6-1.水の香り
深い林道の途中、誰もいない藪の影。
こじんまりとした幌馬車が、軋む音を立てながら目の前を通りすぎていく。
アルバは一瞬だけためらい、その荷台へ飛び乗った。錆びた鉄の手すりを握りしめる。
荷台から香る藁の匂い。がたがたと骨に響く揺れ。放り出した両足がぶらぶらと振れる。されるがままにした。
荷車の天幕越しに、夕空が流れる。うっすらと星が見えた。
(ひとりか……)
肩の力が抜けた。不安なのに、なぜだか気楽だった。
乱れた呼吸が整うにつれ、汗がひいてゆく。それから涼しいと思う間もなく、寒くなった。藁に預けた背が、ゆっくりと沈み込む。
(あれだけ一人じゃ何もできないと思ってたのに)
藁に頬をうずめる。汗ばんだ肌に張り付いた。
疲れから目を閉じたが、瞼の向こうで獣が鳴く。木々の奥に自然と目をやって、アルバは途端に体を硬直させた。
白い少女が恨めしげにこちらを見つめていた。
その夜は馬小屋に泊まることにした。
御者はしばらくの運転を終えると、明かりのついた宿屋へと消えていった。アルバの方はといえば、馬と一緒だって構わなかった。
馬小屋の片隅で体を丸める。別に暖かい布団がなくてもいい、と心の中で唱えた。乾いた空気が肺に満ちる。
『ね』
また彼女が囁く。
『お話終わり?さみしいの……』
甘えた声色。背中に熱を感じる。背筋をぞりと登っていった。
アルバはその感覚を無視して、瞼にぎゅっと力を入れた。
『眠ったって無駄』
まどろんだ。何かいいことを夢に見たくて。嬉しかったことや楽しかったことを思い出そうとした。
嬉しかったこと……楽しかったこと……
(そんなこと、あったのかな)
そんな思考が頭をよぎった時、体中に焼かれるような激痛が走った。まどろみから現実へと引きずり出される。
『わたしがいらないの?いらないの?……いらない、いらない……!?』
一瞬にして甘えた声色から憎悪に満ちた叫びに変わった。めまぐるしい情緒の波が、鼓膜を擦り上げる。
「う……!」
アルバの爪の先が、白く乾いていく。塩灰になって脆く崩れる。喉の奥から空気が抜け、悲鳴をあげる――
次の瞬間、ハッと目が覚めた。
「はっ……!ああ……」
見れば、自分の体は何事もなかったかのようにそこにある。
背後の悪魔が、アルバの背中を掴みすがるように泣いていた。子どものように、えんえんと。その合間に、くすくすと嗤っているように思えた。
『――どこへ行くの』
寝床を出た。ふらつく足取りで。重だるい体を連れていく。
『待って』
川辺に出た。川を目の前に足を止めた。それから、考えるより先につま先を水に浸けた。
『なにをするの』
一歩ごとに足裏に小石がこすれる。唇が寒さで震えるが、そんなことはどうでもよかった。
それは彼女を遠ざけられるかもしれないという淡い期待だった。あるいは、脅し……もしくは自暴自棄かもしれなかった。
一度だけ振り返ろうとして、
『そんなことしないで』
息を吐きながら、頭まで沈めた。
――震えながら眠った。
毛布を着込んで丸まった。彼女が何かを言っているが、知ったことではなかった。
彼の背からぽつりと話しかける。
『つめたいのね』
翌朝、激痛が去った後も体は鉛のように重かった。
(住人に見つかる前に出なきゃ……)
川の水で濡れた服が縮んだのか、腕を通すのもきつくなってしまった。固くなった布の縫い目が、乾きかけのまま引き攣れる。
アルバは誰もいない民家の裏手で、適当な服を一枚だけ借りてから通りの小道へ戻った。
遠くに街が、見えていた。
*
帝都タルタニヤ山門城、尖塔の最上階にて。
「大教父暗殺が煽情的に報じられるのも無理はありませんね」
ユーティティが隈のある目元を擦り上げて言った。
「''死人が起き上がったとしか思えない、密室だった''、と。すでに市井の間で噂が広がっています」
「そうですか」
城主ラーチスは部下の異様な報告に眉ひとつ動かさない。
ユーティティは主君の冷静さに、それでこそと言わんばかりに笑んだ。
「それもですが……おかしいんですよぉ。死体の死亡日時が違うんです」
ラーチスの目元がわずかに痙攣した。
ユーティティは積み上がった書類に手をついて続ける。
それは、部下たちが徹夜で仕上げた書類の山だった。暗殺事件の捜査介入を拒否する大聖堂に、強引に押し入って作成したものだ。
「もしラーチス様のお考えの通りなら、死亡日時は奴らが密行したあの日でなければいけない。なのに、実際には……」
ユーティティは一枚の報告書を書類の山から滑り取る。
「もっとずっと前。とっくに死んでいたっていうんですから……」
密行の日、大聖堂に運び込まれた棺の数々。そのどれもが、ありふれた鮮度の死体だった――何枚もの報告書がそう言っていた。
「……偽装の可能性は?」
「……防腐処理が施された死体、という意味では」
「防腐処理?」
「ただ……難民と思わしき死体だけでなく、大聖堂にあったいくつかの死体もそうでした」
暖炉の前、いつもの定位置で黙考するラーチス。すぐユーティティに向き直った。
「巨城壁を渡った少年の行方は?」
「わかりませぇん。都心に向かったのは確かでしょうが、足取りがつかめず……」
