1、授業での失敗 秀康は長男ではない
1、授業での失敗 秀康は長男ではない
福井県庁は福井市大手1丁目、福井城址のお堀の中に建っている。47都道府県の中でいまだにお堀の中に県庁があるのは福井ぐらいのものだ。しかも県庁の隣には福井県警本部のビルと福井県議会議事堂が並んでいる。権威の象徴と化している。
江戸時代の福井城下は実に見事な街づくりをしている。3重に巡らされたお堀の水は九頭竜川から引いた芝原用水が利用され、途中で別れたもう一つの流れが城下の武士・町人の飲み水に利用されている。この城が徳川家康の命令で幕府の普請の形で各地の大名に命じて作らせたことは意外と知られていない。福井藩が江戸幕府と緊密な関係であったことがうかがわれる。
三田綾子(30)は永平寺町二本松中学校社会科教師。この学校に来て3年目。福井市の生まれで、福井大学教育学部を卒業して永平寺町の別の中学校に採用になったが、2年前に異動になりこの学校に来た。勤続8年目、いまだ独身である。すらりとした細身でスポーツも得意。学生時代はバドミントンをしていた。笑顔も美しく、どうして30歳まで独身なのか不思議だ。公立小中学校の先生たちの多忙さはニュースにもなり、社会問題化している。下宿と学校の往復ばかりで、ほとんど若い男性との接点がなかった結果だろう。
杉下栄吉は同じ二本松中学校に勤める再雇用教員。福井県社会科研究協議会で若いころから授業研究を続けてきた社会科の専門家である。隣の津室ヶ丘中学校の校長で退職して今年からこの学校に来た。
三田綾子は時々杉下に授業の様子を見てもらってアドバイスを受けたり、杉下の授業を見せてもらったりしている。社会科の教員は3人いるが、もう一人はベテランなので、杉下は主に三田の相談係と言ったところである。
4月10日の2限目は2年3組の社会科、江戸幕府の成立の授業、杉下が後ろで見てくれている。三田綾子は教室での授業という事で紺の上下のスーツ、ひざ丈のタイトスカートとシングルボタンの上着、インナーは白いブラウスで教師らしいきりっとした姿である。後ろで観察する杉下も紺のスーツで仕事場の雰囲気を醸し出していた。「起立、礼 着席」学級委員の号令で全員が立ち上がり、きちんと礼を行っている。さすがは「礼の教育」を掲げる永平寺町の中学校である。
「それでは今日は江戸幕府の成立のところを学習します。教科書は158ページ 今日の課題は『幕藩体制を強固なものにしたのはどんな政策か』です。」と言って黒板の左上に今日の目標を掲げた。背伸びをして黒板の上の方に小さな短冊黒板を張り付けるとき、紺の上着の下にインナーの白いブラウスの裾がちらっと見え、タイトスカートの裾が少し上がり、膝の裏側と大腿部が少し見えた。生徒たちは何の反応もなかったが、杉下は一瞬ドッキリとした。60過ぎの男から見れば30歳の女性は、充分に若くてきれいな女性である。そんな目で見てはいけないと思いなおして授業に集中する杉下だった。
三田綾子は「徳川幕府は260年以上続きますが、誰も江戸幕府に逆らえなくなっていったのは、どのあたりからなのかを探っていきましょう。」といってスクリーンに幕藩体制の地図を映し出した。地図には江戸幕府が800万石(旗本領含む)、加賀前田家120万石、薩摩島津家72万石、越前松平家68万石、仙台伊達家62万石、尾張徳川家61万石と続く。全国で3000万石の石高のうち、4分の1が幕府領であることを示している。
「この資料を見て皆さんどう思いますか。グループで話し合ってください。」
三田先生の問いにそれぞれの生徒が近くの生徒同士で話し合い、考えが浮かんだ生徒は挙手をした。
「僕たちのグループは幕府領が800万石というのは巨大な勢力なので誰も逆らえないのかなと思いました。」
「僕たちは幕府が800万石というのは大きいけど、加賀と鹿児島と仙台と福井、愛知などが手を結べば反乱を起こせるのではないかと考えました。」
「福井が68万石というのは大きいなと思いました。」
対話型学習のスタートである。
