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6、天龍寺文書の発見

6、天龍寺文書の発見  


 あの日以来、山田君は毎日のように杉下のところへ現れるようになった。山田君は2年3組の生徒だが、あまり友達は多くない。福井大学医学部近くの閑静な住宅街に住んでいるらしく、小学校低学年の時、父親の転勤で京都から転校してきたらしい。知能が高く成績は優秀。友人と呼べる生徒は少なく、一人でいることの方が多い。今日も部活動の時間になると美術室を抜け出して職員室に来た。杉下を見つけると小走りに近づいてきて、町立図書館で『徳川実記』を読んできたことを話し始めた。

「結城秀康と徳川家康の間では100万石の約束が交わされていて、関ケ原の戦いの功績でとりあえず越前松平藩は68万石が与えられたが、将来的には加増して100万石にするという約束だったんです。だから、忠直の兄弟で独立していった弟たちは越後高田藩忠昌が25万石、大野藩直正が5万石、勝山藩直基が3万石、木本藩直良が2.5万石全部合わせると100万石をわずかに超えるんです。」と目を輝かせながら報告してくれた。たしかに杉下も『徳川実記』で秀康の記述の中でその約束についてみたことを覚えていた。


 「明日の放課後、松岡藩菩提寺「天龍寺」へ行ってみないかい。松岡小学校の隣だよ。松平昌勝の木像があるんだ。御開帳はしてくれないかもしれないけど松尾芭蕉の句碑は見れるよ。どうだい。」と聞くと山田君は

「ネットでは天龍寺を見たこともあるし、昌勝の木像も見たことがあります。でも実物は見てないので是非行ってみたいです。」と了承してくれた。

「それじゃ、美術室で活動もしておいで。部活動も大事だからね。ただ明日は歴史探求部という事にしよう。」と言うと

「はい。」と返事をしてにこやかな笑顔で職員室を出て美術室に向かっていった。知的探求心が強く、好きなことにはとことんのめり込むわかりやすいタイプだが、その才能を伸ばしてあげられるかどうかは周りの大人たちの責任だと杉下は退職前から考えていた。大きな可能性のある子どもの才能を伸ばすことが教師の仕事なのに、個性的な生徒は淘汰され、みんなと同じことを我慢してできるようにしてしまう。山田君との出会いはこのことを気づかせてくれた感じがしていた。


 職員室で明日の準備をしていると三田先生が部活動から戻ってきた。明日、山田君と天龍寺に行くことを知らせると、

「私も行きたいです。」と言って一緒に行くことになった。


 翌日の帰りの会終了後、山田君は美術部の先生に休むことを連絡してから杉下のところに来た。3人で歩いて5分くらいで天龍寺に着いた。すると、年配の男性が一人境内で芭蕉の句碑を眺めていた。山田君が

「おじいちゃん。どうしたの?」と言ってその老人のところへ駆け寄っていった。

「杉下先生ですか。山田哲郎の祖父です。先生のことは哲郎からよく聞いております。いつも哲郎に興味深い話をしてくださるという事で有難うございます。今日は哲郎から放課後に天龍寺に行くと聞いて、私も見てみたいと思い、来てしまいました。どうか一緒に参加させてください。」と挨拶された。哲郎君のおじいちゃんと言えば京都大学文学部の歴史学の教授だった方のはずである。杉下の方が緊張してしまった。三田に至っては孫の社会科を教えている教師が郷土の歴史について何にも知らないことを知られるのがつらいと感じてしまったようだ。杉下は

「哲郎君のおじいちゃんは歴史学が御専門だったと哲郎君から聞いております。こちらの方こそいろいろ教えてください。」と挨拶を返した。おじいちゃんは

「息子の転勤で福井についてきましたが、福井や松岡の歴史になるとさっぱりわかりません。先生の方こそ福井の歴史を随分研究なさっていると哲郎から聞いています。私の方こそご教授ください。」と挨拶を返してきた。4人で天龍寺の住職さんたちがいる家の方の玄関を開けて呼び鈴を押した。すぐに住職さんが出てきた。杉下は住職さんとは顔なじみだ。生徒を連れてきたことも何回かあるし、町内の小中学校の社会科の先生たちの研修を企画して巡検ツアーをしたときにも途中寄って話を聞いたことがあった。住職さんは

「子供たちが来ると思っていたのに大人が3人で子供は1人なんですね。でもいいですよ。ご案内させていただきます。」と言ってまずは境内の一角にある御像堂に案内してくれた。

