5-8.殺人の美学
前回までのあらすじ:
巨城壁の上、ネイメアはわざと城の兵士に存在を知らしめる。彼はアルバを囮のように置き去りにし、一人逃げ去ったようだ……しかし、それがきっかけでラーチスの予見が発動し、そのおかげでユーティティは岩尾根から退却した。生き残った別働隊の面々は、アルバは無事に帝都へ渡り切れるのか。
登場人物
アルバ:
巨城壁の上で絶賛ピンチ。
ネイメア:
秘密主義に見える。間違いなく悪人だ。
ニケラス・ヴォルフレド:
熔鉄隊の象徴ともいえる黒剣を使えない剣士。
ラーチス・オーディッド:
山門城城主。自分の魔法には負ける。
渡し屋:
峠の密行幇助人。悪事に加担していた。
(――どうして、どうしてこんなことに)
アルバは必死に足を動かした。
身をかすり、肉をえぐる矢の雨の洗礼。行手をはばまれ、それでも戻ることなどできないから勢いに任せて走る。
(信じろって言ったのに!)
信じてみるか――彼はそう言った。試すように、からかうように。
けれど、どこか信じてほしいと願うかのように。アルバには『信じろ』という命令と同じに思えた。
なのに、裏切った。人を信じてないだのなんだのと偉そうに言っていたくせに。
灯りを打ち上げ、兵士に密行をわざと知らしめた。
アルバを囮にして命の危険に晒し、その間ネイメアはあの不思議な力でひとり逃げていったのだろうから、これは明確な裏切り行為だ。
「信じさせてくれるって思ったのに――!」
アルバは顔を上げる。自然と城の兵士の顔が目に入った。流れる景色の中、彼らの表情だけが鮮明に浮かびあがり脳裏に焼きついた。
みな楽しそうだった。誰が獲物を仕留めるのか競っているのだろう。
笑っていた……笑われていた。
アルバが逃げているのを、空気をかくように無様に手足を振る姿を、間抜けだと、面白いと――
怒りとも悲しみとも違う形容しがたい感情が湧き上がるのも束の間。つい今し方放たれた一本の矢に、すべての感覚が引き摺り込まれる。
脇腹に確実に当たる軌道。動体視力が、その矢をやけに重たい動きに見せた。空気の抵抗にぶれながらも真っ直ぐ飛びかってくるそれは、確かな死の気配を纏っていた。
脳裏に浮かんだのは。
「ハク」
『待っていたわ』
「ア――」
一瞬にして、矢は白く霧散した。
白い少女が後ろから首に手を回す。優しく抱きしめてくる。肌に感触はないけれど、ただそうだと分かる。
『きっとまた呼んでくれると信じてた』
息が乱れる。自分の荒い呼吸音が顔周りに充満する。息継ぐ合間に、彼女の囁きがそっと忍び込む。
『かわいい、かわいい、かわいそうなあなたに――』
(入ってくる)
『私以外の魔法はいらない』
(抗えない……!?)
