1-2.
森を出て村の入り口、木のアーチに辿り着いた頃。日は落ち切って、辺りは暗くなっていた。
引きこもり同然の彼らは体力がすぐに尽き、アーチの柱にもたれて肩で息をしている。
セイカは家から持ってきていた携帯灯を点けた。
「おーい……」
汗を拭い顔を上げる。外灯が声の主を照らしていた。
「おじいちゃん!」
二人して祖父の腰に抱きついた。
「おーほほほ、おかえり。また森に行ってたのか。禁足地には入ってないだろうな〜?」
「入ってない!」
セイカが躊躇いなく嘘をつくのでアルバは少し安堵した。自分は嘘をつかなくていいからだ。
祖父の両側に回り、手を繋いで帰路に着く。
外灯に照らされた石畳。
奥地にある丘の上の我が家まで誘うように連なっている。亀裂の入った石畳を除ける遊びをしながら歩く。
「族長、お早いお帰りですね。どうぞ、お嬢さんたち」
露店の通りに差し掛かると、店主が族長に声をかけ、両脇の子どもたちに飴を渡した。
「ありがとう!」
アルバは受け取ってすぐ頬張った。セイカは祖父の脇にぴったりくっついて頬を赤らめながら小さくお礼を言った。
「これ、一本だけな。お母さんの作った夕食が入らなくなってしまうぞ」
「育ち盛りですから、これくらい大丈夫でしょう。な、坊や」
「坊やじゃないよ! もう立派な大人なんだ」
「そういえばお嬢さんはもうすぐ成人の儀。楽しみですな」
祖父は人望のある族長でもある。
隣にいれば今みたいにおやつを貰えることもある……アルバはにっこり笑った。
露店を抜ける頃には、アルバはバリバリと音を立てて飴を噛んでいた。対してセイカはちまちまと舐めている。
「ねーぇ、おじいちゃん。成人の儀って何するの?」
「アルバも大人になる時分かるじゃろうて」
「他の子も一緒に受けるの?」
「うむ。同年と協力して受けるんじゃ」
「ワタシ……嫌よ」
セイカが足を止めて言った。
「同い年の子たち、意地悪だもん……」
セイカの同年の二人はどちらも男子で、変人の彼女とは合わなかった。
彼らだけとじゃない、子どもの少ないこの村のたった一つの学び場にセイカは馴染めなかった。
繋いでいた手を離して言う。
「やらないからね、そんなのなくったって大人は大人だし……!」
「セ──」
「ねー! あれどうしたんだろっ」
祖父がセイカを咎め出す前に、アルバが声を張り上げて指差した。
暗がりの中、数人の大人がたむろっている。ちょうど丘の麓の辺りだった。
「あれは……」
「あっセイカ!」
セイカは丘の向こう側、裏口に続く道の方へ走っていった。
自分のついた悪態に居た堪れなくなったんだろう、とアルバは思った。
「どうも恥ずかしがりで困るの。どれ、行ってみるかな」
裏道は急な階段になっていて、中腹には階段の脇に腰掛けられるくらいの段層ができている。
きっとそこに向かったのだろう。そこに座って、谷間からのぞく月を眺めるのがセイカは好きだった。
(この村を飛び出して、学者になる……きっとそんな夢をずっと見てる)
ローブを纏った男たちの一人が、振り返って祖父に話しかけた。
「族長、何かご用がおありですか」
「いや用は……」
黒い前髪をあげた男の額に生えた、祖父とお揃いのくすんだ金色の角はひどく目立っていた。
男が片手をサッと振ると、集っていた人影が離れた。
「何かあったのかね?」
「報告はまとめて致します。いつも通りに」
「今日は家に帰るのだな? 息子よ」
「不純物を取りのぞかぬ限りあり得ない、と私は言ったはずですが」
男は冷たい目でアルバを一瞥した。
「お前はいつまでも……アルバ、先に帰っていなさい」
促される通りに足早に離れた。
セイカの叔父にあたるその男の冷めた目つき……慣れることはないだろう。
「後ろに立たないでくださるか」
「相変わらず背後にばかり気を取られおって、お前がこちらを向けばいいだけの話だ」
坂を登ることだけ考える。
途中、呼ばれるように一度だけ振り返った。
坂の下に白い影がゆらめいていた。
目にしたものを認める訳にはいかないと、気づかなかったふりをしてアルバは前を向いた。
進む速度が鼓動に合わせてだんだん早くなった。
(やっぱりおかしい。夢、ただの夢だったはずなのに……!)
