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アンダートゥ  作者: ただの
第六話 何も知らないで
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6-10.「何も知らないで」


「――あの毒婦について帝都へ行くというのか……!?なぜ止めない!?」


 とがめようとして、私は叫ぶ。


「兄さん、だけど……」

「再三止めた。聴く耳持たぬ、愚か者どもめ!!」


 目の前の老人が机上の物を雪崩落とした。怒りのあまり涙を流す姿に、私は思わず怯んだ。


「我が子ながら憎い、なぜこうも儂の子は道理も理解できぬ馬鹿ばかり……!?」

「お父さん、ひどいわ……!兄さんは……」

「黙れインシオン!」


 怒号に空気が震える。

 インシオンは悔しそうに顔を歪め、その場を去った。


 老人――父の手もまた震えていた。

 昔よりしわがれたそれに、老いを感じた。椅子に座り込み、


「なにが守護獣だ……なにが英雄だ……」


 ぶつぶつと呟く父の背に、触れようと手を伸ばす。


「父上、私が……必ず私が竜族の悲願を達してみせます」

「エコード……」



 父は私の手を弾き飛ばした。


 指を突き刺して罵る。


「無能がはしゃぐな!自分の時代が来たとでも思うておるのか!?……貴様だ!貴様さえ……!」


 続く言葉を飲み込み、「使い物にもならぬ……!」そう吐き捨てた。



 私はその先の言葉を知っていた。


『貴様さえ無能でなければ、あの男を選ばなかったのに』……私は父の期待に応えられなかった。


 父が跡取りに選んだのは、英雄になった男だった。父の面子を潰して去った。


 選ばれない長男。私はこの家でひどく惨めな存在だった。



「――あなた、せめて胸を張ってくださる。私は陰気な人を夫にしたつもりはないわ」

「ヒルシュマ……」


 家を出ることを勧めたのは妻だった。

 彼女は私にはもったいない女性だ。自警団の長の娘に生まれた、里一番の美貌と高潔を兼ね備えた人。


「自信を持ってください。あなたはそうすべきよ」


 私は自警団の新たな長に選ばれたが、それは彼女の力も同然だ。


 こんな力無い私を、彼女はよく支えてくれる。決して耳障りのいい慰めの言葉を施したりせず、ただ背を叩いてくれるのだ。


(彼女を……私の家族を守らなければ)



 彼女との間にできた内気な一人息子。ひどく普遍的に見えた。

 取り立てて長所はなく、人を惹きつけ上に立つような気質でもない。


 私に似てしまったかもしれない。


 厳しく育てなければ。

 人より劣るなら、人より努力せねばならない。



 だというのに。


「あなた、あの子が帝都へ行ってしまった。早く追って、連れ戻して」

「ヒルシュマ……たった一人のために組織を動かすことは……」


 言いつけを守らず、英雄を追って帝都へ行った。裏切られた気分だった。


(そんなに奴がいいのか)



