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2、秀忠と秀康 

2、秀忠と秀康  


 翌日の5時間目、2年4組の授業は杉下の社会科で「江戸幕府の幕藩体制」の単元だった。挨拶が終わると黒板の左上に「秀忠と秀康」と書いた。教室の後ろでは三田がメモの準備をして見学していた。

「昨日の授業で家康の勉強はしましたね。今日は2代将軍秀忠と福井藩の松平秀康に注目しながら幕藩体制について勉強しましょう。」といって授業を始めた。

「ではこれを見てください。」といって模造紙に書かれた徳川家康からの親子関係の系図を示した。家康を中心に正室の築山殿との間に長男、信康。築山殿が死去した後に正室として秀吉の妹、旭姫が来ているが子はない。そのほか側室お万との間に秀康、西郷局との間に秀忠、あと忠輝、義直、頼信、頼房と続いている。信康のところには1579年死去と書かれている。当時20歳である。7歳の時に結婚した妻は織田信長の娘徳姫である。

「この家康の長男、秀康は20歳で死んでいるけど、家康の命令で殺されたんだよ。どうしてなのか、資料集で調べてごらん。」と生徒に課題を出した。生徒たちは一斉に資料集を調べだして、近くの生徒同士で話し合いあった。すると歴史好きの男子生徒が手を上げて

「武田信玄との内通を信長に疑われ、信長の命令で家康は長男と正室の築山殿を殺さなくてはいけなかったらいいです。」と発表してくれた。杉下は

「そうだね。信長にしても自分の娘婿を殺させたんだよ。」と言ってさらに模造紙の家系図を見せながら

「長男の信康は残念ながら死んでしまったので、次男の秀康が長子という事になります。しかし、徳川家康は自分の後継者に秀忠を早くに指名します。これまでの説では秀康は母親のお万の身分が低かったからとか、生まれたころから容姿が醜く、家康が嫌っていたともいわれています。正確なことはいまだにわかっていません。しかし、秀康が11歳の時、小牧長久手の戦いで秀吉と家康が戦いますが、戦いの後、和睦があり徳川家から豊臣家へ秀康が養子(実質的には人質)として差し出されます。このタイミングで徳川家康は秀康ではなく3男の秀忠を後継者に決めたようです。その後、秀吉の息子、鶴松が生まれると養子としての役割を終え、関東の結城家へ再び養子に出されます。みんなはこんな扱いを受けた秀康についてどう思いますか。」と聞くと一番前で真剣な表情で聞いていた女子生徒が

「養子に出されて、また別の家に養子に出されるなんて、何回も捨てられたみたいで可哀そうだと思います。」と感情をあらわにして発表してくれた。杉下も

「そうだね。先生もそう思うよ。不遇な少年時代を送っているので、福井の人たちの中には秀康びいきの人が多いよ。それに、彼はそれ以後、数々の戦いに活躍し、関ケ原の乱では秀忠が戦いに間に合わなかったのに対して、秀康は大活躍します。徳川家の後継者の秀忠にとって兄である秀康は扱いにくい存在だったようです。徳川家康は関ケ原の乱の後、征夷大将軍に任じられますが、秀吉との密約では秀吉の後継者、秀頼が成長するまでのつなぎとして将軍になるだけで、徳川家が将軍を引き継ぐ予定ではなかったんです。しかし、1605年、家康は隠居して駿府に入り、突然、将軍を秀忠に譲ってしまいます。関ケ原の乱の後で2代将軍をどうするかという話し合いを家臣としているらしいが、秀康を推すものと秀忠を推すものとに別れたそうです。家康は秀康が豊臣家に養子に行った経緯があり、さらに結城家に養子に行っているので、秀康を跡取りに選ばなかったともいわれています。そこで、秀康には越前68万石を与え、さらに三河の松平姓を名乗らせ、松平本家を継がせました。秀忠やその後の御3家になる男子たちには徳川姓を名乗らせることになります。しかし秀康は病気で1606年に34歳で死んでいます。越前福井藩は長男の忠直が継ぐことになります。」

そこまで話して、今度は福井藩の系図を示した家系図を模造紙に書いたものを黒板に張り付けた。

「これが福井藩の家系図です。初代秀康が68万石、2代長男忠直68万石、次男忠昌高田藩25万石、3男直正大野藩5万石、4男直基勝山藩3万石、5男直良木本藩2万5千石 秀康は福井藩は68万石のまま長男忠直に相続させますが、2男以降を次々と分家させますが、福井藩を分割させるのではなく、幕府から領地を分け与えられ、最終的には100万石相当を受け取ることになりました。」といって福井藩の栄華を教室の子供たちに語って聞かせた。しかし、次に杉下は黒板に越前騒動と書いた。

