6-8.何もかもが過ぎた後で
アルバは後悔していた。
自身の、挑発的にも取られかねない発言を。家に転がり込んでいる分際で家主に言うことではなかった、と反省した。
ハッケーが帰ってきたらなんて取り繕おうか。家の入り口前で悩んでいると、
「今日は兄ちゃん、帰ってこないよ」
弟の言葉に胸を撫で下ろした。
「仕事なの?」
「任務で帝都を離れていたから、その分仕事があるんだって」
食事の用意をしていた弟が、よそえと言わんばかりにレードルを差し出してくる。
「帝王様って人のもとで働いてる?」
「……それ、皇配殿下のこと?」
「おうはい?」
「女帝陛下と結婚した人のことだよ」
「……え?じゃあバーバリックってホントに王子様なの!?」
驚いたはずみでレードルからスープが飛び跳ねる。
弟が訝しげにアルバを見上げた。
「……アルバのにいちゃん、そんなことも知らないの?」
「知らなかった……まさか、あれで?守護獣だってのもホラだと思ってたのに……」
「――あんまりバーバリック様のこと悪く言わないで」
妹が散ったスープを拭き取る。アルバは初めて彼女がまともに喋ったと驚いた。
「バーバリック様は奴隷になるはずだった私たちを助けてくれたの。お兄ちゃんと一緒に住めるのも、綺麗な学舎に通えるのも、全部……」
彼女の話から想像できるバーバリックの人物像は、アルバの知るものとかけ離れていた。
まるで聖人君子だ。
獣人のハッケーを守護獣として特別に取り立て、その家族の暮らしにも便宜を図る。
彼らが孤児院にいたのは、そこの学舎に通うためだったらしい。獣族が隔離されているこの区画にも学舎はあるが、それよりずっと高等な教育を受けられるそうだ。
「たまにお菓子をくれて、頭を撫でてくれるの」
頬を赤らめる彼女は、まるで恋する乙女のようだ。アルバは彼女は何か人違いでもしているんじゃないか、と思った。
その夜、横になっても眠れないでいるアルバの服の裾を弟が掴んできた。
「おれはあいつ嫌いなんだ。にいちゃんはいつも感謝しろって言うけど……絶対にしない」
「なんで?」
「あいつ、たまにおやつくれる。犬とか猫みたいに」
上手く言えない、と彼は付け足した。
アルバはその感覚を知っている気がした。
自分のことを生物として下等だと信じて疑わない者に、見据えられた時の感覚。
ぽつりと呟く。
「人間じゃないって……そんなに悪いのかな……」
「獣族はこれでもましなほうなんだ……頑張ったら学舎に通える。仕事をもらえる。名誉市民に、騎士になれる……」
「そう習ったの?」
「そうだよ」
ぎゅっと握る手の熱が、アルバの背に伝わる。
「なんで?おれのどこが違う?おれたち獣族の方が強いのに。力も魔法も優れてるのに。数が多いだけのお前らに、なんで服従しなきゃならないんだ」
アルバは夢現、昔のことを思い出した。
洞穴の薄暗がりの中で、ガラガラと車輪が回る。濃紺の魔石を乗せた一輪車が脇をゆく。
『早く帰りたい。俺たちの地に……』
おしゃべりな同僚のいつもの独り言。
『広い空を飛びたい。こんな狭いところはうんざりだ。人間が奪った、俺たちの大地……取り返さなくては。……本当に、こんなことをしていて取り返せるのか?族長……あのおいぼれめ……』
別の同僚が、ハンマーを振り下ろしながら言う。
