第80話
「ミ」コードルルーはその名、自分が名付けた翼つき大型ネコ科類似動物の名を呼ぼうとして声を詰まらせた。「ミル、キイ」
ミルキイ、と呼ばれた動物は、ルルーに『一声』かけた後また前方を向き、何食わぬ顔でまっすぐ飛び続けている。
「ミルキイ」ルルーはもう一度呼んだ。
ミルキイは前を向いたままだ。もう何も言わない。
「──」コードルルーの心身は半分固まったままだったが、その実彼は滞りなく推進し続けていた、ミルキイとともに。
しばらく進む内、ルルーはある事実に気づき、ひどく驚いたがしかしすぐにそれを理解し受け入れた。
彼は、自分が笑っていることを知ったのだ。心から。それは少なくとも、ここ地球に来て以降初めてのことだった。
──嬉しい、のか……? それとも、楽しい、のか……? いや、もしかすると何かが、可笑しい、のか……?
自らの表象について分析を試みる。が、明確にこれだという解は導き出せない。
──ああ、もう、そうだな、その全てだ。
ルルーはそう結論付け、改めて自分が微笑み続けていることを認識し、そしてもう一度、心から笑った。
「このままずっと、ともに行こうか」そんな言葉も、彼に取ってここ地球上で発することになるとはまったく予測していないものだった。「なあ、ミルキイ」それでも彼はそう言いたいと思ったのだ。心から。
ミルキイは真っ直ぐ前を見たまま飛び続けた。
◇◆◇
コードセムーはほどなくそのことに気づいた。
モサヒー、夫が、時折ふと、立ち止まりそうになることを。
いや、決して彼は、実際に空中に留まったりはしていない。
だがほんの一瞬、何か量子が伝えて来るかのように、気のせいだと決めつける選択肢は排除対象にしかならないほどの『現象』が、そこには判然と感じられた。検知された、とも言えぬレベルだ。
夫モサヒーは時折、ふと立ち止まりそうになり、しかしすぐに元通り浮揚推進を続行する。何事もなかったかのように。
──だって、私は妻だものね。
セムーはそのように考え、少しだけはにかむような気持ちを抱いた。
──そう、愛あればこその、これは繊細な感覚なのだわ。
彼女は推進しながらつい、うふふ、と笑いを洩らした。
「何が可笑しいんだよ」ボブキャットが声をかけてくる。
途端にセムーはむっつりと笑いを消した。野暮猫め。黙っていろ。
「なあ、何か見えたのか? 変なものが」ボブキャットはなおも周囲をきょろきょろ見回しながら問いかけてくる。
セムーは無視した。
「うん、そうなんですか」しかしボブキャットに続いてモサヒーも問いかけて来た。「何か、うん、見つかりましたか」
「あら、うふふ」セムーは掌を返したように、妖艶な笑みを浮かべた。「そんなに気になる? 私の見ているものが」
地球時間で数秒ほど、誰も何も言わなかった。
「うん、はい、何か見つかったのであれば、うん、知りたく思います」やがてモサヒーが回答した。
「うふふ、やっぱり?」セムーはタイムラグについて特に懸念を持たない様子だった。「でもねダーリン、私が見ているのは、あなただけよ。他に何が見つかろうと見つからなかろうと、そんなのはどうでもいいの。あなたのキュートな仕草や行動が、私を幸せにしてくれるのよ。素敵ね」
モサヒーはセムーが彼女自身の行動根拠と哲学的持論について説明する間、しっかりと聞いていた。ただしそれはセムーのではなく、レイヴンの言葉を、だ。
そして彼は、自称自分の妻であるセムーを見た。見るしかなかった。見ずにいられなかった。
双葉、という地球産動物たちによる呼び名の元となった彼女の『双葉』は、どういうわけか、またどういうしくみでか、このところずっとひょろひょろと重力に逆らい上へと伸びており、しょっ中くるくる回転していた。
モサヒーはそういうのも含めてセムーを見た。
「あら、いやだわ。そんなに見つめて」セムーが溜息混じりにそう言い、双葉が狂ったように回転する。「わかっているわ。あなたが私を愛しているってことは」
しかし残念なことに、モサヒーは愛を込めてセムーを見ていたのではなかった。
シャチからの今後の情報と指示にもよるだろうが、どのようにすれば、このギルド員に抗生物質をより効果的に投与できるだろうか、という思念の上に、彼はそうしていたのだ。