 実孫が掟を破った。

 そのことを知るのは限られた上層部のみだったが、面子を汚された父は怒り狂った。


「貴様が罰を被るがよい」


 親の私が責任を取った。妻を庇って、三人分の罰を。

 上層部に過剰な労働奉仕を誓う契約……表向きの話だ。


「――ご令孫のことはお任せを。族長殿」


 現れたシルクハットを被った男。三角柄のマントを羽織っていた。


「初めまして。私は貴殿らが邪教と呼ぶところの者。族長殿には大祭司と呼ばれているが、階級名でね。私のことはこう呼ぶといい――三角卿と」


 上層部に深く食い込みつつあった邪教の男。

 静かで抑揚のない声色。無機質な金色の瞳。まるで人間とは思えない、そんな違和感を本能に突きつける。


 私は実のところ、この一件を隠れ蓑に父に差し出され、邪教()と契約を結んだのだ。




「――兄さん、帝都の同胞は全滅したわ。裏切られたのよ」


 インシオンが泣きじゃくった。

 帝都に渡った彼らは覚えのない罪を問われ、女帝に処されたらしい。


「英雄が、賢者を殺したと……嘘をついて……!」


 死んだ。英雄が一転、卑怯な恩知らずと成り下がって。


 だから言ったではないか。なぜだか、



「兄さん。なぜ笑ってるの」



 やっと報われた気がする。





「あなた……クロエドは……」



 帝都に行った息子は行方不明のままだ。

 本当はそのことを一番最初に案じなくてはいけないのに。私はつくづく愚か者だ。



「ご老公、安心するといい。ご令孫は扉の魔女が安全な場所――楽園へ逃したから」


 三角卿が言った。

 父は楽園との言葉に、たいそう舞い上がった。

 そこは要人しか立ち入れない邪教の重要な施設だという。息子がそこに潜り込んだことは今後の動向に関わる大きな布石となる。


「族長!確かめる術もないのに、信じるのですか」

「契約によって安全は確か。余計な口出しをするな」


 到底信用ならないが、逆らうことなどできようもない。表面的にでも彼らに従い、いつか必ず真実を突き止めなければ。



 一方のヒルシュマは息子を失い、ひどく体調を崩した。

 子どもを見るたび、扉を見るたびにどこか身構える様子だった。


 特に、その頃入れ替わるようにしてやってきた人間の子ども。

 ヒルシュマはよく遠目に彼を見つめては、息子のことを思い返すのか隠れて泣く始末だ。



 私はようやく家を出る決心がついた。

 ヒルシュマの肩を支え、実家から去る。


 振り向き際、父が人間の頭を撫でるのが目に入った。見たこともない笑顔を浮かべていた。



 私は彼女が隠れて泣くことに気がついていたが、それを慰めることはしなかった。

 そうすればよかったと悔いている。

 もしその勇気があったら、あんなことにはならなかったかもしれない。



「――ひ、ひ……ヒルシュマ様ァ!あなたのためにやったのに!!どうして!!」


 処刑台の前、小男がそう叫んで絶命した。


 後から聞いたことだ。

 義父がヒルシュマの願いを汲んで、楽園の場所を突き止め、同胞を差し向けて息子を連れ戻そうとした。


 楽園で手酷い歓迎を受け、たった一人生き残った追手――その醜い男。


 土竜(モグラ)と呼ばれる賎民だ。

 地下労働に従事し、陽光を浴びることができないために骨が歪む。


 彼のことは昔、見かけたことがあった。

 村で一番の美人だと噂された妻のことを遠くから眺めているのを。


 彼は命からがらここまで逃げ帰った。何の工夫もせず。

 この隠れ里の存在を帝国に知られてしまう危険があった。


「楽園が帝国に知られたら、どう責任をとるというのだ!!貴様如き卑しい命で償えるものではないぞ!!」


 何より、楽園の安全が危うくなったことに父は激怒した。


 生き残りの証言によって、ヒルシュマとその父――義父が主犯として挙げられ、彼らは引っ立てられた。


 三角卿が二人を追及する。


「その男は楽園の住人を殺したよ。密約をかわし、表沙汰になる前に揉み消した。私が多大な犠牲を払ってね。どう責任を……」

「族長、貴様はこの男に騙――」

「全く、話にならないね」


 義父はその場で目を見開いたまま倒れ込んだ。即死だった。


 敬虔な信徒である義父は、父を毛嫌いしていた。自分が族長になるべきだったとこぼしたのを聞いたことがある。彼の動機は想像に難くない。



 だけどヒルシュマ、なぜ。


 なぜ何も言ってくれなかったのか。



「エコード殿、本当に何も知らなかったのかな?」



 私は何も知らなかった。



「――その人は何も知りません。あなた方の所有物に計画を漏らすなど迂闊なことはしますまい」


 妻が言った。

 なんてことはない。彼女は私に見切りをつけていただけだ。

 邪教と族長への服従。それは表面的なものに過ぎないと自分に言い聞かせてきた。契約上、私は不信を口にすることが許されないのだから。


 口にしなくとも、彼女なら分かってくれるはずだと信じていた。


 勝手な話だ。

 彼女からすれば私は頼りない腰抜けだ。


「申し訳ありません。家族の罪は私が償う。どうか妻の命だけは……!」


 必死の懇願もむべなかった。


 むべなくしたのは他でもない妻だ。


「――後悔しません。私はすべきことをしました。お義父様、あなたの悲願のなんとくだらぬこと。あなたに同情します。原風景などと妄想に囚われて、どこへとも行けぬ……おかわいそう」


