1-4.
トン、トンと単調な音が響く。
肉の焼けるいい匂いに誘われて、眠気の醒めないまま階段を降りていった。
「セイカ。目が腫れてるね」
「どうりでよく見えないと思って……」
目周りをこすりあげると、三つ下ほどの段に片足をかけた青年がいた。
「久しぶりだね」
「く、クロ兄……? なんで!? 外界がいかいらにいるはずじゃ……!」
セイカの意識は一気に晴れた。
数年前に出て行ったきりの従兄弟がいたからだ。
「外界? あはは、そうそう。郷帰りだよ。学園も卒業したし一度は帰ろうと思って。だから俺にとってはいい時期……って言ったらひどいかな」
「どうしたの?」
アルバが階下から声をかけた。
「あーセイカ、起きるのおそーい。お兄さんが起こしにいくとこだったんだから。母さんが早く着替えて支度してだってよ!」
「えっえっあっ……」
寝起きの格好を見られた年頃の娘は、部屋に逆戻りした。
(数年ぶりに会ったのにこんな姿を〜!)
恥ずかしさを誤魔化すように急いで着替えて食卓に向かう。
祖父の姿はなく、神妙な面持ちの母親がそこにいた。後ろから従兄弟が話しかけてくる。
「俺の部屋まだあったんだね。いつでも使えるよう掃除してくれてたみたいだし、伯母さんには感謝しかないよ」
「クロ兄、しばらくいるんだよね。ね、何かあったの?」
口を開く前に母が言った。
「セイカ! 体調は?」
「うん……大丈夫」
「あのね、おおばあ様が亡くなられたの」
おおばあ様……この村では一番の年長者で、族長である祖父ですら頭が上がらない存在だ。
セイカの背丈が今より半分程の頃はまだ姿を見ることがあった。
「ふーん……」
「老衰だったみたい。異例だけどすぐ次の13月に葬送を執り行うことになったから……」
セイカは次の13月までもう数日とないことを想像した。
ひとつきに一日ずつある13月という特別な日は、外出を禁じられひもすがら神に祈りを捧げる安息日となっている。
「え! それって間に合うの?」
葬送は故人の家族のみ、それも成人だけでささやかに執り行うものだ。故人を連れて聖地まで赴き、儀式を終えて帰る。
「今回は大人は全員参加するからね」
「なんで? 家族じゃないのに……?」
「あの方はとても身分が高い方で……とにかくだから忙しくって。クロくんに面倒を頼んだから、言うこと聞くのよ」
そう言ってパタパタと出て行った。
「クロ兄、ここで暮らすの?」
「お駄賃つきなんだ。それに両親がここを出てったとはいえ、俺にとってはここが馴染み深い実家だからね……そういえばこの子は」
アルバは緊張した。気恥ずかしさで目を合わせられない。
「あの……ボク、アルバです。知って欲しいのは名前だけ」
彼はアルバの前でしゃがんで目線を合わせた。
「クロエド・ヒルシュマ。よろしく、弟分が増えて嬉しいよ。本当驚いたな、あの頭の硬い爺さまや父が」
「(弟分……)違うのクロ兄。ダメだったの、だから叔父さんは……」
「あーそ、そっかあ。あの人やっぱり……うーん。でもアルバ、俺のことは本当のお兄ちゃんだと思っていいからね」
原っぱの色をした優しそうな垂れ目、どことなく母にも似た笑い皺にアルバはすっかり気を許した。
叔父と同じ黒髪をうなじのあたりで一つに留めている。長い旅路だったのか小汚かったのでセイカが風呂に入らせた。濡れた髪から水が滴る姿はなるほど見栄えする。
昼間には見たこともないおやつを作ってくれて、兄貴分として慕うには十分だ。
「おいし〜!」「ふわふわしてる!?」二人はそう顔を見合わせてはしゃいだ。
クロエドはボトルから赤紫色の液体を注ぐ。飲みながら弟妹がパンケーキを頬張る様子を眺めた。
この村には流通していない珍しいボトルにアルバは興味津々だった。
「それ何の飲み物?」
「これは子どもにはまだ早いかな」
「ボクは子どもじゃないもん」
「そうやって食べかすつけてるうちは、ね」
アルバはゴシゴシ口を拭うのを楽しそうにクロエドは見ていた。
「あ! そういえばクロ兄、成人の儀やれてないよね? まだ子どもだから葬送に参加できなかったんでしょ!」
「めざといね子どもは……でも儀式なんて何も意味ないよ。俺が子どもなら、外界に一歩も出たことがない同い年の箱入り息子たちは赤ちゃんだね!」
セイカははしゃいだ。彼女にとってクロエドの言葉は耳障りが良いものばかりだった。
村の誰とも違う、外の世界を夢見るセイカの、憧れの姿そのものだ。
二人は腹ごしらえを済ませると、また秘密基地を目指して出て行った。クロエドは自室のバルコニーから手を振って見送った。
村はどことなく忙しない空気に包まれていた。すれ違う人は皆急いた様子だ。
「ねえ、セイカ。クロ兄いつまでここにいるのかな? ずっといてほしいな。毎日おやつ作ってくれそう」
「難しいかも。ワタシたちが良くっても叔父さんがね。仲悪いんだって」
「親子なのに……?」
「ずっと昔クロ兄が子どもの頃出て行って、それから一度も戻ってこなかったのよ。叔母さんはすっかり弱っちゃって、りょうよー? で静かなところに夫婦で越してったって母さんが」