言葉に落とし込めない思念が流れ込むのを感じた。
『わかるでしょう? ねえ、わかるよね?』
それは衝動だ。
殺意に昇華されるもの。殺意で消化されるもの。
腹の奥底で煮えたぎるから、痛くて。吐き出さずにはいられない――そうとしか表現できない。
点滅する世界にめまいがして。悲鳴と混濁した耳鳴りがやってくる。ぞわりと鳥肌が立ったかと思えば、心臓が弾かれるように高鳴った。
やがて何もかもが消え失せた。
『――あなたはそれをしてもいい』
いつのまにか足は止まっていた。いつのまにか左手を城の方へ向けていて、いつのまにか腕は白く変貌していた。
『そうしたいと思う時、あなたはそれをしてもいい――そういうもの、だから』
そして信じた現象が現実のものとなる。
その魔法は、不恰好で冷え切っていて刹那的で容赦なく。まるで波のように城へ押し寄せた白い空気層が、触れた瞬間人を散らばらせた。
散った白い粒を、風がさらってかき混ぜた。
弩の撃ち手は一人もいなくなって、回廊は静かになった。
「こっちの方がいい……」
久々に思うがままに振る舞えた気がした。ひどく、ひどく心地よかった。
それが何に対してなのか、彼にもよく分からないけれど――
*
「兵長、どうします?獣士団に加勢しますか」
「あいつらはいいよ。またこっちに敵が来ないとも限らないし、待機で」
兵長とその部下は、早々に巨城壁の見える地下の回廊――持ち場を離れ、詰所でサボるために上階へ向かっていた。
「兵長!兵長兵長ぉッ!」
慌てた様子で彼らの前に飛び込んできたのは、帝都側の城門――砦とやりとりする兵士の一人だった。
「大変です、城が囲まれてます!」
「はい?」
「暴動です!!東門に貧民が押し寄せてますっ!砦から連絡があって……魔具の具合が悪いので、ラーチス様に直接申し上げたら、倒れてしまいました!」
「倒れたぁ?なんだよそんなことで。神経細いな」
とは言うものの、この機会に恩を売っておくのも良い。そう考え直して、
「しゃーない、城主様をお守りにいくか」
兵長は数人の兵士を連れて、城の最上階――城主の私室へと向かった。
さて、矢の洗礼を生き延びたアルバの方はというと、
「はあっはあっはあっ……!!」
巨城壁の先に繋がる砦。その外壁の上にやっと差し掛かろうとしていた。
背中を丸めて荒い呼吸を繰り返す。よだれが唇の真ん中から垂れた。
アルバは地獄を切り抜けた実感を得るために、地獄を思い返した。
道中何度か足を滑らせ、その度に死の恐怖に直面した。恐怖の余韻は、今もがくがくと笑う膝に如実に表れていた。
無事に抜けられたのは奇跡か……
「――お前……」
顔を上げる。置いてきたはずのカンテラを手にしたネイメアが目の前にいた。
「ネイメア……!!」
「どうして?」
「……どうしてって、ここまで逃げのびたのがそんなに意外?」
アルバは嫌味たっぷりに言い返した。
が、影のかかったネイメアの表情の無機質さにひるむ。
「何をした?」
「きゅ……救世主の力だよ。君は信じてなかったろうけど」
「……」
沈黙に気まずくなって、アルバは初めて自分が意図的に''力''を引き出したことを自覚した。
これまでハクアに言われるがまま、誘われるがままに手をかざしていた。まどろみ半分の現実の中で。
「あまり使いたくなかったけど、死にたくなかったから、仕方なかった」
しかし、今回は違った。とてもハッキリしている。意識がクリアだ。
魔力が体をめぐる感覚。すみずみまで引き潮のように遠のいて、集まれと念じると滞りなく収束する。
これが魔力。第六感を掌握した。
「やるべきことをやったんだよ。
そんなことより、なんであんなことしたの……」
アルバは問うて、すぐ息を呑んだ。
彼の不思議な表情。口角はひきつっていて、笑っているのか笑っていないのか判断できない。冷や汗が伝っている。
「どうしたの?……」
アルバは自分でも理解できなかった。
どうしたの、なんて滑稽だ。ネイメアはアルバを殺そうとしたも同然なのだ。自分を殺そうとした相手に、どうしたの、なんて。
