5-10.闇夜境界
クロエドら別働隊はそのまま岩尾根の先へ進み、帝都へと抜けた。
ユーティティの不自然な退却は、城主に何か異常事態が起きたからではないか――?
クロエドはその可能性から、城主暗殺のため城へ向かうことも考えた。
が、城主の首ではなく密行を優先したのだ。魔力は尽きかけていたし、この惨憺たる有様に気力も失せた。
それに危うい心境にあるニケラスも放っておけない。腹心として彼を支え続けた者を処刑したせいだろう、彼の荒んだ精神状態ははたから見ても明らかだった。
ニケラスはあの方とやらの無事が気がかりすぎて、仲間の手当を最低限受けた後、どこかおぼつかない足取りで、先を急いだ。
岩尾根の先は道とは認め難いほどのけもの道だった。岩山を迂回し木々を掻き分ける。城を突っ切るよりずっと時間をかけて、帝都へと抜けた。その間に空は白み始めていた。
作戦前にネイメアと落ち合う約束をしていた場所――鬱蒼とした林が迫る城の裏手、湖のほとり。難民を乗せた舟が着くところだった。
「――遅い!」
待ち構えていたネイメアが言った。
ニケラスはそこへたどり着いて開口一番、
「あの方はどこに?」
とネイメアにたずねた。
「あいつは先に行った」
御者台から飛び降りながらネイメアは答える。
すでに難民の姿はなく、そばに大きな荷馬車が停まっている。彼らはすでに荷台に乗り込み、出発を待っているのだろう。
見慣れない男――御者にしては小綺麗な見た目の青年が、馬の手綱を握ろうとしていた。
「だめだ、そんなの……!ラーチスにあの方のことがバレた。今すぐ追いかけて守らなければ。あの方を失っては、俺が……!」
「バレたッ!?……や、でも……やつはそれどころじゃないだろうぜ」
「え……?」
ニケラスの片目を覆う包帯に血が滲んでいるのに、ネイメアは一瞬顔をしかめた。しかし、すぐに気を取り直して話を続ける。
「裏会が貧民を扇動し暴動を起こした。いまごろ城内は大騒ぎだ。お前らもその混乱に乗じて、抜けてきたんだろ?」
「暴動だって……?」
「お前たちには隠してた計画さ。ま、隠し事はお互い様だよな?」
そのことを副官に話していたら、おそらく……ネイメアの策謀にニケラスは素直に感謝した。
「とはいえバレた。バレたか……さすがだよ、本当。紙一重だったか?いや……希望的観測はよそう。まずいな、話が変わったか……」
珍しくネイメアはぶつぶつと独り言を言って黙り込んだ。御者台の青年が「ネイメア?」と名前を呼んだ。
「……なんでバレたことが分かった?城主と接触したのか?」
「岩尾根でラーチスが待ち構えていた。副官が情報をわざと渡していたんだ。心配いらない、裏切り者は始末した」
「はっ……あ?バラしたってこと?」
「ラーチスに予見を使わせるために、王女様を売ったんだ。あの人は別働隊の……自分の身の安全だけを守ろうと……あなたも彼を疑っていたんじゃないのか」
「……」
またも黙り込むネイメア。ニケラスは返答を待てなかった。
「こうはしていられない。あの方を追いかける。行き先を教えてくれ」
「その必要はない」
ばっさり切り捨てられ、ニケラスは今にも捲し立てそうだ。
「大聖堂の騎士団がここへやってくる。かち合う可能性は十分ある。道は指定する。今すぐ帝都へ向かえ」
クロエドはちらりと御者台の青年を見やる。小綺麗なローブの裾の下、中の青い装いに見覚えがあった。
(大聖堂の騎士……?裏会と大聖堂は繋がっているのか?)
