4、松岡藩 昌勝と昌親の争い 綱昌の発狂
4、松岡藩 昌勝と昌親の争い 綱昌の発狂
2人の調査で忠直の時代に越前藩で騒動があり、忠直が大分に流され弟の忠昌が福井藩を継承したことはわかった。しかし、福井藩の知行が半減されるのは6代藩主綱昌の乱行によって幕府から1686年に「貞観の半知」の裁定を受けてからである。ここに何があったのか三田綾子は疑問を持っていた。三田は翌日職員室で杉下に相談してみた。
「忠直の乱行については何かあったのは確かだと思いますが、後世の作り話の様相が強いことがわかりました。しかし6代の綱昌は乱行とか発狂とか様々な書物に記されています。いったい何があったんですかね。このことについてはあまり資料がありません。あのあと図書館でいくつか調べましたがわからないんです。」と杉下に投げかけてみた。
「そのことは僕も気になっていて、少し調べて来たよ。今日はちょうどそのあたりを授業でやるつもりなんだ。2年4組、3時間目、見に来られるかい。」
「見学に行かせていただきます。松岡藩と福井藩の関係なんかも出てくるんですか。」
「そこが今日の中心だよ。」と言ってくれた。
3時間目の前の休み時間が終わる前に、2人は職員室から出て2年4組に向かって歩き始めた。杉下は前の入口から、三田は後ろの入口から教室に入った。
「起立、礼 お願いします」
生徒たちの礼儀正しいあいさつの後、杉下は
「今日は君たちの住む松岡が江戸幕府と近い関係だったことを勉強する郷土学習です。葵地区に住んでいる人はいますか。」と聞くと数人の生徒が手を挙げた。そのうちの一人に
「君は何丁目?」と聞くと
「1丁目です。」と答えたので
「葵1丁目に『御館の椿』という史跡があるのは知ってますか。」と聞くとぼんやりとした表情をしたが、先ほど手を挙げた生徒の一人が
「僕知ってます。僕の家の前に看板があります。」と答えてくれた。
「これだよね。」と言ってテレビモニターに御館の椿の写真を映し出した。すると
「小学校の時、町探検で見に行ったことがあります。」と言う生徒もいた。
「では葵という地名に由来は何でしょう。」と質問するとみんな沈黙した。
「今日はその謎を解き明かしていきましょう。」と言って「松岡藩の成立について」と黒板の左上に書いた。これが今日の学習の課題である。
「前回の授業で徳川家康と福井藩の結城秀康の親子関係について、2代将軍秀忠と忠直の関係についても勉強しましたね。」と言って徳川家康の家系図を書いた模造紙を黒板に貼った。
「江戸徳川家と越前松平藩は親子関係でしたが、今日はその後の福井藩から話を始めましょう。」と言って福井藩の歴代藩主の家系図を書いた模造紙を貼った。
「2代が忠直、その弟忠昌が3代、その息子光通が4代、4代光通には子供がいなかったので5代が弟の昌親、兄の昌勝が松岡藩初代、弟の昌親が吉江藩初代と書かれています。ここが少しややこしいんです。」と言って説明を始めた。
「3代忠昌にとって長男は昌勝、次男が光通、3男が昌親。ただ長男昌勝はあまり身分の高くない側室の子であり、光通は正室の子、昌親も側室の子なんです。3代忠昌は長男昌勝を早くに分家させ、松岡藩5万石として松岡葵地区に館を立てさせた。しかし、4代光通に子がなかった段階で、光通の兄の昌勝と光通の弟の昌親の間で福井藩主の争いが起きてしまい、その後に火種を残すことになるが、吉江藩(鯖江)から弟の昌親が5代福井藩主として福井に入り、昌勝の息子を6代福井藩主として受け入れることで事態をおさめたようです。実際、昌親は若くして隠居して松岡藩から綱昌を養子に迎え、6代福井藩主に迎えます。徳川実記などによると6代綱昌は病気がちで奇怪な行動が目立ち家臣を殺害したり、江戸参勤を怠ったり、ついには発狂してしまい、江戸幕府に報告されています。江戸幕府の裁定は綱昌の狂気を理由に、江戸城に蟄居させ、義理の父の昌親を再び7代目藩主に据えるが、知行は半減、1686年いわゆる『貞享の半知』で50万石から25万石に減らされてしまいます。福井藩は領地を半分にされてしまい、多くの藩士をリストラしなくてはいけない事態になりましたが、お家の断絶は免れた形になりました。綱昌の発狂については多くの見方があり見解は分かれているようです。先代の昌親は綱昌の叔父であり、義理の父ですが、綱昌が藩主になったのちも権力をふるい、綱昌にとっては難しい存在だったそうです。ましてや綱昌の父、昌勝との間では福井藩主をめぐる争いがあり、昌親にとっても綱昌はかわいい存在ではなかったようです。綱昌は松岡藩の出身ですから、私たちからすると応援したくなりますね。」と言って生徒の様子を見ると、杉下の話を聞き漏らすまいと必死に集中する子供たちの目があった。地元教材の力は偉大だと杉下も後ろで見ていた三田も感心した。話は続いた。
「この争いは江戸幕府側から見るとまた違う見方ができます。当時は将軍が5代将軍綱吉です。綱昌は4代将軍家綱から綱の字をもらって名前に入れているのです。しかし、発狂と言う報告があると綱吉は越前松平家を知行半減させたのです。江戸幕府内には多くの旗本御家人がいて、領地不足は大問題です。江戸幕府の財政が大きく傾き始めるのも綱吉の時代からと言われますが、まさにこの時、福井藩を半減させて余ってきた25万石は小さく分けられて小さな譜代大名が乱立することになるのです。」
授業が終わり、三田と杉下は廊下を歩きながら授業の内容について話していた。
杉下は「堺屋太一の『峠の群像』という小説がNHKで大河ドラマになっていますが、その中でも江戸時代の経済が傾きかける時代として5代将軍綱吉の時代を上げています。赤穂浪士が討ち入りした時代を経済の面で大きな峠だったという堺屋太一の考え方でしたが、福井藩の『貞享の半知』も江戸幕府の経済対策と考えれば腑に落ちるところはありますね。」と話して職員室近くまで来た。すると職員室入口近くで2人を待ち受けていた生徒が一人声をかけてきた。
「杉下先生、今日、4組で綱昌のことを話してましたね。3組の教室から聞こえたんですけど。僕も綱昌や貞享の半知について興味があるので、どこで調べたのか教えてくれませんか。」と専門的なことを聞いてきたのは2年3組の山田哲郎君だった。山田君は三田先生の授業中に「長男じゃねえし。」と三田の説明を否定したあの生徒である。杉下は
「次の授業が始まってしまうから、昼休みに職員室まで来なさい。先生が調べた中身とか何で調べているかとか教えるよ。」と言って約束すると納得して教室に戻っていった。
「山田君は歴史が大好きなんですね。ただの戦国時代オタクではなさそうですよ。」と三田が言うと
「彼の方がよく知っているかもしれませんね。」と杉下が山田君のことを認めていた。