「――うまくいったろ?」
「……え?」
ネイメアはからっとした様子で言った。神妙な面持ちが嘘のように消え失せ、すべてを冗談みたいに流していた。
「信じろって言ったじゃん」
「信じて殺されかけた心地だけど!?」
ネイメアはくるりと背を向け、何事もなかったかのようにアルバを先導した。
全力疾走を遂げたあとだからか、アルバはこの狭い道を進むことに全く恐怖を感じなくなっていた。
(あの力のからくりを知らないと、また利用されかねない……)
アルバはぐっと顎に皺をよせ、熱い視線を彼の背中に注いだ。
「アルバのおかげで、オレは奴らに身を晒さずに済んだ。ありがとう」
「えっ?」
思いがけないお礼の言葉に、アルバは面食らう。しかし同時に、なぜだかむずがゆくなった。
「そこは……ありがとうよりごめんでしょ」
「ごめん?なんで。分かっててやったんだ。謝るくらいならやるなって話になるだろ。……」
アルバは何も言えなかった。
一体なぜネイメアはこんなことをしたのだろうか。光を放って、わざわざ存在を敵方に教えるような真似をした。その理由……皆目見当もつかない。
人を危険に晒しておいて悪びれもしない。背中を刺されかねないのに、無防備なそれを晒す。彼という人間がよく分からない。
(……なんだかドキドキする)
それは奇妙な感覚だった。危機を切り抜けた高揚感のせいだろう胸のざわめきが、むずがゆさにかき消される。
ふと顔を上げると、ずっと先の方に篝火が見えた。砦の上にちらほらと人影が動く。
「あれ、向こう岸?」
その手前――アルバたちがゆく道の終点、砦の屋上に繋がる壁の上。道を彩るかのように、火が一列に並んでいる。人が松明を掲げているのだ。
「砦の兵士だ。壁の騒ぎを聞きつけて様子を見に出てきたんだな」
「にしてもなんで壁の上にまで……」
屋上から飛び道具で突き落としてしまえば済むものを、なぜか兵士らは壁に乗り上げてまで密行者を待ち構えているようだ。おかしな光景だった。
「あそこまで出てこられると斬り合いは避けらんないんだけどなぁ」とネイメアは呆れ半分にぼやく。
「ま、いいや。今度はオレに任せろ」
「え、これ信じていいやつ?てか信じられると思う?」
「それ以外に選択肢あんの?一応さ、オレだって悪いとは思ってんだぜ。でもあれ以外にお前を連れて行く理由が思いつかなかったから」
「理由……?」
「そうだよ。お前、クロエドが役に立たないとふんで切り捨てただろ?でも助けはほしいから、オレに目をつけた」
「……!」
……アルバは思い出す。
死霊団の作戦会議を出て行ったネイメアを追いかけようとしたその時。
扉に差し掛かった時、一度振り返った。
クロエドはアルバのことを一瞥もしなかった。まるで興味がなさそうに。
今思えばあの時、また彼に背を向けて走り出した時に、クロエドの道とは分たれたのだ。
「そういうんじゃないよ……」
「お前にあっても、オレがお前の面倒を見る理由はどこにもなかった。
でもお前はオレに何も差し出さなかった。自分の有用性を、示そうとしなかった。オレにゆだねたんだ。だからいいように扱われたって仕方ないだろ?」
かっとアルバは顔に熱がこもるのを感じた。少なからずあった打算を見抜かれ、呆れられた……そのことを反射的に恥ずかしいと思った。
「今まではそれで良かったかも。でもここはもう帝都だぜ?おもりだって自ら手放したろ?――甘えんなよ、救世主様」
「ッ好きで!こんなとこに来たんじゃない……!」
「ならなんで」
「……った、頼まれたから」
「頼まれたから?」
「い、いや、違う……ボクは……」
アルバはそれ以上何も言えなかった。
「……ここまできたんだ。お前を連れてってやる。でも、全部。それでチャラだ」
いいな?と。それは濁してはいるものの、はっきりとした拒否の意味だった。
『これ以上、ついてこられては困る。これで貸し借りも関係性もチャラにしよう』……アルバは俯くしかなかった。