『――大昔、竜は外界に住んでいた。そこはここよりずっといいところだ。特に海がいい。水がずっとふんだんで……たまにそんな記憶に呼ばれて、どうにもやりきれない感覚に襲われることがある』
『記憶……?』
『きっと先祖の無念だろうな。あいつはそれが強いんだ。坊主はああなるなよ。失ったものを懐かしむのはいい、でも焦がれるな。飲み込まれるぞ』
『……難しくて分からないよ』
『それでいいさ。昔が襲ってきた時はこう唱えるんだ。''何も知らない、何も分からない''。そうすれば、いずれ忘れる――』
――ガラガラと車輪が鳴っていた。
その日は太陽の光が眩しかった。たいそう外が騒がしかった。
「は……」
喧騒が遠のく。耳鳴りがかき消すからだった。
アルバは、その首が運ばれるのを遠目に眺めていた。
豪勢で頑丈な荷車の上で、振動に合わせて微かに揺れていた。
「竜の秘境を滅ぼしたぞ!」
「辺境に隠れ住んでいた奴らを一網打尽にしたって……!」
「ラディシャ殿下!」
凱旋の先頭にいる女には見覚えがあった。
第一皇女を名乗った女。死骸から剥ぎ取ったろう汚れた金色の角を掲げていた。
「あの町で……すれ違った……」
アルバは悲鳴をあげた。あげずにはいられなかった。悲鳴は歓声に塗れた。
「せ、セイカ……おじいちゃん……!」
後ずさり、喧騒に背を向けて歩き出す。足取りがふらついて、遅れてやってきた人々に何度もぶつかられた。
「あ、ああ……も、戻る?あそこへ……?」
何人目かに衝突する。よろめいたのち、アルバは立ち尽くした。
(――無理だ……)
思考はこれ以上ないくらい晴明だった。
『くすくす……』
(片道二ヶ月だ。でも、もしかしたら。生きているかも、間に合うかも)
『かわいそうなあなた……』
(なんなら違うんじゃ、何かの間違いで……!)
『本心を教えてあげる』
悪魔の艶めいた囁き。
防げるわけもないと分かっているのに、思わず耳を塞いだ。
『今更遅い。でしょう?何も知らないあなた――』
こんな仕打ちを、忘れられるというのか。
*
力が入らない。初めて膝から崩れ落ちる体験をした――冷静なもう一人の自分が、そんなことを思っていた。
「クロエドくん……まさか……!」
ニケラスが言いかけて口をつぐむのが、なんとなく滑稽で笑ってしまった。
「はは……」
「……だ、大丈夫か……?」
数秒目を見合わせて、クロエドは呟く。
「……戻る」
「冷静になるんだ」
「俺はずっと冷静だ。今だってちゃんと考えてる。冷静に考えてる」
「どこが……!」
「里が無事じゃないことくらい分かっている。だってあれは……ッだから……」
クロエドは言葉に詰まった。自身の支離滅裂な言動を認識してのことだ。
冷静に言葉を探して、言った。
「だから行かなきゃ……」
「――場所は?」
たずねたのはネイメアだった。クロエドは聞かれたことに素直に答えた。
「北の……荒野を越えた先だ」
とてもじゃないが戻れない。そんなことは分かっていた。
ネイメアが半ば目を逸らしながら言う。
「……蛇行する地下道が使えるかもしれない」
帝都周辺の地図を急いで並べた。地下道の地図をその上に重ねる。
「北西に坑道がある。埋められたことになってて、今じゃ誰も知らない。地下道が坑道に抜ける構造になってるはずだ……直線距離で荒野の北まで行ける。恐らく三日とかからない」
「そんな道が……?」
「いいのか?ネイメア」