「あのさ……」
足を止めてアルバは聞いた。
「出て行ったってどうやったの? 大人たちが許すはずないし……追放?」
村の周辺の生活区域は丸ごと霧に覆われており、外への安全な道は陸路も空路も巡回の大人が必ず見張っていた。自力での脱出は不可能だ。
追放の一言にどきりとし、咳払いした後セイカは答える。
「おかあ様もそのことは話したがらないの。 これはね、盗み聞きしたことだから秘密よ」
耳打ちした。
「渦神様に連れて行かれたんだって」
「神様に……?」
「勝手に外に出るのって掟の中でも一番破っちゃいけないことなんだよ。なのに許されたのは、神様に選ばれたからなんだって」
「(一番いけないって知っててあんなに凄む!?)じゃあボクらも神様に選ばれればいいってことかぁ……?」
「もークロ兄が選ばれてるでしょ?でも大丈夫、今はもう崇められてないけど、古い神様がいるんだっておおばあ様が言ってた……」
「どこに……」
「そりゃ今から行くところ」
眼前で見慣れた大木。そのずっしりとした幹を、張り巡らせた何百もの根で支えていた。
森の中の大木の周辺。開けた空間をまるで一筋の日光をも逃すまいと、根の一つずつが生き物のように蠢いている。
「神様ってここにいるの?」
「そう。この木が神様なんだよ。おおばあ様は元気な頃村の子どもを引き連れて、よく分からないけど昔話をしてくれた」
「木が神様ってェ……喋んないじゃん?」
「馬鹿にしてるでしょ! 傷つけちゃいけないんだかんね、バチが当たるんだって」
ハイハイ……とアルバは大木を見上げる。澄んだ風が撫でてきた。
(なんで古い神様なのに行っちゃダメな場所になってるんだよ。昨日も不気味なのがいたし、良くないものなんじゃ……)
昨日のことを思い出す。影に追いかけられ漏らしかけた。
(今日は日が暮れる前に帰ろう……)
セイカはいつものように巻物……もとい禁書に夢中だった。いくつも開いて広げ、何かを書き留め始めた。
アルバはいつのまにか眠ってしまった。
羽根ペンが小気味いい擦り音を立てるのが眠気を誘ったのだった。
『――ダメだ、そっちは! 戻れ!』
炎が灰色に上がった。断末魔が聞こえた。
『死にたくない、死にたくない、死にたくない……!』
赤子を胸に力強く抱いた母親が、怪我をした足を引きずっている。
助けようと手を伸ばすと、途端に親子は消えてしまった。
『これが儂等の終わりかーッ! 世界の終焉だぁあー! ひゃーはっはっはっはっ』
狂って叫び踊る男。邪魔だと思って指で弾くと、男もまた消えた。
『もうここはダメです、隊長……!』
人間が豆粒みたいに集まっていた。蟻の群れのよう。轢き潰してしまおうと、重い羽根をはためかせた。
『復活したんだ……』
雪だ。燃え滓が雪の如く舞っているのが綺麗すぎたのか、泣けてきた。
『我々は世界の転機の瞬間に立ち合っているのだッ!――白い××を何としても我が手に……!!』
「――起きて! 地震だよ!!」
少女の声に一瞬で現実まで引き戻された。重い瞼を引き攣らせる。ぐらぐらと揺れる。
セイカが全身を使ってインクを塞ぎ棚を抑え、物が落ちないよう支えている。
「燃えちゃう! ランプ守って!」
寝起きの頭痛よりも目の前の火事の原因を絶たんと掴み持ち、部屋の端に寄った。
数十秒ほどで揺れはおさまった。心臓の鼓動はしばらく治る気配はなかった。
「ふー焦ったわあ。良かったー大事な書物が無事で! 片付けもこのくらいなら楽勝ね」
「……」
「アルバ大丈夫……? そんなびっくりした?」
「ううん……まあ……ちょっと外の空気吸いたいかも……」
ぐわんぐわんと耳鳴りがする。
アルバは冷たい階段を這うように上がり、天井の扉に手をかけた。
「あれ」
えっ、とセイカが割れた陶器製のガラクタを拾う手を止めた。
「開かない……!?」
「うそ……!? 今ので歪んじゃった!?」
「知らないっけどッ、開かないっよ!?」
力を込めて肩で押し開けようとするが、ビクともしない。
「どうする……?」
二人はとりあえず部屋を片付けることにした。
無言だった。口を開けば泣き言がとび出そうだった。
いつもよりも小綺麗になったので、気合を入れ直してもう一度扉開けに挑戦してみた。
差し込もうとした棒切れは折れた。現実を受け入れきれず何度も打ちつけた身体中が痛んだ。
「どこか抜け道でも探そうか……?」
「あるといいよね、本当! でもないと思う」
アルバは書物があった床下への隠し扉を見つけてから、同じような扉がないかを遊び半分で何度か探していたのだった。
徒労は防いだが、結局無力な二人は時間を潰すしかなかった。
セイカはより没頭して解読とやらを進めているし、アルバも暇なので書物を適当に読み始めた。
(もう夜だろうな……おやつ食べたおかげでお腹はもちそうだけど……帰ってこないのに最初に気づいてくれるのはクロ兄かな……でもこんなとこ、見つけられるはずない)
もしかしたら一生、村の外どころか地上にも出られないのだろうか?