「ここは松岡藩の初代、昌勝公の木像が安置されています。8月の終わりの御像祭りの時に御開帳しますが、今日は特別にお見せします。」と言って鍵を開けて白い土塀の扉を開けてくれた。真っ黒い木像はその歴史を感じさせる。等身大とまではいかないがかなり大きな木像である。杉下以外は3人とも初めて実物を見た。立派な姿に山田哲郎君も驚いた様子でおじいちゃんの腕をしっかりとつかんで見入っていた。住職から松岡藩の成り立ちなどの話もお聞きして、次の歴代藩主の墓に移動した。歴代藩主と言っても昌勝の息子たちの代で福井藩に吸収されているので少ないが、立派な墓が作られている。そして、福井藩に養子として迎えられ、福井藩主になった人たちの話も住職からしていただいた。最後に寺の本堂の真正面にある芭蕉塚、句碑の説明を聞いた。奥の細道の中で越前国に入った芭蕉は永平寺へと向けて歩みを進め、金沢から随行したのが北枝。金沢を発ち半月ほど旅に同行する。曽良に替わって旅のパートナーとなったが、天龍寺で二人は別れることになる。その別れの寂しさを“物書きて、扇引き裂く余波なごりかな“の句に表している。

 一応の見学を終えると本堂に入り、住職からお話を聞くことにしていたが、住職が

「杉下先生、ちょっと見てもらいたいものがあるんだ。先日、御像堂の奥の床下から古い手紙なんかがたくさん出てきたんだ。わしらには中身が良く読めんので先生、少し見てもらえんかの。」住職の話にやや緊張した杉下だった。由緒ある天龍寺の新しく出てきた古文書を読めるかどうか心配だったことと、山田君のおじいちゃんが専門家であることだった。

「専門家の山田先生もいらっしゃるんだからチャンスかも知れませんね。僕たちだけでは見逃してしまうところも山田先生が見ていただければ、きっと解読できると思います。」と言って山田君のおじいちゃんも仲間に引き入れてしまった。

 住職は本堂の大きな仏様の裏側の棚の中に置いてあった箱を持ち出してきて

「これなんだよ。昭和の県史や町史編纂の時期に古文書はすべて出して調べてもらっていたはずなんだけど、この箱には気が付かなかったみたいで、調査が入っていない物なんじゃ。少し見てください。」と言って20通ほどの手紙のような和紙類を丁寧に箱から出して、本堂の畳の上に並べた。杉下は並べられた一つ一つの包に書かれた表書きを解読にかかった。どの表書きも江戸時代の行書体で書かれたもので、地理学専攻だった杉下には解読は難しかった。読める文字は50%程度と言ったところだった。「天龍寺住職 ○○様」と書かれた手紙と思われるものが12件、表書きがないものが8件、手紙から見ていくことにした。1つ目の包を開けると中身が出てきた。1mほどの長さの手紙で最後に差出人が書いてあった。差出人は松平昌勝と書いてあった。文面は半分くらいしか解読できないが、先日お彼岸に館の仏壇にお参りしてくれてありがとう。九頭竜川で水害があったときの被害者は厳かに弔ってやってほしいというような内容が書かれていた。2つ目の手紙は差出人が松平昌平とあった。昌平は松岡藩を継いだが福井藩が後継者がいなくなったために福井藩に入り、松岡藩を福井藩に吸収させた松岡藩最後の藩主である。中身は父昌勝が死んで2年になるが、来るべき3回忌法要には寺を上げてお願いしたい。寺への寄進も考えているとの内容が書かれていた。以下同様に12件の手紙は松岡藩の藩主たちから菩提寺の天龍寺住職にあてた手紙だった。ふと見ると山田君のおじいちゃんが表書きのない封書にも包まれていない紙を広げて読んでいた。

「山田先生、そちらはどんな中身でしたか。」杉下が聞いてみると

「松岡藩初代藩主松平昌勝が福井藩主になれなかった無念さなどを、自分にあてた日記のようなものではないかと思います。僕はよくわからないんですけど昌勝公は福井藩主になれそうなチャンスがあったんですか。」と杉下に聞くと、山田君が

「おじいちゃん、昌勝は松岡藩に分家したけど、本家の福井藩光通に子供がなかったので鯖江吉江藩の昌親と福井藩主をめぐって争ったと言われているんだ。藩を2分する争いになってしまったので、吉江藩の昌親が5代藩主になったけど、6代目は松岡藩の昌勝の息子を養子に迎え入れて継がせるという折衷案がとられたのではないかと言われているんだ。そうだよね三田先生」