 彼女は前に出て、凛と言い放った。


 父の額に血管が浮かび上がった。原風景に固執する父にとって、許されない発言だった。


 連れて行かれる時、妻は一度振り向いて私を見やり、意味ありげに瞼を閉じた。


 最後まで彼女は高潔だった。



 ヒルシュマ……


 最後くらいみっともなく泣き叫んではくれないか。


 そうしたら攫って飛んでいける。

 飛んだ先で射ちおとされたって構わない。


 構わなかったのに……




 その後、諦め悪く何度かの懇願を重ねたおかげか、彼女は戻ってきた。 


 変わり果てた姿となって、だったが。


「料理は苦手だ。口に合うといいが……」


 ベッドの白いシーツはすぐに汚れた。ぼたぼたと口の端から溢れるスープで。垂れ流しの……。


 彼女が反応するのは最低限の生命活動につながることだけだった。

 いや、ひとつだけ……クッキー缶にだけは特殊な反応を見せた。缶を抱えてじっと見つめているのだった。


「……あの子のことを思い出しているのか?」


 幼い頃の息子に、ご褒美と称して与えていたものだった。




 息子が帰郷した。

 何を感じたらいいのかわからなかった。


 一生戻ってこなければ良かったのに。


「お前があの魔女の誘いに乗って勝手に外界に行って、連れ戻すために何人が犠牲になったのか分かるか!!?」

「そうだな。まさか貴重な同胞を五人も失うなんて!しかも結局任務失敗なんてとんだ無駄死にだよな?五人も捧げてくれるほど俺を愛していたとはね!驚きだよ」


 真実を口にすることはできなかった。

 幸い息子は私が全てを仕組んだと思い込んでいた。


 訂正はしなかった。


「黙れ!!お前のためではない、ヒルシュマのためだ!」

「その母さまはずっと死にたがっているみたいだけど?頭の方がダメになってんのに無理に生かして、拷問癖治ってないんだ?」


 する必要がなかった。


 何にせよ、言いたいことはこれだけだ。



 こうなったのはすべてお前のせいだ。




 それでも息子は真実を知りたがった。

 遺跡に潜り込んでまで父を、竜族の秘密を探ろうとした。

 その影にしのぶ邪教に迫る行為だ。


 息子が遺跡の遺物を破壊する時、三角卿が嗤ったのに気がついた。

 義父と同じように、息子を始末しようとしているのだと直感した。

 反射的に息子に飛びかかって阻止した。



 息子は族長の手によって幽閉された。

 好都合だと思った。閉じ込めてでも大人しくさせなければいけないと悟ったから。


 知りすぎてしまえば、私と同じように首輪をつけられる。今度は本当に、ここから逃げられなくなる。



 しかし、あの人間の子どもに聖痕が発現したことで状況が変わった。


 父と三角卿の会話を盗み聞く。


「聖痕……?帝国の賢者が預言した救世主だと?こんな偶然あるかな……?私の立場的にここで始末するしかないと分かるね、族長殿」

「わしの孫だぞ、わしの家族に手を出さないことが契約の条件だったはずだ、大祭司……!!」


 乾いた笑いが漏れた。


 あの人間の子どもを家族と抜かすか。


 私は家族ではなかった。きっと、ずっと前から。


「……でもねぇ、我々が血眼になって探した存在だって分かっているだろう?」

「利用すればいい、簡単な話だ。この子は、死んでも我々の味方だ」



 父は何を考えているのだろう。

 あの不吉な子どもは一体どこからやってきたのか。


 あれが村で差別されていることを知っているのか。