「……いいから、準備しろ。感謝とかするなよ。言っとくけど無駄足になる可能性も高い。これも探索のうち――」
「ありがとう」
部屋を出る。後ろでネイメアが、
「そんなこと言わなくていい」……呟くのが聞こえた。
暗い坑道を半ば走るように進む。
カンテラの火が左右にぶれて残像を残す。石を蹴飛ばす音が暗闇にこもって響いた。
ニケラスが「慎重に急ごう、何があるか分からない」と言って、後ろをついてきた。
「ついてこなくていい」
「心配なんだ」
ひたすら歩いた。
静寂に包まれると余計に悪い妄想が膨らんだ。
やがて耐えかねて、ついに足が止まった。
「……こんな時、転移の魔法が使えたらいいのに。そうしたらどこへでも行けるのに」
背後でニケラスが呟いた。場を和まそうとしてるのだろうが逆効果だ。
「引き返したっていいんだよ」
引き返す。
その言葉に、クロエドはたまらず振り向いた。
「――あの時生き残れたのは転移の魔法があったからだ」
はっと彼が息を吸うのが分かって、余計に口調が勢いづいた。
「十年前、魔女が俺を助けた。家に帰れない俺を、扉の先へ追いやった。
そこで何もかも忘れたふりをして、何年も過ごした。いいところだったよ。友人も恋人もできた。あいつらは俺の正体を知っても受け入れてくれた」
祈って開いた扉の先は、魔法使いの学園。
何不自由ない、満ち足りた生活が待っていた。
それでも、いつもどこかで何かが足りない気がした――蓋をして閉じ込めた。
(そのせいだ。失ったのは)
クロエドはカンテラの持ち手を握りこんだ。爪が食い込んで、血が滲む。
「それがまさか、殺されるなんて誰が予想できる?」
「殺された……?」
「しかも、自分の母親が殺したなんて信じられるか……!?」
あの時も、カンテラを手にしていた。
ガスの匂いが記憶を叩いた。
目の前には恋人が横たわっている。ふらふらと近づくと、血の匂いが濃くなった。
『――あぁやっちまった。うう、俺のせいじゃ、ない……』
恋人を手にかけた男が泣きながら言った。
背骨が曲がった太った小男だった。その風貌から、モグラと呼ばれる賎民だということが分かった。
『ヒルシュマの願いでなければぁ!ヒヒ、そうだ、これはお前の母親の命令だ!だから俺は悪くないんだぁ……』
妄言かもしれないと分かっていた。
敬虔な信徒である母親が、人間を殺すなどするわけがない。
でも、だからこそ。
里の掟を破って遠くへ逃げた自分を、消しにきたのではないか。
そんな疑いが頭をもたげた。
『こんないいところでのうのうと暮らしやがって!ざまを見ろーッ!』
怒りと虚しさの狭間でおかしくなりそうだ。
「母親が……君の大事な人を殺したのか?」
「初めは信じなかった。だから故郷に帰ったんだ。何年振りかに会う、それでもちゃんと問いただすつもりだった」
学園都市を去ってすぐ故郷へ戻った。全部確かめたかった。
口をつぐんだ父親の代わりに、伯母が話した。
『お義姉さんは……あなたを連れ戻そうとして、追手を差し向けたのよ』
『え……?』
『失敗して、逃げ帰ってきた者がいた。そのせいで、この隠れ場所の存在が明るみになるところだった。その咎でーー』
伯母の声が遠のく。
信じられなかった。
前自警団長の娘とはいえ、あの母親にそんなたいそうなことができるか、とかそういうことじゃない。
自分を連れ戻そうとしたことが、だ。
(じゃあなんで、あの時閉め出したんだよ?)