「まだ時間はあるだろう……!?」
「――お前さ、邪魔なんだよ。その怪我で守るとか冗談だろ?あいつにはやることがある。だから先に行ったんだ。お前に追われると逆に迷惑だ」
「……ッ!」
ニケラスはぐっと拳を握り込んだ。それから、力なく俯く。
「……は……よく考えたら……いや考えなくとも。もうどうだっていいのに……」
それから、ニケラスはまるで気持ちの糸がぷつりと切れたように沈黙し、それきり何も喋らなかった。
別働隊の生き残りの面々は、それぞれ一言二言ずつ、ネイメアと話し合う。指定の道やその後行くべき場所について、聞いているようだ。彼にとにかく急げと急かされ、慌ただしい雰囲気になる。
「――兄さん、体調は?」
ネイメアがふんふんと頷きながら、クロエドの全身を見回す。
「最低だ」
「さすがに薬抜けただろ。寝てる間瀉血しまくったからな〜」
「……治療って」
「てか貧血なのにそこまで動けるのやばいな」
「お前が?」
「え?――あ。違う違う。てか、こういうのは知らない方がいいって。探るのはナシな」
「……」
クロエドは心の内で、そう思っておくかと呟いた。
「アルバは?」
おそらく、計画の第三者として湖の難民に紛れて帝都へ渡っているはずだ……そう思って、クロエドはたずねた。
「!……その辺にいない?」
「……いや。いない。荷馬車の中にいるんじゃないのか」
クロエドは嗅覚を頼ってみるが、残り香は感じるものの外にいるとは思えなかった。
荷馬車を見やるクロエドに対して、ネイメアはきっぱりと言い切る。
「いない。絶対にいない」
「……なら」
「先に行ったな」
「一人で?」
「そうとしか」
「なんで……」
「なんでって。喧嘩してたんだろ?」
「別に……」
アルバを怪しんだのは事実だし、疑った結果竜の血を飲ませるなどした。そして、その疑いは不動のものとなった……はずだった。
(――魔薬で鈍った頭はろくな思考回路じゃない。思えば樹海に入った辺りから、まともな思考じゃなかった……)
――とはいえ。女帝殺しという目的のあるクロエドと、帝都の賢者にすり寄る立場であるアルバとでは相容れない。それこそ不動の事実だ。
クロエドはそう考えて、黙り込んだ。
「それで?あいつを追うのか?」
「……いや。今はニケラスの方へついていく。アルバを探すのは後からでも構わない」
クロエドは復讐とアルバを天秤にかけて、前者を選び取った。今はこの復讐へ繋がる糸を手放したくない。たとえ、この糸がもろく弱いものだと分かっていたとしても。
(ニケラスが駄目でも、裏会ならば……)
手繰り寄せた先、次の糸へと繋がるならば。途切れる前に、そこへこぎつける。
不意に風が吹く。ほんの少しアルバの匂いがした気がした。
「アルバ……」
*
「ごめん、ネイメア……」
一緒には行けない。それがアルバの結論だった。
今更クロエドにどう話しかけていいのか分からないから。ネイメアが仲を取り持ってくれるとしても、その後、どう接していいのか分からないから。
今まで、言われるがままにしてきた。それが楽だったし、それしかないと思い込んでいた。けれど、それでは駄目なのだ。
自分の有用性を見つけなければ。
自分の力を知って、理解して、自分の意思で使えるようになる。そして差し出す。
自分の意思を見つけなければ。
それはきっと一人でやらなければいけない。一人じゃないと、甘えてしまうから。
目的は変わらない――帝都の賢者に会う。すべてはそれからだ。
自分が何者なのかは分からない。けれど救世主か否かはそこではっきりするだろう。
そして、見定めなければ。何を滅ぼすべきなのか。
そのためには。
『だまれ、だまれ、だまれ、だまれ……』
呪いの言葉がずっと聞こえていた。ネイメアと喋る間ずっと。峠に至った時から、ずっと……
(――うん。大丈夫。無視できてた)
峠でネイメアにもらった言葉を反芻した。
――でも忘れるな。それは、自分で選んだことだということを。
『こいつ こいつは えらそうに 私のアルバに近づくな 嫌い 嫌い 嫌い』
――親切だとでも? このためだよ。
『うらぎった うらぎった うらぎったーー!! やっぱりそうだ みんなみんな あなたが嫌いなのね』
――頼まれたから?