密行の日に、巨城壁を渡った少年のことだ。彼の何らかの魔法によってか、見張りの兵士たちがことごとく失踪した。
「いいでしょう。子供の足でもそろそろ辿り着くはずです。用意していた手配書を宮殿へ送ってください。宛名は……''神杖の賢者''殿で、構わないでしょう」
「!……はぁい、ラーチス様」
ユーティティがいそいそと準備を始める傍ら、ラーチスは両手に持ったカップの中身を軽く揺らした。瞳の青色が波紋にのって広がる。
(さて、やらねばならないことが山積みですね……不本意ではありますが、宮殿の方はお任せしますよ――)
「――賢者殿」
誰の声だか一瞬わからなかった。眠りの底から、不意に現実に引き戻される。
「あ?」
大きな窓の外から入り込む風が、煌びやかな装飾を施した吊り下げ照明を揺らしている。
「聞いておられましたか?」
いい心地で眠っていたのに――青年は、つっぷして服の皺の痕のついた顔を上げた。
薄布を目の下から垂らす女が目を細め、手にした杖をトンと床につく。
「会議中ですよ?公務に差し障る夜遊びは控えるように、と申し上げました」
「……」
彼は書物を顔に覆いかぶせ、わざとらしくあくびを隠した。『うるせぇババア』との声にならなかった悪態があくびに混じった。
「おや、陛下!」
陛下との言葉に心臓が跳ねあがり、彼はあわてて書物を取って身構える。
辺りを見回すが、そこに『陛下』の姿はなかった。
いるのは地味な色味だが、上等な生地であつらえた装いをした男たちだけ。ある者はつまらなそうに、ある者は微笑を浮かべて、彼らを眺めていた。
「失礼。勘違いでした」
「テメェ……!」
「そんなにお母様に叱られたくないのでしたら、お下がりいただいたほうがよろしいかと」
「チッ調子乗んなババア……」
音を立てて椅子を引き、座り直す。
その時、鷲が向こうの窓辺に降り立った。足に結び付けられた書簡が音を立てて窓格子に触れる。
「おやおや、山門城からの書状……殿下宛のようですね」
「!よこせ」
「では会議を続けましょう」
「あ?」
彼の伸ばした手を避けると、女は透けた顔布の向こうでにこりと笑った。出入り口に目配せする。
「――みなさん、ごきげんよう」
彼は会議室を後にした。
廊下に出て、足早に去るその背後から、ガタガタと一斉に椅子から立ち上がる音が聞こえた。
「陛下、体調はよろしいんですの?」
廊下を行きながら、抑えきれず山門城からの書状を乱暴に暴く。
「……!!」
立ち止まり、食い入るように書状を見つめた。書状から香る香水の匂いが、あの気色の悪い張り付いた笑顔を思い出させた。
(巨城壁を渡った子供……引き換えに……)
ぐしゃりと紙を握りつぶした。無性にそうしたかった。
「今更擦り寄ってきやがって……」
ぎり、と奥歯を噛み締める。
窓の外、帝都の青空を睨んだ。気球が空を上がっていくのが見えた。
「だいたいどうやって見つけろってんだよ……」
*
路地裏の石畳はいつも湿り気を帯びている。
区画整理された街のつくりは、都心から遠ざかるほど層をずらすように沈み込み、複雑さを増す。
半地下と呼ばれるそこは、国家権力たる兵士たちでさえ出入りをためらう閉じられた混沌だった。
ネイメアは人気のない薄闇で、とある少女を前にしていた。
「''クオリア''――お前だろ。ニケラスが岩尾根を抜ける情報を漏らしたの」
その少女――生えっぱなしの眉毛に、きゅっとひきむすんだ唇。薄いそばかす。どこか好戦的で人を見透かすような目つき。燃えるような赤い髪をおさげに編み込んでいた。
「何?……ご不満?これも知恵よ」
胸元に垂れる三つ編みを弾いて、背へおろす。
「西門攻めが陽動だって思いつくこと自体はそう難しくない。アンタだってそう思ったから、巨城壁に向かったんでしょうが」
「全員を捨て駒にするつもりだったか。皮肉にも、どちらも筒抜けだったわけだな。オレが巨城壁を行かなかったら、うまくいかなかったってことだ」
クオリアはぎゅっと拳を握った。噛んでがたがたに歪んだ爪が皮膚に食い込み、血が滲む。
「……あたしの手柄よ」
「横取りなんかするか」
「だいたいアンタはあのガキを殺さず……!!」
「ハッキリさせておく。今度この類の秘匿をした場合、バクスをぶっ潰す」
「……!!」
「今回ばかりはしくじるわけにはいかない。枢機卿のオレが言うんだ、重く取れよ」
短い沈黙の後クオリアは背を向け、
「……死ね……!!」
その場に苛立ちの熱を残して、通りの人混みへ消えていった。
その余熱を裂くように、暗がりから別の影が現れる。軽薄な笑みを浮かべた男だった。
「お〜……すっげー罵声。ネ……って、まだネイメアって呼んだ方がいい?」
「どっちでもいいっつの。で?何?」
現れたのはネイメアの仕事仲間――テュオだった。二人は自然と暗がりの方へと歩を進めた。
「――分かった。ゾフィーは?」
「北で足止め喰らってる。当初の計画より随分早いってぼやいてた」
ネイメアは、ふと呼ばれるように後ろを振り返った。
「……急ぐぞ。''降臨祭''は近い。それまでに必ず……」
建物の隙間から、気球がゆっくり青空を上がっていくのが見えた。




