」


 突然の奇行に開いた口が塞がらない。

 着地したのかどうかも怪しいほど、物音がしていなかった。まさに瞬間移動でもしないと説明がつかない。

 先ほどまでの騒ぎが嘘のように辺りは静けさで包まれていた。目まぐるしく変わる展開で状況の整理が上手く出来ていない。

 それでも胸の熱さは収まらずにいた。


(結局あの人は一体……)


 誰なんだろう?

 確か……怪盗少女? と名乗っていたような……。

 朧げな記憶の中から辛うじて手がかりを引っ張り出す。


「助けてもらったことや、傷を治してくれたことのお礼もちゃんと出来なかったし、それに――」


 悶々と浮かぶ先程の出来事。思い出すだけでも顔が熱くなり、無意識に唾をごくりと飲み込んだ。

 ――って、僕は何を考えているんだ!

 首をブンブンと横に振って、よこしまな考えを消した。


「もう疲れたし、頭も回らないし……帰ろう」


 一人で何をしているんだ、僕は。

 緊張の糸が切れたのか、疲労が一気に襲い掛かって来た。

 もう早く帰って横になりたい……。


「――いてっ」


 欠伸をしながら歩き始めた矢先、何かに足先が躓き危うく転びそうになった。どうやら僕の限界も近いらしい。

 暗闇で足元も見えず、先程の出来事で疲労困憊。

 歩くのがやっとのことで、力を入れていないとフラフラしそうだ。

 やっとの思いで帰宅した時には、既に日付を超え休みの日に突入していた。


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