*
「よしきた!密行者ッ!」
兵士は、巨城壁の道の奥で朧げに揺れるカンテラの光を捉えて叫んだ。
砦を守るタルタニヤ兵のうち、数人が巨城壁を渡る密行者の確保を命じられていた。他の兵は砦に押し寄せる暴徒の迎撃に回っている。
彼らは一列になって壁の上をへっぴり腰で進む。縄で互いの体を結び、砦の壁柱にしばりつけて命綱としている。
「俺が投降を呼びかける!相手は子どもだ、がっちり掴んでやる」
「そのあと袋叩きだ!」
「ここまでしてやってんのを見れば、絶対油断する。絶対絶対!あの世にだって逃すわけにはいかなぁい!」
「でなきゃ城主様にどんな目に遭わせられるか……!」
先頭の兵士が喚くと後続が呼応する。やけにハイだ。大真面目にふざけている。明らかに酒なり魔薬なりを煽っている様子だった。
その時、薄暗がりにカンテラを手にした子どもが現れた。
城から飛ばされた伝書鳥――兵長直々の書き殴りの令書にあった通りの風貌だ。
十代前半の少年。心配そうな顔つき。立ち止まって、おずおずと身を引くそぶり。
慌てた彼らは「待って!」「おじさんたち、君を待ってたんだよ」「おいで、おいで」と三者三様に手招きした。
「あの……ごめんなさい!」
少年はそう叫ぶと、カンテラの火を一気に消した。
すぐそれに続くようにか、兵士が手にしていた松明の火が順々に掻き消える。
強い風に煽られて、兵士らは後ずさった。
砦の屋上、城壁に取り付けられた篝火も次々に消え失せた。
より一層濃い暗闇が彼らを襲う。雰囲気は一変し、本能が警鐘を鳴らしはじめる。
暴徒が砦の門を丸太で破壊しようとする音だけがあたりに響いていた。ドン、ドンと――心臓の鼓動に重なる。
「灯りを点けろ……」
先頭の兵士が、そう後ろに命じながら松明の火を点けなおす。
その瞬間、後ろから肩を掴まれた。
「たいちょう……」
その呻き声は崖底へと落ちていった。
振り向くと、そこには首から上をなくした部下がいた。
「お前ぇ、なん……大事なもん落としちまったのか?」
部下の体から力が抜ける。死の気配が縄を伝ってきた。先頭の隊長と呼ばれた兵士は、反射的に縄を切った。
「縄を切れ!」
命じるが、自分以外は間に合わなかった。
死体がおもりとなって、壁上から落ちる。城壁に沿って円を描きながら。後続を道連れにして。
「――いつの時代も薬はなくならないものだな。時代が病んでいる」
その囁きに隊長の鼓膜が静かに震えた。
耳を押さえ、辺りを見回す。宙吊りになった部下を気遣う余裕はなかった。
「なんだ……?闇の中に、何かいる」
ずい、と何者かの金色の瞳孔が迫る。
虹彩の模様が分かるくらい、近く。
闇に紛れる金目の魔――男はその正体に思いあたるものがあって、
「お前は……」
気づいてしまって、
「――闇の谷の……!!」
言いかけて、
「――か、開門!!ひ、東門がッ……!開城されました!!もうすぐそこまで暴徒が押し寄せてます!」
息を切らす兵士の報告に、兵長は部下と顔を見合わせた。ちょうど城の階段の中腹にあたる廊下でのことだった。
「なんだって?」
「内通者です!内側から開け放たれて、砦の兵士とは連絡が取れな――」
兵長は急いで近くの窓から城門の方を見下ろした。格子の合間に、砦の方角から引き寄る人の波……
「獣士団は?」
「あっちはあっちで手こずってます、割く力はありませんよ」
「ユーティティは?」
「あの方は一点から動かないでしょうね」
「助力を……大聖堂に」
「間に合いますかね」
兵長は顎髭を撫でた。下唇をぐにと巻き込んで、撫で下ろした。
「どうなってんだ……?これ、落とされるんじゃないか?事実上初めて、城主様が……文字通り、寝首をかかれる」
*
キイキイと舟を漕ぐ。淡々と舟を漕ぐ。彼岸此岸の小競り合いには目もくれず。
「これで最後だ」
途中、城内部に続く桟橋に舟をつける。
形だけの検問だ。使い古された防毒マスクを装着した兵が中身を確かめる。
「やっぱり死んでるな」