最後の方には走っていた。
慌てた手つきでドアノブを回す。ガチャガチャと音を立てた。
「な、なんで!?」
すぐ後ろにまで迫っているような気がする。
開かない、開かな――
「待って、すぐに開けるから」
聞き馴染みのある落ち着いた声色だった。
「もう。壊れちゃうでしょ」
「なんで鍵閉めたの! 母さん!」
金髪を頭の後ろに一つに留め、毛束は肩を通り胸の辺りまで垂れている。暖色のエプロンの花柄に、昔セイカが飛び散らせたトマトスープの小さな染みが混じっている。
「鍵は閉めないと。悪いものまで迎え入れちゃ嫌でしょう」
毛束を手の甲で背中にはねて言う。
母がアルバの後ろに目をやった。瞬間、どっと汗をかき体が固まった。
「あらお父さん。早かったのね」
「おじいちゃん!! 気配消して後ろに立たないでよ!」
「お、すまんの……」
「早く! はやく閉めて!」
「どうしたのこの子ったら」
扉が閉まる途中、夜闇の中に白い影が変わらず揺らいでいるのが見えた。
*
「さ、神様に感謝して。お祈りしてね」
母の作った夕食がずらりと食卓を埋め尽くしている。隣に座ったセイカが俯き目を瞑って両手を組んでいる。
村人は信心深く、朝晩の食事の前には必ず神に祈りを捧げた。
(美味しいご飯は神様じゃなくて食材と母さんのおかげ。そっちに祈ってるのは内緒)
アルバは母親と自分の血肉となる材料に感謝して祈った後、口いっぱいに詰めこんだ。
「ゆっくり食べるのよ」
アルバは背がセイカより低いのが嫌で、早く大きくなりたいと思っていた。努めて小さな胃袋にものを詰めるようにしていた。が、母の忠告を素直に聞いて少し速度を落とした。
母は曽祖母にものを食べさせ、自分の食事は後回しにしていた。アルバが代わろうとしても、いつも『作る途中味見いっぱいしてるからいいのよ』と言う。
セイカはゆっくりというよりのろまに具材を選んで口に運んでいた。
「セイカ。好き嫌い」
シチューのにんじんを避けているのは明らかだ。セイカは眉をひそめ、にんじんをよりのろまに咀嚼した。
(いつも思うけど、さっさと飲み込めばいいのに……)
食器同士が擦れる音だけが響く。
「そうだ。お父さん、セイカの成人の儀のことだけど……」
沈黙を破ってくれたのは母だったが、その話題が最悪だとアルバは思った。
「占星で今年の13月は……」
「わたし、儀式はやらないわ」
アルバはごくっとパンのかけらを飲み込んだ。
「どういうこと?」
「どうもこうも、そのままの意味よ」
「それじゃ分からないわね。説明するのよ」
「……」
「母さん、あなたが集いに来ないのは責めないわ。 勉強は家で母さんが教えてあげられるし、人付き合いは働き出せば嫌でも学ぶでしょ」
母は学舎(竜族の学校のことだ……)で子どもに物を教える仕事をしている。
毎日朝から昼まで働き、帰ってからはセイカやアルバに教え、家事をこなして家族の面倒をみる。
端的に言えば''疲れて''いるのだ。
その呆れ顔や冷たい声音は、多感な年頃の一人娘に向けるには強すぎる。
一触即発の空気を感じ取ったアルバは二人の争いをなんとか止めたいと思った。
「でもこれは違う。これはあなたが私たち竜族の一員だって認められるのに必要なことなのよ。できなきゃ良くて追放よ、分かっているの?」
「分かってる、出ていけばいいって話でしょ? 同じ歳頃で従兄弟は出ていったんだから、ワタシも」
「誰にどこまで聞いたか知らないけど、あの子は特例よ。あなたはそうじゃない、うぬぼれはよして」
「……じゃあ今から特例になってあげる」
(一員だと認められる……? じゃボクには儀式いらないのかな)
考えたことをすぐ口にするきらいがあるアルバの考えは喉まで上がる。そして詰まった。
見たこともない義理の親の表情に臆したからだ。
視線の先にはセイカが持ち出したのだろう巻き物が。
「それはなに――」
「外に出たら死ぬ」
祖父が肉を切りながら無粋に言い放つ。片腕は名誉の負傷とやらで動きにくいためキリキリと皿を鳴らしていた。
「大げさだよ」
「言い換えよう。必ず殺される」
「……外界には魔物がいっぱいいるってこと? 知能の低い生き物なんでしょ、どうとでもなるよ。それにアルバもいるから」
「え?」
アルバはセイカの言葉を思い出した。『だから、ついてきてくれるよね』とのあの不可解な言葉。
(ボク!? ついてきてってそういうこと!?)