「2代忠直は父秀康が34歳という若さで死んでしまったので1607年、わずか12歳で68万石を相続します。2代将軍秀忠とは叔父と甥の間柄で仲が良く、1611年、秀忠の娘、当時10歳の勝姫を正室として江戸屋敷に迎えました。しかし、16歳で結婚したとはいえ、まだ幼く藩内をまとめるには力が不足していて、結城家時代からついてきている家老の派閥と、関ケ原以降に仕えることになった家老の派閥とが対立し、武力で争う対立になってしまいました。おさまりが付かなくなった福井藩は江戸の将軍秀忠と駿府の家康の裁定を仰ぐこととなりました。この越前騒動が1612年だが、以来福井藩への幕府の風当たりは強くなった。」といって、今度は忠直の年表を書いた模造紙を黒板に張った。

「これは2代目藩主の松平忠直の年表です。1595年結城秀康の長男として生まれます。1607年秀康の死で12歳で福井藩2代大名になります。16歳で秀忠の娘、勝姫と結婚し秀忠の一字をもらい忠直と名乗るようになります。1612年に越前騒動があり、1614年には大坂夏の陣で真田信繁を討ち取り戦功を上げています。しかし、論功行賞に不満を抱き、次第に幕府への不満を募らせていきます。1621年には病を理由に江戸への参勤を怠り、また1622年には勝姫の殺害を企て、また、軍勢を差し向けて家臣を討つなどの乱行が目立つようになったと言われています。1623年、将軍・秀忠は忠直に隠居を命じます。豊後国府内藩へ蟄居となります。一説には1620年ごろ、大坂夏の陣での活躍に対する報償の少なさに幕府に対する批判を強め、さらには父の秀康が2代将軍になっていれば、自分は3代将軍であったのだと考えていたともいわれています。逆に2代将軍秀忠からすれば、大阪夏の陣での忠直の活躍は認めるものの、越前松平家はすでに分家筋を合計すると100万石であり、それ以上加増することは幕府にとって脅威になると言う事で認めることはできなかったのではないかと言われています。しかし、秀忠にとって忠直は甥であり、福井松平家は特別な存在であったので扱いは難しかったのではないか。忠直は大分に国替えになりますが、代わりに弟の忠昌が高田藩から戻ってきて福井50万石継承し、高田藩26万石には忠直の長男光長が赴任します。秀忠にとって忠直は甥であり娘婿だし、光長は孫にあたります。福井藩は50万石に減らされてしまったわけですが、まだまだ大大名に違いありません。ただ、最終的には25万石にまで減らされるんですが、もう一度大きな事件が起きます。これは次回の授業にしましょう。」といったところでチャイムが鳴った。


後ろで見ていた三田綾子はぞくぞくしていた。テレビドラマの「大奥」や「水戸黄門」などに出てくるような話が福井藩で起こっていたのである。教室を出るなり杉下のところに近づき、

「先生、秀康ってすごいですね。将軍になっていてもおかしくなかったというのは読んだことがあったんですが、数奇な運命をたどったんですね。福井県庁の横に銅像がありますもんね。去年の遠足で2年生の班と一緒に見てきました。」

興奮する三田先生に杉下は

「『たら』とか『れば』とかは歴史の世界ではタブーだと思うよ。際限がないからね。もし明智光秀が本能寺を打たなかったら、もし徳川慶喜が大政奉還をしなかったなんてことはタイムマシーンを作動させることだからね。」といって、2年生の廊下を歩きながら、職員室に向かって歩いて行った。三田先生が

「忠直公のご乱行は菊池寛の小説とその後の映画化で全国的に有名になってしまったんですよね。」と言うと、杉下は

「そうですね。なぜ菊池寛が忠直をあんな風に描いたのか聞いてみたいけど、かなり脚色がかかっていると思います。その後、菊池寛は実業家になり文芸春秋社を創設するんですよ。福井藩の歴史について調べるには「片聾記」や「続片聾記」などをよく読んでみる必要がありますね。それに、江戸幕府がその時どう見ていたかを知るには、徳川実紀も調べてみなくてはいけません。」と言っていたら職員室に着いた。

2年生の先生たちの机が集まっている場所に2人の机も位置している。杉下がパソコンで忠直を検索するといろいろな記述があった。中から1つを選んで開いてみると

「三田先生、これです。」と言って忠直公の乱行について書いてあるサイトを示した。そのサイトには、忠直が奥女中に夢中になってしまった。その女中の美しさは越前の国、一国に値するとして一国と名付けた。しかしその女中は美女であったがほとんど笑わない。ある時、罪人の処罰があり斬首をして首が転がるとその女中ははじめて笑った。その様子を見た忠直はもっと笑わせようと、罪もない家来を斬首させた。その行為はエスカレートし身籠った女の腹を裂いて赤子を取り出させて、その女中を笑わせたというような残虐なエピソードが載っていた。三田先生は

「かなりグロいですね。ちょっと気持ち悪いです。忠直って印象悪いですね。」

「それが江戸幕府の狙いだったかもしれません。この手の話はあとで権力者が作った話である場合が多いと思いませんか。」

「そうですね。真実はどういう事だったかはよく調べてみないとわかりませんね。私はまず菊池寛の『忠直卿行状記』から読んでみようと思います。」

「僕は徳川実紀を調べてみますかね。」

そう言って2人の調査活動はスタートした。 



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