そんな不安が広がり、怖くなって涙ぐんだ。何もないと分かっていても体が動いて、何かを探してしまう。
「おねがいだよー……開いてぇ。なんでもするからぁ……」
辿り着いた唯一の出口に力なく体重をかける。
「アル……」
セイカが見たのは扉のヘリにかかる指だけだった。
「アルバぁああ!!?」
見ると、明らかに重力に逆らった逆立ちの状態で開いた扉の向こう側にぶら下がっている。
「ぎゃあああ何これえええ」
セイカは混乱していてもしっかりアルバの片腕を掴み、上から下へと引っ張った。アルバの体重からは考えられないほどの重みだ。
「落ちてる! 空に落ちてる!」
「何したの何してそうなるの!」
やっとの思いで腰まで引っ張り下げると、そこからは簡単にずるりとこちら側へ引き寄せることができた。
息を荒げながらセイカは向こう側を覗いた。
そこははるか上空と表すしかない場所だった。
しかも上下が反転している。片腕だけ出すと出た腕だけが重力に引っ張られる妙な感覚がした。
恐る恐る首だけ出してみると、目の前いっぱいを赤い月が埋め尽くしていた。
顔の肉だけ上に垂れるのを感じ、すぐに引っ込めた。
「どうなってるの? 何かやった?」
「してないよ! 死ぬかと思ったよ! 人間は飛べないんだよ!」
「飛ぶ……」
セイカは唯一の逃げ道を悟り、自分が周りと同じように竜化できてその翼で飛べたらどんなにいいだろうと思った。
(でもそれは……! 何度やってもできなかった……)
「ワタシたちは飛べないから無理だね」
「でも出口はここしか……!」
「ワタシに飛べって?」
「……言わないよ」
セイカは勝手に責められたような気になって意地悪く突き放したことを後悔した。
それでも年下の子ですら竜化に成功し空に踊るのを、下から見上げるしかなかった自分のことを思うと惨めになった。
「あ、でもボクが先に飛んだらついてくるよね?」
アルバは向こう側へ飛び込んだ。
「わああああ!!!」
セイカは無我夢中でアルバのあとを追い、腰あたりに抱きついた。
「ああああなれるなれる!」
目をぎゅっと瞑って溢れた涙が空へ登っていった。
「セイカ?」
「なってるなってる!」
「セイカ〜大丈夫だよ」
げふ、と衝撃が襲った。それでも想定していたよりは随分マシだったので、辺りを見回す。
そこは小さな島だった。
空を浮く島のようなものが風の流れと同じ方向へゆっくり漂っている。
「し、島……?」
「そう! 横切ろうとしてたからさ。よかった〜脱出成功だね!」
「良かったけど良くない!」
口から心臓こぼれる、と胃液がせり上がった。アルバはそんなセイカをよそに、村では見たことがない満点の夜空に目を奪われていた。
「――私をたずねる竜は君たちで……何匹めだっけ? まあいいか」
そこには若い女が立っていた。
「おお、いやね。そんな怖いものを見るような顔をしてどうしたの?」
しなやかな体つき。箒にしなだれかかり、長さの揃わない赤黒い髪を腰まで垂らしている。
体のラインが浮き出た服の上にローブ、サイズが大きいとんがり帽子を目深にかぶっていた。
蹄のある鶏を抱えていて、それがコォーと時々不気味に鳴く。
竜化した竜族特有の爬虫類の緑瞳が縁者であることを物語っているが、最大の証である二本の角はない。
「誰?」
アルバが臆せず聞いた。
「おいで子どもたち。何を願ったのかは知ってる。簡単に叶えてあげられるわ。おうちに帰してあげる……」
「ありがとう」
「でもお代はいただくわ! さあおいで……うふふ……おまえ様がひらいたのはどの扉かしら? あなた様がひらくのはどの可能性かしら? うふふふ久々ね、わくわくしちゃうわ」
鶏の鳴くリズムに合わせて左右にふれて踊りながら歩き出す女。
セイカは怪しい女を警戒して沈黙を守った。ブンブンと首を振って、ついていくなとアルバに示した。
だが案の定アルバはセイカの手を引っ張って女のあとを追った。セイカは躊躇うことなくずかずか進む彼に従うしかなかった。