山田君に言われて三田先生は

「そうだったね。この間の授業でやったばっかりだったね。」と答えた。

山田君のおじいちゃんは

「そうなんですか。昌勝は自分の息子を福井藩主にすることはできたわけですが、自分は最後まで福井藩主にはなれず、ある意味、長男だったが将軍にはなれなかった秀康に似ているんですね。」と感想を述べた。山田君のおじいちゃんは次の文書を手にとった。

「これは綱昌と書いてありますよ。これも何か自分にあてたもので、誰かに伝えたいけど伝えることができないもどかしさから怒りをこの紙にぶつけたんではないでしょうか。」

杉下は

「どんなことが書いてあるんですか。」と聞くと

「福井城に上がってから1年経つが、いまだ臣下は決済を先代の昌親に仰いでいる。誰が藩主だと思っているのか。昌親公は父昌勝の福井城への途上に際し、面会を拒んだことは許せないし、江戸城へ行った時も藩主の自分を差し置いて上席に座ったことが許せないと書いています。綱昌は義理の父である昌親に対して敵対心を持っていたのでしょうね。」と言うと杉下は

「綱昌は幼いころから父昌勝が福井藩の家督を継げなかった悔しさを聞いていたんでしょうね。長男でありながら弟の光通が4代目を継ぎ、光通亡き後は自分かと思っていたら一番下の弟の昌親に奪われてしまった。息子の綱昌も父の思いの強さがわかるので、義理の父であり叔父である昌親に敵対心があったのではないでしょうか。」

杉下の言葉に山田哲郎君は

「江戸幕府でも福井藩でも後継者争いと言うのは激しいんですね。家康が3代将軍を家光に決めるときに長子相続をその後の幕府の規範に決めたことが、江戸幕府を長持ちさせたんでしょうね。」と中学2年生とは思えないような歴史観を披露した。

 山田君のおじいちゃんは次の書簡に手を伸ばした。今度の書簡は奉書紙が丸められていて巻物状態だが、大切に保管されていた感じではなかった。

ゆっくりと広げながら中身をじっくりと読み進めていった。何かを読み取ったのか、とつとつと話し始めた。

「この書簡は松平綱昌が天龍寺住職にあてた極秘の書簡ですね。決して口外なさらず秘密のうちに処分してくれと頼んでから書き出しています。天龍寺住職の天界とは松岡藩の江戸屋敷でいろいろお世話になっていたようだね。」すると杉下は

「松平綱昌は松岡藩初代藩主の松平昌勝の長男として、松岡藩の江戸屋敷で生まれていますが、昌勝が松岡藩の菩提寺として作った天龍寺の2代目の住職となる天界は、その当時若い僧侶として松岡藩江戸屋敷に勤めていました。藩主の長男として母親と一緒に江戸屋敷に人質として住んでいたが、年が近い天界とは気の置けない友達だったんでしょうね。」と推論を展開した。山田君のおじいちゃんは

「いろいろ相談してますね。発狂したと言われることに心外だと言っています。自分は綱吉と堀田正俊に諮られたと書いています。」

それを聞いた杉下は

「発狂したと言われ、『貞享の半知』につながるわけですが、綱吉と堀田正俊と言うのは5代将軍になった途端、処分が確定していた越後高田藩の継承問題(越後騒動)を裁定し直したり、諸藩の政治を監査するなどして積極的な政治に乗り出し、家綱時代に下落した将軍権威の向上に努めたそうです。福井藩2代の忠直の家系である越後松平藩を越後騒動でお取りつぶしをした直後に、福井越前藩の改易に取り掛かろうとするわけですね。そのことが綱昌に関係するわけです。」と言うと山田君のおじいちゃんは

「僕は福井藩についてはあまり調べたことがなかったけど、大きな藩は幕府からすると気になったんでしょうね。幕府内には大名になりたい旗本や御家人はたくさんいるし、将軍家から分家する家も多かったわけですから、領地はいくらあっても足りないわけです。福井藩もそのターゲットになったという事でしょうね。」と続け