『だまれ、だまれ、だまれーーッ 私のアルバを おまえの穢れた言葉で 傷つけるな』
――大丈夫。
……ハクアは、彼と離れて尚もぶつぶつと呪詛を唱え続けていた。
『あいつの言葉を聞かないでーーッあれはアルバをもてあそんだでしょう?憎い憎い憎い私以外に縋らないで 私だけいればいいでしょう ねえ ねえ ねえ』
まとわりつく。かみつく。しがみつく。そんな表現が相応しい。五感を邪魔してくる、得体の知れない何か。
「ハクア……二人きりになっちゃったね」
夜明け。白む空、峠道の終わり。峠を抜ける。
『ずっとこうなりたかったわ あの出来損ないの半竜も みじめで哀れな黒い竜も あなたには要らない』
「君と話をしたいんだ」
『私もだよ これからの話をしよう? 帝都の一番素敵なところに住みたい 水の綺麗なところ 白い煉瓦の家 二人きりで 毎日おはようって言って どこまでもおでかけしよう おやすみって言って 抱きしめてあげる』
どうして今まで、受け入れていたんだろう。
いつから?おそらくは、その時から侵食は始まっていた。
『だから わたしだけを』
「――君が邪魔だ」
アルバは悪魔にはっきりと告げた。
「君と話したいのは、君がいなくなる方法だけだ」
*エピローグ
結論から言えば、大聖堂からの援軍によって暴動は鎮圧され、事態に終止符がうたれた。
進軍はあまりに早く、準備は万全。まるであらかじめ分かっていたかのように。
劣勢と判断するやいなや、城門を抜いたばかりだというのに黒い剣士たちはあっという間に退却した。こちらもまるで、初めから退くのが前提だったかのように。
二手に分かれた黒い剣士の侵攻。
巨城壁で上がった星弾と同時に勃発した貧民の暴動。
砦の兵士が巨城壁の侵入者の確保のため、釣られるように外へ出た。砦内の守りが手薄になった隙に、内部の者によって門が開かれた。
内部の者。予想はつく。
『――お困りですか?』
これが狙いだったのだ。
『ついたらまずそう言えと』
黒幕は大教父。
今回の城攻めの計画の裏にいるのも、貧民の暴動を煽ったのも奴なのだろう。
死霊が峠を越える――どこからか予見の情報を掴み、危機に直面した私たちに恩を売る形で現れた。
一見すれば、皇族に媚を売る浅はかな行為に見える。
それは偽装だ。そう見せかけ、城内部に身内を潜り込ませた。混乱に乗じてラーチスさまを殺すつもりだったのだ。
――そんなことは、させなかったが。
だが……くしくも、ちょうどラーチスさまが大教父の悪事の証拠を掴み、追い詰める段階だった。
絶対睡眠下のあの方を、大教父はどうにもできるのだ。この機会を逃そうはずもない。
危機は去っていない。主人を守るため、彼のそばを離れることはできない。
「ラーチスさま……」
私は今なお目覚めない主人のお顔を眺めた。
今も懲りずにすりよる大聖堂の騎士団への対応に追われる間、とりのがした黒い剣士たちのことは後回しにせざるをえなかった。
暴徒は抑え切ったが、巨人壁を渡る子供やあの騎士、黒い剣士に至るまでことごとく取り逃した。
知ったら、
「ユーティティ」
あなたはどんな顔をするだろう?
