第75話
モサヒーの細胞──真実を言えばそれは、純粋な意味での『細胞』というわけではなく、恐らくコードルルーの畏怖していた通りの、いわばモサヒー自身の『コピー』だ。
その小さな存在は、確かにコードセムーの体内に今潜り込んでいた。だが、子を成そうとして近寄ってくるセムーの細胞──こちらは正真正銘、そのDNAを後世に繋ぎ送り残していく事を至上の目的とする生殖細胞だ──を、頑として拒絶し続けていた。その態度は、見る者からするとある種冷酷とまで言えるものかも知れなかった。
事実、結婚相手が来てくれたと喜びいさんでその者と親しくなろう、きっとそうできると信じて疑わなかったであろうセムーの生殖細胞は、みるみる内に分子の結合を壊され、コドンを崩され、原形を留めぬ様となり果てたのだ。
そうしておいてモサヒーの極小コピーは、セムー本体が他のギルド員たちにコンタクトを嬉し気に取る状況をつぶさに情報として取り入れていた。
最初セムーは、まるで彼女の独壇場であるかのように大信号量で自分が『レイヴンの親友と結婚した』ことを告げた。
モサヒーの極小コピーは黙って耐えながらそれを送り、モサヒー本体も黙って耐えながらそれを受信した。
ギルド員たちは最初何も言わずにいたが──彼らも黙って耐えていたのだろうか──やがて「そいつは信用できるのか?」と問いを発した者がいた。
たちまちセムー本体内に、その信号を発して来たギルド員に関する情報が華やかなノイズとして駆け巡った。
その質問を寄越したのはコードルルー、その者の現在位置はヒマラヤ山麓だという事が判明した。
──うん、ヒマラヤ……
モサヒーは自身の持っている別の情報と照合させた。
マルティコラスはインドを東に向け移動しているという話が届いていたが、その後移動の方向は北東方面へ変わったというニュースが最近になり入ってきたのだ。
──うん、マルティの近くにいるのか。
モサヒーはそのように考えたが、無論彼にはそのコードルルーとやらがマルティの『近く』どころか『真横』にいることまでは想像もつかなかった。
さらにその後突然、
「君はぼくと付き合っているだろう!」
というけたたましくも悲壮な叫び声が大勢の者たちから一斉に挙がり、コードルルーの声は消え、そしてセムーも素知らぬ振りをしてギルド員たちとの交信を断ち切ったのだった。
◇◆◇
「人間は襲うな、か」草原を踏みしめるように進みながら、トラは呟いた。「どこかで、またどいつかが規定を破ったんだな」
「ああ」離れたところにいる別のトラが応えた。「人間はやめろと散々言われているのに、どうしてかな」
「まあそういわれても、すべての者にはなかなか浸透しないよ」さらに遠く離れた所にいる別のトラも話に加わる。「我々の生存本能による反射的な行為だからな」
「それでも、人間だけはやめとけというんだよ」最初に呟いたトラは苦虫を噛み潰したような表情になる。「我々の生存そのもののために」
「どういうことだ?」二番目のトラが訊ねる。
「人間たちの多くは、我々を単なるアクセサリーだと考えている」最初のトラは考えを述べた。
「逆に我々は人間を獲物だと考えている」三番目に話に加わったトラが、どこか諧謔めいた話として口を挟む。
「それは一部の奴だけだ」最初のトラは首を振る。「人間を食うなんてのは、本来避けるべきことなのだ」
「それを守らないと、我々の生存が危うくなるということか?」二番目のトラがまた訊ねる。
「そうだ。大多数の人間は、アクセサリーであるはずの我々が実は人間にとって害獣だったと判断するや否や、あの破裂音を発する細長い道具を使って、我々を一頭残らず殺戮しまくるだろうよ」最初のトラはそこまで言うとふいに声と気配を消し、体を沈めた。
他の二頭にも、そのトラが何かを見つけ『待ち伏せ』の姿勢に入ったことがすぐに伝わり、会話は終了した。
だが。
「あ?」
最初のトラは、突然そんな声を挙げ低くしていた体をすっくと立ち上がらせたようだった。
「なんだ」
「どうした」他の二頭は驚いて思わず声をかける。
「こいつ、は──」最初のトラは茫然とした様子でそこまで言ったが、その後「皆に報せろ! 双葉だ!」と叫んだかと思うと突然気配を消した。
「双葉?」
「おい、お前」二頭は慄然とし、最初のトラに呼びかけたが、その者からの返事はもはや永久に返って来なかった。




