7-12.見るも滑稽
優しく滝が泉に流れ込む。とくとくと上空から注ぐそれを、ネイメアは静かに見上げた。
中央にそびえる大樹。ふもとに巨大な鳥が眠っている。
鳥は瞼を開けると、その瞳にネイメアの姿を映した。
やがて、またゆっくりと眠り込んだ。
ネイメアは鳥の羽毛に寄り添う卵に、そっと触れた。
卵が声を上げる。脳髄に直接響く。
「こんにちはぁ」
殻を指の背でそっと触れる程度の力で擦った。
「くすぐったい。――どうして泣いてるの?」
殻の楕円を沿って、水滴が流れた。
女帝の私室へ通じる通路には、私室への立ち入りを許可されている特別な従者が配備されている。
薄暗い廊下。柄物の壁紙。沈み込む絨毯。天井の吊り下げ照明が、不吉な予兆を告げるようにチカと点滅した。
「来たのね」
ネイメアの前に門番が立ち塞がる。薄暗がりの中から、その姿を見せた。
顔布をつけた女。頭に被ったベールははだけており、緑がかった淡い水色の髪がなびく。
星見の賢者が、侵入者を待ち構えていた。
ネイメアは彼女の乱れた姿を見据え、
「ここは通さない、なんて言うつもりか?」
迷いのない足取りで歩み寄った。
星見が杖を握りしめる。二人の視線がぶつかる。
星見の赤い瞳がゆらいだ。爬虫類のごとく細い瞳孔が。
ネイメアは見透かすような目つきを向け、
「――だよな」
素通りした。悠然と、女帝の元へと一歩ずつ歩を進める。
間を置いて、星見が彼の背に届くように声を張り上げた。
「お久しぶりですねぇ。意外にお元気そうで何よりですわ――枢機卿猊下」
ピクとネイメアの目元が痙攣する。立ち止まった。
後ろ背にそれを察し、いい気になったのか、星見は勢いよく振り返って矢継ぎ早に言った。
「あ、違った。階級、引き下ろされるんですって?ふふ、当然ですよねぇ。これを機に自覚なさったらいいのだけど――儀式を失敗してなお、その座にとどまる恥知らずを」
ネイメアは小さくため息をついた。
星見が背中から見て分かるくらいには、肩が上下するのだった。
星見は早口になった。
「魔女派を吸収なんて。東方魔女は承知しませんわよ。聖下があなたに甘いのは、親心かしらねぇ――」
「バルバラ」
ネイメアが強い口調で彼女の名前を呼んだ。
彼女は余裕を装って笑みを浮かべるが、その頬に冷や汗が垂れる。
「【東の魔女バルバラ】。お前の処遇は後回しだ。ラギネイアスを連れ出し、計画を狂わせた」
名前を呼ぶのに魔力をこめた。
その行為は、魔術口上的な意味を持たないが、威嚇の意を含んでいることは明らかであった。
「……ワタシにもね、考えがあるのよ」
「お前がオレを疎んでいることは知っている。そういう奴は少なくない。それでも、目的のためなら手を組む――そんな分別を、お前にも期待していた」
ネイメアが「だから、お前はクオリア以下だな」と軽口を叩く。
バルバラはガチ、と奥歯を噛み、無理やりその口角を吊り上げた。
「ワタシはあの無能な女とは違うわよ。この''東の魔女''が、いつまでもあなたの指図に曖昧に頷くとは思わないことね」
女帝の私室を閉ざす重々しい木造りの扉。その前でネイメアは立ち止まる。
「そこは行き止まりですよ、猊下」
バルバラは扉の方へ杖を突きつけ、微笑んだ。
「あなたはその扉を潜れない。そしてこう言うの――『頼む、バルバラ、女帝を殺してくれ』。ふふふ、ありえないって思う?」
「ありえないな」
「偉そうなあなたに、教えてあげる。その門に刻まれた結界――何を通すか。女帝が、何を受け容れるのかを」
門を俯瞰した。縁をかたどる、極小の文字。杖で指し示す。
「たった一人、女だけを通す。わかる?あなたは条件を満たしていない」
女帝が受け容れるのは、一人だけ――それも女だけ。実の息子だろうと関係ない。
彼女が容れるのは、世話係の侍女に、星見の賢者、第一皇女ラディシャくらいのもの。
「だから――」
「知れたことだ」
ネイメアは両扉のノブを傾け、体重を乗せた。ゆっくり、ギィと古びた音が沈黙を切り裂き、扉が呆気なく開く。