「今は……いつですか」
*
「私が恐れていたことは全く違うことです」
「ラーチスさま、まだお体が……」
ラーチスが起き抜けに足早に向かったのは、城から湖の真ん中に突き抜ける桟橋だった。突然城主が現れたので、持ち場の兵士はうろたえている。
「よく思い出してください」
「ご命令の通り、あの日は特に念入りに調べました。全員死んでいたのは確かです。呼吸は確実に止まっていました」
一人の兵士が毅然とした態度で応じた。
「すべての棺が大聖堂へと送られました。向こうとのやりとりでも、数に間違いがないことは確認がとれています」
「……すんなり大聖堂へ運び込まれたというのですか?結果的に、我々は密行を許したのですよ。黒い剣士が棺に接触しないとは思えません」
皮肉めいた口調だった。いつもは芝居じみているが、今のは心の底からの言葉だ。よほど動揺しているのだろう、とユーティティは思う。
「死人の中に赤い髪の女がいたはず」
「……!おりました。一番初めに通した」
「よりによって一人目ですか……大胆な」
ラーチスは外壁に手をついた。めまいに耐えているようだ。
とその時、大鷲がユーティティの元へ降り立つ。
大鷲の足にくくりつけられていた手紙。差し出し人は女帝の側近――星見の賢者だ。
ラーチスに促され、その手紙を読む。瞬間、ユーティティの手は小刻みに震え出した。その表情は驚愕と歓喜、そしてバツの悪さに塗れていた。
「ラーチス様っ……な、なんて言ったらいいか。だってこれは……」
「大教父が暗殺された知らせでしょう」
――わけがわからない。ユーティティの頭は真っ白になった。
暗殺された。いつ?誰に?どうやって?ラーチスの眠る間、やりとりしていた大教父は偽物だったのか?
「ご、ご存知で……?」
「ここまで綺麗にしてやられるとは……参りました。敵ながら見事です」
ユーティティは自問自答した。
(敵……ここでいう敵とは、一体誰のことをいうのだろう?私たちは、一体、何と戦っていたというの?
全貌が、影すらまるで把握できていない。何か大きなもの――)
「城攻めも暴動も、この峠で起きたことすべてが陽動だった。峠に目を向けさせ、大聖堂の武力を引き出し……さぞ、あれは昂ったでしょうね。私という邪魔者を、あわよくば始末できると思って。獲物を殺る瞬間の捕食者は、背後にいる上位者に気付けないものだから」
「すべて、大教父の命を奪るための……!この私が、利用された。知らず知らずのうちに誘い込まれ……馬鹿のように眠りこけ……」
わなわなと震え出す城主。
「ラ……ラーチスさま……」
こんな主人は見たことがない。ユーティティは自分を恥じた。主人がいぬ間の、あらゆる対処の拙さを痛感した。
ラーチスはやり込められた屈辱を一身に味わっていた。
(――後手に回った。完全に)
(峠のことだけじゃない。エンダーソンのこともだ。眠っていた間に、あそこが魔商連合に完全に囲い込まれていることは想像に難くない)
(大教父の処罰は、私の務めでなければいけなかった。今後、カルヴァドス派の手綱を握るために必要なことだった……!)
(何より……あの白い化け物を……!)