 石を投げつけられても眉ひとつ動かさない。まるで、人の皮をかぶった精巧な人形のような……



 そんな、不気味な救世主の目付役に息子が選ばれてしまった。

 族長の実孫に邪教は手を出せないと考えてのことだろうが、契約に穴などいくらでもある。


 幽閉を解かれ、ここを出て行く。

 おそらく二度と息子と会うことはないだろう。なぜだかそう直感した。


「どうして……あんな……?おじさんは裏切ってなんかいない、絶対に……」


 息子の鎖を解こうと鍵に手をかける。

 帝都での忌まわしい記憶に苛まされる彼を見て、最後に親らしいことをしてみたくなった。


「英雄は裏切り者ではない……」


 女帝――嘘偽りを並べたて、汚名を着せて英雄を処刑した。

 せめて、慕っていた英雄が裏切り者ではないことだけは教えてやりたいと思った。


 だが、話はそれで終わりだ。


「二度とここへ戻ってくるな。何も探るな。お前だけは何も知らず、何にも縛られず……」



 私の代わりに。



 現れた父が、私を押し除けた。


「同胞はまだ生きている。あの魔女が竜の血をみすみす取り逃がすはずがない」

「何を……」

「いつまでも若い姿を保ち、国の中枢に巣食う。不老の化け物ども……女帝こそその筆頭。奴こそが本物の魔女、邪教のそれなど比べものにならぬ」

「おや、魔女などと。まるで帝国と邪教に関係があるかのようないい草だ」

「違うのか?舐めるなよ若造。あの多産(畜生腹)、楽園が生んだ魔術を濫用したものと推察する。関係など知れたもの」


 途端、三角卿の表情に翳が差した。

 怒りを押し込めてなお、たまらず漏れ出た呟き。


「だから……それは……盗まれた……」


 人形のように無機質な男の、人間らしい一面を初めて垣間見た気がした。


「責めまい。敵の敵と手を結ぶは儂も同じ、もはや手段を選んではおれぬ。すべてはあの神騙(かみがた)りを殺すため」


 父は息子に歩み寄り、首輪に繋がった鎖に手をかけた。


「クロエド……!!討つべきものを見誤るな。憎き邪神、奴のせいで……我々は世界から阻まれた……!」


 父が鎖を強引に外し、息子は自由になった。



「原風景を、我々の大地を取り戻すのだ……奴を殺せ!!それが我が一族の悲願」


 私はようやく父の本音を聴いた。彼の願い、それは……


「神の宿った器ごと神を消し炭にするのだ――渦神の名にかけて!!」



 自由。私と同じだ。



 息子はよろめきながら村へと戻っていった。


 二人きりになって私は父を問い詰めた。


「ご存じの通り、息子の潜伏先の情報は偽りでした。楽園とは何なのでしょうか」

「ふ……ふは、は。そうじゃな。愚かなればこそ知った方がよい。

 楽園は、言うなれば魂の魔法の研究機関だ。骸と魂。肉体に閉じ込められた魂の行き場……」


 どこかで聞いた話だ。

 幼い頃村の年長者が、大婆様が子どもたちに言い聞かせていたこと。


「貴様は試され、選択肢を与えられた。愛する者の魂を牢獄に閉じ込めておくか、否か。あれは腐っても渦神の信徒。二度と竜に生まれぬようにと願いをかけて、神に還す。それが貴様にできた唯一のこと」


 父が冷たく言い放つ。


「だができぬ、それが貴様の限界だ」


 それは妻を殺しておくべきだった、という意味だ。彼女をああしておいて、よく言えたものだ。


「妻に……何をしたのですか?私は何人もの人間を拷問したが、誰もああはならなかった。正気を失うこと、廃人になること、彼女はどれも違う。挙動全てが反射だ。もし、魂というものがあるとして……まるで……」