手の甲で死人の頬をはたき、呼吸の有無を確かめる。手荒なやり方に渡し屋は眉を顰めた。
「やっぱり?」
「実は城主様直々にお達しがあってな。よく調べるように、と。今夜ついに、お前が裏切るんじゃないかと目を張ってたわけだが」
「杞憂だったな」と兵は煙草をくゆらせた。
「言ったはずだ。俺が渡すのは後にも先にも――」
「死人だけ、な。ご立派。聞き飽きたよ」
兵士は酒瓶を渡し屋にやった。開いた瓶に半分程度、酒が残っていた。
「なあ、ここから逃げ出したいとは思わないのか?俺はな、こんな汚い仕事、もううんざりだよ」
その酒は彼の仕事のお供だろう。桟橋から見える詰め所、テーブルの上には酒瓶が散乱していた。
「俺はお国に仕える兵士だから、配置された場所で嫌でも働かなきゃいけないけど。お前は違うだろ?なんでこんな仕事に甘んじてるんだよ」
「誰かが引き受けねばならない」
渡し屋はその場で酒を口にした。一気に飲み干す。かっと喉が焼けるような感覚。
そして酔いが回らぬうちから、彼は弱音を吐き出した。か細く、弱々しく。
「だがそれ以上に、俺はもう、生者を送りたくはない」
「え?」
――とっくに気をやっていた。酔わなくたって、気をやっていた。酩酊だ。この薄汚い世界に乾杯。
生者を送ったはずなのに、死人が帰ってくる。
わかってる。
北で朽ち果てる戦士がほとんどだから、体の原型をとどめて、しかも故郷へ帰れる彼らは幸運な方だ。
それでも彼らには帰ってくることを望む家族がいることは確かで。みな未来ある若者ばかりだった。
そんなことを、舟を漕ぐたびに突きつけられた。
良心と理不尽の狭間で、引き裂かれるような思いに苛まされた。送ることは殺すことと同義だった。
内界に帰る頃には、とっくに心は決壊していた。
もう、生者は送りたくない。命令だったとはいえ、死地へ人々を送り出してきた罪を思い出して、辛いから。
兵役を終えたのち、峠で棺を送る仕事についたのもそのためだ。
峠の先には大聖堂という救いの象徴があって、山からはその姿がよく見える……棺を送り見届けることで、少なからず罪をあがなっているつもりになって、そこに救いを見出すことができた。
「あの時のこと、後悔してるのか」
あの時――あの苦い思いが蘇って心のうちを踏み荒らす。
密行幇助の始まりは、事故だった。
いつも通り運ぶ棺の中に、密行者が勝手に紛れ込んだのだ。
瘴気のことを知らなかったその人は中で死んでしまい、棺の主の体の上におっかぶさった状態で、検問の兵士に見つかった。
当然兵士に密行幇助を疑われた。
しかし、他でもない城主に庇われた。
『あなたの勤勉ぶりは私の耳にも届いております。疑うはずもありません』
雲の上の人に認められた気になって、天にも昇る心地になった。
『わざと罠を敷いたのですね。素晴らしい手腕です。が、一言提案してくださればよかったのに』
すぐに突き落とされたが。
……今だから分かる。城主は無実をちゃんと見抜いていた。
決して少なくない密行者は、城主にとっては悩みの種で。彼らは死に物狂いで、城主や城の内情を探る。絶対に知られたくない弱点がある城主にとっては、到底面白くないことだった。
そんな時、棺の中身を見たことで、このような罠を仕掛ければよいのだと思いついたのだろう。
『ぜひとも……』
城主は無実を見抜いた上で、わざと罠を敷いたのだと褒めて、さらに同じようにして密行者を捕らえ続けろと迫った。
できないのなら有罪とみなして囚人にしてやる、そして北の地へ送る、と。そう遠回しに脅した。
北の地で悲惨な死を遂げた囚人の死体が、頭をよぎった。ゴミクズみたいに散らばる、まるで消費物みたいな彼ら……
結局城主の言いなりになったことを誰が責められよう。
「――後悔している。密行に気づいていれば。あれさえなかったら、こんなことをせずに済んだ」
仮死薬の小瓶を握りしめた。
霊薬と名高き''仮死薬''を密行者に渡したのは、自分なりの最後の良心のつもりだった。
