第59話
キャンディは、自分の名前を憶えていなかった。
というと妙な話に聞こえるかも知れないが、キャンディというのはこの星に来てからつけられた呼称だ。愛称、だったか。
そしていつからこの星に住んでいるのかも憶えていなかった。だがこの星で生まれたのでないことだけは、憶えている。
自分はここ、地球で生まれたものではないのだ。
さらにそして、今。
キャンディは、とても懐かしい気持ちにさせる景色の中を、歩いていた。
四本の、蹄を持つ足で歩く。
周囲には柔らかい草が一面に生え、風に揺らめき、虫や小鳥たちも飛んでいる。小さな齧歯類も、ちょろちょろと走り回っている。
この景色を──正確には『これに似た景色』を、キャンディは憶えていた。
自分の本当の名前は知らないのに、その景色だけは憶えているのだ。
とはいえ、やはりここは、違う世界だ。
地球は、動きにくい。重力が、強すぎる。
この星を形成するものは、キャンディを強く、がんじがらめに縛り付けようとしてくる。
キャンディは、重くなった体を歯を食いしばって引きずらなければならなかった。
体内の水分も急激に減少するので、最初に来た時は自分が二億歳ぐらい一気に老け込んだのではないかと、本気で思ったものだった。
だがそれからすぐに、何か小さな固いものを体に撃ち込まれ、途端に痺れて動けなくなり意識も遠のき、次に目覚めた時には草も動物もいない、冷たい部屋の中に閉じ込められていた。
自分はそのまま命を奪われるのかと思ったが、ちゃんと食料──今まで食べたことのないものではあったが、不味くはなかった──も睡眠も与えられ、伸び伸びとではないが運動や、何かゲームのような遊びもさせてもらえ、今にして思えば親切な扱いを受けてはいたのだろう。
だが突然快適な暮らしは終わりを告げた。食料が出て来なくなり、閉じ込められる部屋の温度も湿度も、どんどん不快なものになっていった。
遊びも運動も始められることが減り、やがてなくなり、ただ退屈な日々がぼんやりと続くようになったのだ。
最後に、部屋の出入口から、何かカチリ、という金属的な音が聞こえてきた。
食料がもらえるのかと思い、急ぎその方へ動いたが、何も与えられることはなかった。
空腹と渇きに耐えかね、いつも開いていた出入口に体を当てると、それは無言で開いた──だが、ここから出て行け、といわれているのだと、キャンディには思えた。
外に出てみると、他にもいくつか同じ形をした出入口が通路に並んでおり、それらもすべて開け放たれていた。通路を歩きながら見てみたところ、室内に残る『動物』は一頭たりともいなかった。
──なんだ、私が最後か。
キャンディはそうと知るやいなや、走り出したのだ。
外は、快適だった。
草を食べ、泉や川で喉を潤し、とにかく走り回った。
重い体をどう動かせばよいのか、今や彼女はそのコツを掴んでいた。
地球の重力に慣れてきていた。
そして草原の中で、彼女は群れに出会った。
キャンディと同じく、四本の長い脚で歩き、駆ける。
キャンディと同じく長い首と、それを飾るたてがみを持っている。
キャンディと同じく草を食み、尻尾で虫と戯れる。
しかし自分とは違う種族であることは、すぐに判断がついた。
何故なら、彼らは──とても小さい。
近づくにつれ、ますますその事実は明るくなっていった。
群れの方も、キャンディを見て、無言であるがぎょっとしたようだった。
話しかけるべきか、どうか。キャンディは群れの面々を見下ろしつつ迷った。
彼らを見下ろすキャンディの首の長さと、彼らの体高とがほぼ同じくらいだった。
馬だ。ムスタング種。
コードセムーは、視認した。
さて、この種族は捕獲対象だったか。ふと首を傾げる。
家畜種の馬が野生化したものだから、捕獲対象リストには載っていなかったようにも思う。いや──載っていたのだったか? 捕獲対象の馬はモウコノウマだけだったか?
すぐに検索をかけることもせぬまま、いつものようにのんびりと浮揚推進しつつ、取り敢えず電子線射出の準備だけを始める。どっちにしても、さしむき捕獲しておけば何かの『足し』にはなるだろう。
見た目にも、つやつやと光輝く美しい動物といえるものだから、もしかすると結構な値で酔狂な客に売れるかも知れない。
照準を合わせる。
「あのう」
その時声がし、セムーははっと硬直した。右手の方からだ。そのまま向きを変える。
「は?」
セムーは再び硬直した。
キリンよりも巨大な馬が、そこにいた。