「福井藩の家臣たちの派閥争いは越前騒動以来止むことなく続き、綱昌が藩主になっても収まらず藩内のいざこざが続き、幕府に弱点を晒すことになってしまったようです。綱昌が天界に嘆いているのは、家臣の争いをおさめることができない綱昌に、堀田正俊は辞任することを秘かに要求したそうです。拒否すると福井藩も松岡藩も越後のようにお取りつぶしを示唆したそうです。綱昌は辞任することでお家は取りつぶしを免れ、50万石は安泰だと堀田との間で密約を結んでいたと書かれています。しかし、実際には5代藩主だった義理の父の昌親が7代藩主に返り咲くと、『貞享の半知』で25万石に半減されてしまい、綱昌の必死の交渉は裏切られてしまったと書いています。しかし、そのことを公表するといよいよお取りつぶしになると考えた綱昌は、発狂という汚名を着せられたまま失意の隠居を認めるしかなかったわけです。」と説明してくれた山田君のおじいちゃんに三田綾子は

「この手紙が今まで発見されていなかったのはなぜなんでしょうね。」と聞いてみた。

「なぜかと言われたらその理由は私にはわかりません。天龍寺の天界がこの手紙をどのように隠したか。天界に聞いてみないとわかりませんが、天界は松岡藩の菩提寺の住職ですから松岡藩の不利益になることは避けたと思います。おそらく厳重に隠したんだと思いますが、後世に真実を残したいという気持ちもあって、燃やしたりはしなかったんではないでしょうか。その当時はまだ松平昌勝の木像も作られていないし、御像祭りもありません。お寺の中のどこか秘密の場所に隠されていたものが、後の住職によって御像堂の中のわかりにくいところに安置されたのでしょう。だから今日まで発見されなかったのでしょう。」と見解を述べた。山田哲郎君は

「おじいちゃん、綱昌が発狂したのではなく、幕府との密約で、隠居すれば福井藩の改易やお取りつぶしは免れるということだったのに、幕府は其の密約を破って福井藩の知行を半減してしまったというのは許せないじゃないか。裁判所に訴えて争うことはできないのかな。」と怒りをあらわにする孫におじいちゃんは

「哲郎、江戸時代の大名たちにとって一番大切なことはお家の存続なんだよ。江戸幕府に逆らうなんてことは考えられないのさ。半減でも存続できたことはめでたいのかもしれないね。」と哲郎君に諭してくれた。杉下は山田先生に

「越前松平藩の悲劇は、藩が大きすぎたと考えると納得がいくような気がするんです。初代結城秀康は豊臣家に養子に行きますが、鶴松が生まれると関東の結城家に養子に出され、結城家の藩主になります。そして関ケ原の戦いでの活躍で越前福井に68万石を与えられ、松平姓を認められますが、結城家から多くの家臣をつれて越前に入るとともに、大所帯の藩の運営のため幕府から付家老をはじめ、多くの藩士をあてがわれます。この段階で結城家派閥と幕府派閥の争いがあったと言われるし、越後高田藩から忠昌が入城した時には高田から連れてきた家臣が高田派閥を作ります。松岡藩から綱昌が福井藩に入ったときには松岡派閥もできたと思われます。大きかったばかりに内紛が絶えなかったことが、不幸の始まりだったかもしれないという事でしょうね。」

話を聞いていた天龍寺住職は

「天界住職は天龍寺2代目になります。福井藩、松岡藩の存続のために綱昌様に幕府に対して謀られたという無念さは残るが、隠居することを受け入れるように勧めたんでしょうね。でも、山田君が言うように精神病にかかったわけでもないのに発狂したと言われ、藩主を退いているわけですからその名誉を回復する必要がありそうですね。6代藩主として福井藩の菩提寺である大安禅寺にお墓がありますが、福井藩を半減させる原因を作ったという汚名を着せられ、松岡藩にとっても松岡から福井藩に養子に入って藩主になっているわけですから、松岡としても名誉回復をさせたいわけです。」と言い始めた。山田哲郎君は

「そうだよ、松岡藩出身の綱昌が福井藩を半減させてしまった張本人のように言われることは、松岡にとっては耐えられないし、ましてや幕府に諮られた汚名なんだから天龍寺文書が出てきた以上、現代の松岡住民が中心になって名誉回復を計るべきだと思うよ。どうすればいいかな。」とみんなに提案した。杉下は

「名誉を回復するのが目的ならば、マスコミに取り上げられるという事が近道かも知れないね。」と提案した。どうしたらマスコミに取り上げられるのか、みんな具体策は浮かんでいなかったが、後日話し合うことにして、天龍寺をあとにした。山田哲郎君はおじいちゃんの車に乗って帰っていった。


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