「……失態だ」
*
時はその頃より随分遡る。
聖者の寝所。冷たい石の柱が聳え立つ聖堂。篝火の炎があたりを照らし出す。大理石の床の上、折り重なった影が小刻みに揺れている。部屋の隅の影、死体がいくつも積まれていた。
聖堂の真ん中、汗ばんでいる聖者。
ひたひたと、足音を殺して聖者に近づく者がいた。
「――アンタみたいな下衆を殺せるなら、何度だって死んでやるわ」
顎を持ちあげ、銀の短剣で喉を切り裂く。流れるような手捌きだった。
「なんてね」
ぶふっと鳴いて、聖者はわけもわからずその場に倒れ込んだ。
「めかしこんで死んだ甲斐あったものね。簡単に入り込めた」
血を吐き出しながら、聖者は転がった。何が起こったのか理解できない――そんな表情が、みっともない。
「結界魔法で覆ったアンタの寝所。死人以外を通さないアンタを殺るために、一体どれだけの仕打ちに耐えたと思う?」
舌を突き出し、手を伸ばして救いを乞う姿。少女は男の舌を掴み引っ張った。
「あたし、カエルは見飽きたのよ?アンタみたいなブタガエルは初めて見たけどね?」
何度も突き刺した。脂肪のつまった巨体に短剣を、何度も。
パチパチと焚き火が弾ける。光が大理石の床に反射していた。血溜まりに滅多刺しになった聖者がひっくり返っていた。
少女は短剣についた血を、巨体の肉でこそいだ。当然血は落としきれず「うえっ」と顔をしかめた。
頬に飛んだ血飛沫を拭って、少女はぼやいた。
「ハア……当然、迎えに来てるでしょうね?……ネイメア」
*
また、時は少し遡る。
馬車の御者――に扮装した男が運転していた。
前方から馬に跨った騎士の群れがやってきた。先頭の女性騎士に呼び止められる。
「テュオ!任務は?」
「成功です〜今頃山門城の奴らてんやわんやしてますよ。それに城主さま、倒れたそうで。今が絶好のチャンスかと」
「よくやった」
女性騎士のマント、背負った紋章は大聖堂のそれだ。
「貴様の隣に誰かいなかったか?」
「いませんよ。じゃ、俺は急ぎますんで。あとはよろしくお願いします」
「了解した。ただ……報告は急がなくていい」
「承知しております」
テュオは大教父の寝所の様子を思い浮かべ、すぐやめた。
「ああ〜どっと疲れた。やっと気が抜ける、眠い〜」
「まだ終わってない」
隣には姿を消していたネイメアがいた。ローブのフードの影に顔が隠れている。
暗い山道、ごとごと馬車が揺れる。荷馬車の中で棺同士がこすれ合う。
フクロウの鳴き声や、風で草木がざわめく音を掻き消していた。
……不気味だ。
「ねぇ、気になったんだけど。あれってマジなの?」
テュオは無意識にか、人の話し声を求めて会話を持ちかけた。
「何が?」
「地下薬学とか、仮死薬とかって」
「当たり前だろ。オレは薬には詳しいんだ」
「さっすが売人」
「売りはしてねーよっ」
ネイメアはどこからか採ってきた果実をぽんと上空に放り投げ掴み取った。テュオの軽口を軽く受け流し、かぶりつく。
「ちなみに魔法的薬学ってのはないの?」
「んー普通言わない。魔法で発展したのはどっちかていうと医学……みたいな?だいたい根本的にぃ?魔法使えば一発なのに、薬使うって発想でないだろ」
「あーそういう?でもわざわざかけにいくの面倒だろうし、便利になっていいと思うけどなぁ」
「それだと不都合な奴もいるしな」
「……教会?」
「そう。太陽神教は''回復魔法''を独占してきた。その魔石――真昼の星っていうんだけど。ま、お前は知らないよな」
「……え?それ……」
テュオは自分の常識と照らし合わせて考えてみた。
太陽神教聖者にしか使えない癒しの奇跡――その原理は秘匿されている。「……マジかー」と漏らした。
「魔薬の治療も、それこそ回復魔法でもなければ無理だろうな」
「それ以外に方法はないものかねー」
「数百年の歴史が積み上げた回復魔法への信仰は重い。それでも……それをもってしても、根本療法が成るかどうかは正直微妙だな……魔法と魔法は拮抗する。拮抗、ないしは重複だ。結局、解式を明らかにするのが唯一の方法かもな」
「あればね?」
「……お前にしてはするどいじゃん。
そーいうこと。世間は幸福薬の隠語が魔薬だって思ってるけど、あれは黒魔術禁書には載ってない。例外なわけ。歴史的には割と最近できたもんだし、まだ分からないことが多い。解式があるとは断定できない。
なんなら魔薬に数えられてんのも、解明できないって意味からきてるって説もあるくらいだ。まあそれだと薬全体が魔薬になっちゃうけど……」
ネイメアの魔薬の知識量は異常だ。一介の貧民ではありえないほどには。それほど、深く裏社会と関わっているのだろう。
「黒魔術禁書ね〜俺も読んだらやりたくなっちゃいそうだな。好奇心でさ」
「バカ、あくまで魔法なんだぞ。代償があるんだ。だいたい理解できないもんをやろうとすんな。痛い目見る」
「代償?仮死薬の代償ってなんなの?」
「――知らない方がいい」
大聖堂が見えてきた。
ネイメアは早々に荷台に引っ込んだ。
棺が並び、重なる光景――ふと何がが横切った。
ネイメアは何者かの気配を感じ取り、棺の隙間に果実を放り投げた。
「……魔薬には代償がある。どれも精神を犯す類の代償だ。魔薬は精神に作用する。
黒魔術禁書には、仮死薬の代償についてこう記されてある――『死の追想』だと」
仮死とは何か?