実は、検問に至るまでに瘴気で死にきれなかった事例が、割合的には少なくなかった。そういう耐性のある異種族……彼らは城の地下で死ぬより辛い拷問を受ける。
せめて眠るように死なせたいというのは……願いであり、救いだ。
もちろん、中には疑いを抱く密行者もいた。そういう者には他のルートを教えてやった。
どうせ抜けられないのだから、どのルートでも同じことだ。
ただ、高く険しい崖から転落したり、巨城壁の上で弩に狙われ嬲られたりするよりも。
他のどんな死に方より自分のやり方が一番マシだ。
そうだろ。
「時々疲れて座りたくなる……」
違うか。
死霊団への協力を拒んだ理由は自身にもわからないほど複雑だ。
頭領を名乗った男は、愚直な若者だった――ふと、昔北へ渡した若者を想起させた。
事情を包み隠さず、初対面の自分に喋った。
帝都の''裏会''、亡国の復讐、女帝殺し……とても想像が追いつかない大きな陰謀を、つまびらかに。
そんなものに関わりたくない。
死霊団の作戦を知った時……認めよう、自分は臆したのだ。
ただ恐怖だった。悪行を重ね、下手な言い訳をして、より一層の自己嫌悪に首をもたげる。そんな、心が擦り切れる寸前、気力なんてとうになくて。
だから何もしないことを選んだ。
どうせ城主のことだから、こんな大掛かりな計画くらい見抜くだろう。そこに自分ごときが関わる必要はないと思った。
でも、本当は。
ここで勇気を出してしまったら。
どうして今まで勇気を出せなかったのだろう。そう責めたくなって、いっそう自分が憎くなってしまうではないか……
でも、だけど……
……ただ、何度も何度も願った。
渡した死者が、起き上がったらどんなにいいだろう。起き上がってありがとうと言って、光の先へ進んでゆくのを見届けられたら、どれだけいいだろう……
渡すのは死人だけ。でも、本当は血の通った温かい生者を……
そんな何度もかき消した願いが、この小瓶いっぱいに込められて……
(……だったらなぜここにいる?
誰かがやらねばならないからと、勝手な使命感を盾にして。ほんの少し、救われた心地になりたいがために、さらなる苦しみをこの身に受けて……
俺は一体、何のために……
俺は一体、何をしているのだろう…………)
「――少し休んでいくか?今夜は数が多かっただろ」
現状に甘んじ、悪事に魂を汚し、良心にむしばまれ、矛盾にがんじがらめになって、どこへもいけない。
「いや。もう行くよ」
誰か殺してくれ。
誰か。
キイキイと舟を漕ぐ。淡々と舟を漕ぐ。彼岸此岸の小競り合いには目もくれず。
(不思議と、良い気分だ)
「――これで最後か」
渡し屋は棺を舟から引きずり下ろした。周囲には同じように運び下ろされた棺がいくつも並んでいる。
まだ大聖堂からの迎えの馬車は到着していないようだ。
「やっとか」
そう言って棺を蹴り押したのは、約束を交わしたあの少年だ。
約束。彼は、いつも通り棺を運べと言った――
「約束通りだな。特に問題なかったろ?」
――その通りにした。
ああ、と覇気なく渡し屋は答えた。
その時、ガラガラと車輪の音が響いた。
一台の荷馬車が近づき、何者かが御者台から飛び降りた。その人に向かって、少年がわめく。
「あ!遅いんだよお前!サボってんじゃねーだろうな!?」
「すみませんて!いやー門を開けたはいいものの、もみくちゃにされてさあ。馬車もやっとの思いで取ってきたんだよ」
「だいたいお前は……!」
馬車を連れて現れたのは、騎士らしき青年だった。
マントに描かれているのは大聖堂の紋章だ。少年の知り合いだろう。
渡し屋は彼らの会話を聞き流して、どこかせわしなく、ぎこちなく視線を動かした。
「何?期待してんの?」
「……いや」
少年はハッと軽蔑混じりに笑った。
「仮死薬なんて与太話を聞いた時から疑問だった。そんなタマかよって」
「……どういう意味だ」
「死人に起き上がってほしいなんて乙女思考、マジで持ってるわけ?」
渡し屋は口を開きかけ――