『――外は随分いいところだったでしょうね』
十年前、本当は一度は故郷へ戻ることができたのだ。
魔女の助けで帝都から命からがら逃げ帰った。
そんなクロエドを、母親は家に入れなかった。
言いつけを破って勝手に帝都へ行った彼を拒み、閉め出した。扉に鎖鍵をかけて。
扉の隙間から覗き見た、猫を抱いた母親の姿。心の奥底を焼いて焦がした。
迎え入れてもらえず傷ついたクロエドは、禁足地にある地下貯蓄庫へ向かった。
そこはよく友達と過ごした秘密基地だった。
泣き過ごした。帰る場所もなく。
『――帰りたい。なんでもするから』
扉に願った。
『――……ロくん、大丈夫?ごめんなさい、でも……兄さんに話させるのはあまりに酷だから……』
伯母が肩を掴んで揺らすのに、意識が引き戻された。
『本当に、ひどすぎる。今のお義姉さんは……』
それから、両親が住んでいる場所を訪ねた。家を出て二人で暮らし始めたのは、クロエドがいなくなった後の話だ。
そこで待っていたのは。
「……」
すでに死にかけた、母親だったもの。
ベッドに横たわる痩けた体。土気色の肌。緑色の瞳がくるくる踊る。
自身の頬を伝う水滴が落ちて、彼女の鎖骨に沿って流れた。
「……あの女は失敗したんだ。俺を連れ戻すために里を裏切って、見せしめに拷問された。見るに耐えない姿だった」
とっくに人間性が失われていた。
体は生きているのに、中身がない。すでに魂が旅立ったかのように見えた。
「だから……殺してやったよ」
哀れだった。延命こそゆるやかな拷問。
だから、これは優しさだ。
「それがけじめでもあるだろ」
でも同時に、復讐でもあった。
(そばにあった、を……――いや。くびり殺したんだ。そうだ、そうに違いない……)
手に残る痺れ。逃れたくて、煙草を手に取った。
「……これは目を逸らした罰だ。逃げた先でのうのうと暮らした。何も知らないまま、綺麗に生きていこうなんて甘えなんだ。
俺は知らなきゃいけない。けじめをつけなければ。母さまは殺した。次は女帝を殺して、扉の魔女を……」
「扉の魔女を憎んでいるのか?」
「――あの女は竜族だった!!」
とがった帽子を目深に被る女。つばの影の中、照りつく緑瞳。赤い舌がちろと回る。
「あの女がみんなを帝都に連れて行った!都合のいい希望を語って、扉の先へ――その先はいつも地獄だ」
純粋な竜族ではない、外からやってきた女。一人の竜族を英雄に仕立て上げた魔法使い。
「逃げた先に何があったとしても!置いていったものが追いかけてきて、全部台無しにする」
ふと魔女の声が聞こえた。
『おまえ様は遠くへゆきなさい。ここではないどこかで一生地に足をつけて暮らしなさい……』
(――そんなことは、できない)
二回扉をくぐった。
一枚目、遠くへ行けなかった。
魔女が意図的に魔法を使い、故郷まで送り返した。
二枚目、遠くへ行けた。
意図せずして、扉の魔法の条件にはまった。『なんでもする』という呪文。唱えた者の無意識を汲んで、誘う。
その先で、ふと過去を思い出しては後ろ髪を引かれた。
結局帰ることになった。
それでも、また旅立った。
三枚目の扉は必要なかった。これからもだ。
「――だから行く。引き返すなんてできない」
本音を絞り出すと、途端に力が抜けた。
ニケラスが傷ついたように顔を歪ませている。向けられているのは、困惑でも憐憫でもない。
クロエドは一歩後ずさった。
「わかってる……俺は今冷静じゃない。いや、もうずっと……戻ってなんになる?何もかも過ぎた後だ。でも…………」
自然と口元に手が触れた。
「行かなきゃ……」
そこからの記憶は曖昧だ。
行きたかった場所に辿り着いた。見るも無惨な故郷の姿に、胸の奥がすいた気がした。
散乱した同胞の死骸。回収されず、そのまま遺されていた。
女子供のほとんどは人間の姿のまま殺されていた。ひっくり返った伯母や、皮の剥がれた従姉妹の死骸を見つけてなお、涙も出ない自分に「そうか」と不思議に納得した。
最後に、両親が住んでいた家に寄った。
包むものを失ったベッドの毛布は綺麗に畳まれていた。
クッキーが床に散らばっていて、踏みしめられている。蓋の外れた古いクッキー缶がそばに落ちていた。
……行った道を帰った。
やがて、曲がりくねった道の奥から、鎧の擦れる音がしてきた。いくつもの照明が重なった、煌々とした光が近づいてくる。岩壁には複数の影が映り込んでいた。
「クロエドくん――」
ニケラスがこちらを振り向き、腕を掴んだ。強く引きながら言う。
「逃げ――」
振り払った。一歩前に出る。
(……そういえば。あれは子供の頃の好物だったな)
思い出して、少しだけ泣いた。