仮に死んだ状態とは?
何もない。夢も見ない。目覚めてはじめて、あれは死だったと思い返す――生き返ることが前提になった概念。
仮死は生に分類される状態だ。
その代償は――死のイメージが固定されること。
「ふつう、死んだらどうなるかなんて誰にも分からないだろ。死んだことなんてないんだから。
それが、死の状態を少しだけ垣間見た……そんな気分になる。
――ああ、あれが死なんだ。何も感じない。夢も見ない。五感も思考も意識も感情も、何もない。
無。虚無だ。''虚無が死なんだ''。そう学習してしまう。
すると怖くなる。死ぬのが、より一層恐ろしくなる。それを覆すことはできないだろう。どんな思想も入り込む余地はないとすら言える。なぜなら、自身の経験ほど信じられるものはないのだから」
棺の影に、小さな動物の影が溢れ出す。特徴的な鳴き声……鼠だ。
「――そこに悪魔がつけこむ」
大量の鼠の影。増殖するかのように、ぼこぼこと盛り上がる。
「もちろん、仮死なんか経験しなくたって死は怖いさ。死ぬのは嫌だ。
だけど人間には信仰がある。悪いことすると冥道に落ちるとか、永劫魂は生まれ変わるとか。死後の世界を夢見て、想像した通りの死後を迎える……そんな空想の余地がある」
転がった果実に群がりはじめ、
「でも一度虚無を経験すれば、そうはいられない。怖いんだ。本能が、魂が、内側から駆り立てる。二度と死にたくないと」
それらが一個に凝縮する。
「甦るから、死にたくなくなる。人は生き返っちゃいけないんだよ。復活なんてもってのほかだ。
生の反対語は死じゃない。虚無だ。
人間の神は、死にたくないからできた。そしてお前らも、生まれは同じ――だろ?」
ぼうっと、巨大な影が現れる。
棺にかかる巨大な鼠の形をした影。
影の中の目が開き、白黒の瞳孔がきょろりと動いた。
「どこへ行く?」
「やあネイメア、また今度」
影はそう早口に言って、一回り小さな鼠に実体化し、一目散に逃げ出した。
ネイメアはその鼠の尾をぎっちりと掴み上げる。
「ふざけるな。ラッドラット、お前はどこにでもいるな。うんざりする。あの兄さんにはもう手を出させない。オレがそうした」
「え〜そんなのダメだよ。私が先に唾つけたんだよ?横取りなんて……」
「黙れこのクソ悪魔」
「口悪うぃ」
鼠はニィと嗤った。その口からのぞくのは、人間の歯だった。
「あ〜あ……なんでこんなとこにいるの?」
鼠を見下ろす金色の瞳が揺らいだ。
「――枢機卿猊下……」