「器だけになったようじゃの?肉そのものが元々持つ生命活動の機能しか持たぬ」


 私は恐ろしくなった。


 本当に魂というものがあるのか。

 あるのなら、彼女の魂はどこへいってしまったというのか。


「それがわかれば決心がつくか?実のところ、儂はどちらでもよい。魂の行き先を調べるにとどめるもよし。肉の行末を見張るもまたよし」

「あのままにしておけば……どうなるというのですか?」



「――魔物の作り方を知ることになろうて」



 私はずっと迷っている。


 彼女の首に手を触れる。

 脈の振動に、肌の暖かさに思わず指を震わせた。

 それを何度も繰り返した。


 理屈では分かっていた。

 死んだものと認めて、葬ってやればよいこと。いつまでも引き止めていないで……彼女はそれを望むだろう。



 でも、できない。



 家に帰った。

 家の中は暖めてある。

 じとりと額に浮かぶ汗を拭う前に、気づいた。


「……ヒルシュマ」


 彼女はその生命活動を終えていた。

 顔のそばに枕があった。几帳面な彼女の縫ったもの。一針ずつ等間隔のそれは、彼女がずいぶん時間をかけて作って私にくれたものだ。


 それで窒息したものと考えられた。


 私の不注意だった。

 こうなることは予測できたはずなのに。


 彼女の首に触れる。まだわずかに温かい。


 自責の念が襲いくる。

 けれど、その影には確かにこの感情が根を張っていた。


「……よかった……」


 ――安堵。もう介護しなくていい。

 いつか元に戻るのではないかと希望に縋って、世話をしなくていい。


 何より、やっと彼女は解放された。今度は人間に生まれ変われる。


 これでよかった。

 私のエゴのために生きながらえさせたことを申し訳なく思う。


「私にはもう何もないのか……」


 あるのは虚しさばかり。

 食卓で一人冷たいスープを口に運んだ。もう温めなくていい。





 村が襲われても、胸の底に巣食う虚しさは変わらなかった。


 帝国騎士団が村に現れ、皆殺しを宣言した時も。

 自警団を率いて矢面に立った時も。

 皇女の守護獣が躊躇なく同胞を殺すのを目にした時ですらそうだ。


「よくやったぞ、トカゲ!」


 心は平坦で静かなまま。


 白竜に蹂躙され、私は負傷した体を引きずって遺跡に身を隠した。


「派手にやられたね、エコード殿」

「三角卿……逃げたのではなかったのか」

「しんがりを務めて頂き感謝するよ」

「貴様が契約の元そう命じたろうが……失せろ、私はここで死ぬ。満足だろう」


 死ぬまでここを守れと命令したのは他でもない彼だった。命令などされるまでもなく、そうするつもりだ。


「驚いたな。貴殿は父君とは違うね。あの方はここで死ぬのだけは嫌だと言って、とっくに逃げてしまったよ?」

「私は父とは違う。あの妄執、全く理解できない。原風景など……私は感じたことはない。妻が眠るこの地だけが、私の帰る場所だ」


 三角卿はそうか、としみじみ呟いた。


「なぜここへきた?私を嗤いにきたか」

「そんな非生産的なこと。そうだな……私にとってもこの状況は少々意外でね。皇女の進軍がここまで速いとは想定していなかった。竜だって生かしておくと思ったのに。とにかくそのせいで逃げ遅れて、ここに来たというわけだ」

「お父様。準備ができたわ」


 岩陰から少女が言った。

 深緑色の長髪が風に揺れていた。少女が開いた檻の扉の向こうから、風が吹いているのだった。草木の香りがする。


「ゾフィー。ありがとう。見ての通り、扉の魔女の魔法だよ。彼女は別に好かないが、彼女の魔法はいいね」

「扉の魔女は貴様を裏切ったのではなかったのか……?」

「……いや?裏切る理由なんてないじゃないか」


 扉の魔女は息子を楽園へ逃した。

 そう偽っていたことは、息子が帰郷したことで発覚したはずだ。


 それも偽り?


「それもこれも枢機卿猊下が急ぎすぎるからだね。全く、リークは時期尚早だと諫めたのだがね」


 一拍の間。私はその吐き気を催すような事実を悟った。


「……ふ、ふざけるな……それは貴様らがこの村の場所を帝国に漏らしたと、そういう意味か……!?」

「野暮だね。父君に似て」

「――お父様。ほどほどにしてね」


 少女はひらと手を振って扉をくぐった。


「さて、エコード殿。死期を早めてしまって悪いと思っている。せめて最後に願いでも聞こう。

 ここだけの話、猊下は救世主の彼を殺すつもりだよ。その時、ご令息をどうするかは、決めかねている」

「私に……何を言わせたいのだ?」

「なに、たった一言さ。その時には私が彼を預かろう。全てうまくいく。最後に笑うのは私、だからね」

「それは……私の承諾がいるのか?」

「当然さ。子は親の持ち物なのだから」


 その言葉に、形容しがたい怒りが湧いた。


「――ふざけるな。私の願いはただひとつ。こんなくだらない小競り合いなど、種族だ宗教だ魔法だのと、そんなどうしようもないことに囚われず……!」

「手の届く範囲の幸福を守っていけと?貴殿のように。無茶を言うな。そんな子ではなかろうに」

「違う!私のようになるなと……」


 言い淀んで、唇を噛み締めた。

 頭で考える前に出た自分の本音。この時ようやく気がついた。


「……なぜ息子が欲しい……?」

「猊下と賭けてたんだ。貴殿が令夫人の抜け殻を葬るかどうか。私はしないと思った。しかし、実際には……子が親の代わりに成し遂げた。だから、君がしたも同然だ。私は賭けに負けた」

「……!」

「と、知らなかったろうね、息子が母親を――」


 私は高笑いしてみせた。


「――だから、なんだというのだ?」


 虚勢ではない。心の底から笑ってみせた。


「あれは全部断ち切って外へ出た!何も縛るものはない、それを!――貴様らのくびきで繋いでたまるか!!」


 三角卿は一言「残念だ」と呟いて、扉の奥へ消えていった。



「ははは……」



 息子は私にできないことをした。



 私に似てなどない。




 そうだ。彼女の子だ。




 近く、皇女が竜の背から降り立つ足音が響いた。鎖の擦れる音がした。

 皇女は白竜の頭を撫で、叩いて行かせた。


 死神が近づいてくる。



 やっと分かった。



「クロエド……すまなかった」



 一度でいいから、頭を撫でてやればよかった。



「お前だけは……自由に……」











 アルバは、瞼を開いた。


 目の前の黒竜から、何か力が抜けていくような、そんな感覚がした。


「叔父さん……」


 アルバは何の悲しみにか歪む口元に、ぐっと力を入れる。


 もうここには何もない。引き継いだものを連れて立ち上がる。


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