「え……」
バルバラの絶句を置き去りに、一歩足を踏み出す。
黒い闇が埋め尽くすその場所へと入り込んだ。
「――失せろバルバラ。ここから先はオレの領域。オレはいつでも、やるべきことを、やるだけだ」
金色の瞳が闇に浮かび、そして溶けていった。
残された魔女は開いたままの扉の縁、そこに刻まれた魔術文字を見つめた。
その魔術式には、なんら綻びはない。
やがて、くつくつと嗤い出す。
「ふ……ふ、ふ……通るのね?ああなんてこと、あなたは。私たちよりよっぽど、魔女的だわ――」
*
その女は歌を歌う。
「らら、ら……」
鼻歌を歌いながら、ゆったりくるくると回る。部屋中踊り歩いて、ステップを踏む。相手もなしに、一人で。
「くらい は こわい……」
部屋中の夥しい数のランプを避けて、蹴って、踊って。
女はベッドに腰掛けた。
上気した自身の頬を指先でなぞる。
ベッドに横たわるそれに慈しむような目をやる。
「おかあさま、わたしの手をにぎって」
白骨が横たわっていた。
女は、物言わぬ白骨の右手にそっと手を添える。
さの発音が拙く、たにも聞こえる。舌足らずの、幼い喋り方だった。
女は脆い骨の指を動かす。自身の手に重ねさせた。
握り合う形になったのを見て、満足げに――瞬間、ボロ、と指の節がシーツの上に落ちた。
途端に、女は涙する。
ボロボロと、大粒の涙を流しながら、笑っていた。
女は、古い、古い詩を口ずさんだ。
――見るも滑稽、骨と皮
こけた頬には粥のかす
(口に押し込められたの?)
女は自身の合いの手に、機嫌良く立ち上がった。
白骨の手を、無造作に放り出して。バラバラとシーツの上に散らばるのも、いとわずに。
詩を想起しながら、ステップを踏む。
――洗っていない頭皮の臭い
落ち窪み、黒緑の隈化粧
せわしない焦点をぎりと固定したら
母は言った
『――王になれ!!』
(いつからかしら――)
女はベッドの上の髑髏を見つめた。ぽっかりと、二つの黒い穴が空いていた。
なぜだろう。その白骨死体が、ティアラを被った自身の姿に重なって見える。
(それが自分だと気づいたのは……)
その呪詛を、彼女は大事に腹の底に抱えて、生きてきた。
ひたひたと裸足で歩く。
「私はね、怖がりなの」
――いまだ亡霊との約束を守ってる
(わたしはよいこね)
今際の園の 夢のなか
その女は歌を歌う。
「らら……」
鼻歌を歌い、お気に入りの、木組みのドレッサーの前に座る。
鏡には自身の姿が映っている。
ボサボサのくすんだ金髪、かつての艶はもうない。
濃い隈のある目元。あの青空のような碧眼は、いまや濁った汚い水のよう。
肌を指でなぞる。ざらざらとした感触。
だけど、幼い、一番幸せだった、ありし日の姿を保っている。
「会いたいわ」
その時だ。
頬を包まれた。何者かが、女の背後から手を回し、彼女の頬をそっと優しく撫でる。
次の瞬間、クイと顎をあげられ、燃えるような痛みが首筋に走った。
女はそのまま上を見上げる。後頭部がその何者かの胸にうずまる。
「お前に恨みはないよ……」
少しだけ、女は目を見開いた。
金色の瞳が、薄い水の膜を張ったそれが、まるで月のようだ。
「おやすみ」
痛みは一瞬だった。
溢れ出した生温かい液体に、ふと安堵を覚えた。
やっとこの血を、この体から逃すことができる。
喉から何かが迫り上がる。
「あなた……やっと……」
命より大事だったはずの血を吐き出しながら、そう呟いた。
――それで彼女は死を受け入れた。
人生で一番静かな眠りが、何より求めた喑寧が。
始まって、そして終わった。
*
きらびやかな部屋に似つかわしくない、湿り気のある腐った木のドレッサー。その前で、女帝が死に絶えている。
血が机からこぼれ落ちて、床にしみをつくった。
暗闇が怖いのだろう、室内にはいくつもの照明がほのあかりを放っていて。赤い水滴の形までもがよく見えた。
ネイメアは女帝の被っていたティアラを手に取った。彼女の頭から、掬い上げる。