バン、とテーブルを叩いて母が矢継ぎ早に攻め立て始めた。
「私は随分あなたを甘やかしたようね。ナイフ一つ扱えない、戦い方も分からない子ども二人でどうやって生きていくというの? 物事には順序というものがあるのよ」。
「あなた達が今学ぶべきは文字の読み書きと簡単な算数と生活の知恵、そして生きるために必要な分だけの処世術。歴史や神学は成人したら!」。
「それがこの村の教育よ。何百年と続く後続の育て方、実に合理的なね!」。
負けじとセイカも言い返す。
「合理的? こんな窮屈で窒息しそうな山奥に死ぬまでこもらせるための合理? ここにいるのは竜族だけ、似たような毎日が過ぎて……! 本当は大人になろうが何だろうが、わたしたち一生ここから出られない……」
感情が昂り、ひとりでに流れる涙。粒が重なって小さな水たまりを作った。
「っほら厄介払いできて、叔父さんも戻ってくるし嬉しいでしょ?」
アルバはその言葉を聞いて少しだけ傷ついた気がした。
不純物という言葉が頭をよぎった。
「……」
場が沈黙に包まれたかと思うと、異様な空気を察知した。
その方を見ると、拳を握ってわなわなと震える母親の姿があった。
すると突然セイカのそばにあった暖炉の炎が燃え盛った。
火の粉がセイカの右半身に散りばめられる。
「あっ……!!」
後退りし食器棚にぶつかった拍子に何枚かの皿が落ち割れた。
「インシオン! 落ち着きなさい、娘を焼き殺す気か!!」
一喝に我に帰った母は「あっ」と一転青ざめた顔色になった。
暖炉の火は小さく燻る。引火したセイカの服の裾や淡い水色の髪の毛を見て、
「水だアルバ……」
祖父の指示より一歩早く、アルバは側にあった水差しの中身を慌ててぶちまけた。
セイカの頭には毎朝母が生ける花が乗っていた。
アルバが水差しだと思っていたそれは花瓶だった。重さのある花瓶が足元を転がる。
火は消えて、焦げた臭いがうっすら漂った。
「セイカ! 大丈夫、ごめんね……! すぐ冷やさないと!」
母がセイカに駆け寄る。伸ばした手をセイカははじきとばした。
「もういい! もういい〜!」
頭の上の萎れた花を投げ捨てる。ちょうどアルバの顔に当たって張り付いた。
セイカは部屋を飛び出して、階段を駆け上がっていった。
「……今の何?」
アルバは花を握りしめながら祖父に捲し立てた。
「火がいきなり手みたいになって掴もうとして……! 今のって……どうやったの!?」
「……お前は大物になるなぁ。どれ、アルバ。ごらん」
祖父は手のひらを上に、人差し指をクイと引いた。
花瓶の水が染みた絨毯。
そこから拳ほどの水の玉がいくつも浮かび、宙を漂った。
祖父に促されて、花を放って花瓶を拾う。水玉は細口につっかえつつ、吸い込まれていった。
「魔法と呼ばれる危険な代物じゃ」
花瓶のずしりとした重み。
自分の顔はさぞ期待に満ちていることだろう、とアルバは思った。
「ボクにもできる?」
「残念ながら無理じゃ! これ以上は学舎でお母さんに教わりなさい。セイカのとこへお行き。追いかけてくるのを待っとる」
アルバは少し考えてから、側の棚を漁って薬箱を取った。
ためらいながら言った。
「あのね……追いかけてきて欲しいのはボクじゃないんじゃないかな……」
「それは……」
割れた皿の破片を集める母に向かってアルバは両手を伸ばした。
かたわら、族長は別のものを見ていた。
放られた、一輪の黒く萎びた花。食卓を色鮮やかに飾っていたものの変わり果てた姿だった。
(呪われた人間の……)