帝国のレガリア――帝冠。
歴代の王たちがその重みに耐え、絶えず頭上に輝いてきたそれ。
丸ごと溶かされ、小さなティアラと成り果てていた。
「結局か。結局冠にしたのか」
そのことが、どうしようもなく滑稽で、皮肉に思えた。
「皇帝なんかに……なりたかったわけじゃなかっただろうに」
掲げた帝冠が、小さく震えた。
なぜ、帝冠を溶かしたのか。
千年王国の歴史を愚弄したかったのか。
なら、なぜティアラにしたのか。
自ら、慣例と形式にならったのか。
いくら考えても分からない。
もう本人はいないのだから。
ネイメアは物言わぬ尸となった女帝を見下ろした。ドレッサーの机に突っ伏す形で、息絶えているのを。
ずきり、と頭痛がする。
「すぐ、出なきゃ……」
クスクス、と笑い声が聞こえた。
ドレッサーの鏡の中で、自分が笑っている。
「やったね、ネイメア」
目が白黒に点滅した。自分の顔をした悪魔が動いている。
「ラッドラット……」
ネイメアには現れた悪魔を、睨みつける気力すら残っていなかった。
「なんて顔してるの?私みたいに笑いなよ。やっと、やるべきことをやったんだろ?」
ニィ、と鏡の中の自分が指で口角を引き上げる。
「ああ、でも、かわいそうなネイメア。地獄はまだ、始まったばかりだね」
ネイメアは鏡を拳で叩き壊した。
バキ、と乾いた音を立てて、ひびが入った。
割れた鏡を見上げて、戦慄した。
――破片のひとつひとつに、自分が映っている。そのどれもがそれぞれ、違う表情を浮かべて、こちらを見ていた。
彼はたまらず、片手で顔を抑えた。手のひらで顔を覆う。
指の隙間から見える、一人一人が口々に捲し立ててくる。
「あなたはこの都を壊した」「一体何人が死ぬだろうね?」「死ぬより辛いことが起こるよ」「ねえ……」「それでも、あなたは、やるべきことをやったなんて、言い訳できるんだろうね」「感嘆に値するよ」「軽蔑に値する」「恥知らずな女だ」「見るがいい」
「見るがいい、あなたの作った地獄を」
外の、光景が。破片一つひとつに映し出された。
――すべての水の流れが止まった。
下から上へと、城へ運ばれる水の流れが、ぴたりと。
水路という水路に、亀裂が走る。
次の瞬間には、水の流れが逆流した。
湖の水が滝をつたい落ち、麓へと流れ込む。本来の重力を思い出したかのように、地面へと叩きつけられる。咆哮にも似た飛沫が上がった。
異変に気づいた街の人々が城の方を見上げる。
宮殿から伸びる清冽な川だったそれが、血のような赤色に染まっていく。悲鳴が起こった。
それは、赤黒い水流となり、帝都を縦断する大運河へと流れ込む。
氾濫し、溢れ出る水が、周辺の区画になだれこんだ。
白亜の都が濁流に呑み込まれる。
――女帝の魔法が、解けた。
同刻、西の区画に閉じ込められた死霊たちは囁き合っていた。
外では、バーバリックが睨みを効かせている。徐々に、着実に奪還区域を増やす彼に追い詰められた。
彼らは、邸宅のひとつに閉じこもっている。いみじくも帝王の邸宅に。
「なんでこんなことに」
ガチガチと手足が震えた。明け方直前の、一日で最も冷え込む時間帯だった。
「裏会のやつら、被害者を装って逃げ延びた」
「俺たちの名前を使っていたのはそのためだったのか」
裏会の青年たちは頃合いを見て貴族の邸宅に潜り込んだようだった。そこで変装を解き、被害者の貴族を装った。まんまと保護されることに成功した。
「初めから利用するつもりだった」
「薄々分かっていた……が……」
おもむろに、剣を掲げた。
「いたぶられた挙句死ぬくらいなら、ここで」
剣先を握りしめる。自身の血が剣身をつたうと、それは黒い色に変わった。
「こんなことのために……」
黒剣を見て、苦しげに息を漏らした……
互いに剣先を向ける。でなければ、自身の首元に刃を当てた。
「せめて、坩堝の王に……会いたかっ――」
自決すべく、手に力を込めた瞬間、
帝都は崩落した。