「では小学校の社会科ではこれら大きな勢力の大名を弱体化させるために幕府はどんな手段を使ったと学習しましたか。」と投げかけた。するとまた生徒たちは近くの生徒同士で話し合い
「参勤交代で莫大なお金を使わせたと習いました。」
「幕府の建築物を作るときの普請を担当させました。」などの意見が出てきた。三田先生は本時の課題を書いた場所の下に黄色いチョークで
「大名の弱体化のために」と書いて参勤交代と大規模な普請と書いた。
「でもこれだけではないんだよ。中学校になったんだからもう少し詳しいことも勉強しましょう。」と言って次の資料をスクリーンに提示した。
「この資料は家康から、秀忠、家光の時代に国替えが行われた事例が書かれています。これを見るとどんなことがわかりますか。」また近くの生徒同士で話し合い、手が上がった生徒からは
「秀忠の時代に国替えが極端に多いことがわかります。」という意見が出た。
「これは2代将軍になった秀忠が、家康が大御所として生きていた時代はまだ将軍として思い切ったことができなかったのですが、家康の死後、幕藩体制強化のために思い切った策に出たことを示しています。ではその例をいくつか見ていきましょう。」と言って次の資料をスクリーンに映した。
「これは江戸徳川家と福井松平家の家系図です。」と言って出された資料には徳川家康の家系に秀康(越前福井藩)、秀忠(2代将軍)、義直(尾張徳川家)頼宜(紀伊徳川家)頼房(水戸徳川家)の名前があった。
「それぞれ母親が違いますが、長男秀康は母の身分が低かったことと、豊臣家に養子に出されていたので、家康は後継者とは考えなかったようです。」と三田先生が言った瞬間、
「長男じゃねえし。」というはき捨てるような声と共に舌打ちが聞こえた。声の主がクラスでも社会科が得意な山田君であることはすぐわかった。三田先生は
「山田君何か違うの?」
「長男は信康です。秀康は長男じゃありません。」
と教師に対する話し方とは思えない吐き捨てるような口のきき方で答えた。三田先生は
「先生が言ったことが違うなら謝らないといけないわね。先生の勉強不足でごめんね。でも君のその態度はだめよ。」と言って彼を諫めた。とりあえず、三田先生が
「この資料からわかると思うんだけど、福井藩の秀康と2代将軍の秀忠は秀康の方が年が上なの。2人が入れ替わっていてもおかしくないのはわかりますね。2人はライバル関係だったという説も多いみたいです。その後、福井藩の2代忠直は大分に国替えになり3代忠昌の時には68万石だったものが50万石まで減らされ7代昌親の時には知行半減で25万石になっています。その減った分は、越前の国内に丸岡藩や勝山藩、大野藩、鯖江藩など小さな藩がたくさんできたんです。福井藩が家康の息子が入ってきた親藩大名だから御三家に次ぐ家柄として扱われたんだけど、秀忠にとっては自らの地位を脅かす大きな存在だったという事なんです。だから石高を減らす減封の対象になったという事ですね。話は変わりますが、秀忠の娘は多くの大名や天皇家に嫁いでいます。長女千姫は豊臣秀頼に、2女珠姫は加賀前田家へ、3女勝姫は福井松平家2代忠直に、4女初姫は淀君の妹のお初がいる京極家へ、5女の和子は天皇家の後水尾天皇に入内して次の天皇を生んでいます。加賀の前田家も越前の松平家も将軍家の姫の御輿入れという事で、結納には莫大なお金をかけて調度品をそろえ、大名の妻は江戸住まいのため、江戸屋敷内に姫専用の御殿を立てて、身の回りの世話をする女官たちも受け入れています。これらの費用も藩の財政を大きく揺るがしました。3代将軍家光からは世継ぎ騒動が起こらないように大奥が作られ、将軍の正室だけでなく何人もの側室が迎え入れられるので、子供たちが何人も生まれます。その子たちは長男以外の男性は養子に出されるものも多く、女性は嫁ぎ先として有力大名に斡旋されます。悪い言葉で言えば姫を押し付けられるわけです。そのたびに莫大な借金をして受け入れの準備をさせられるわけです。参勤交代だけでなく、大名を弱体化させる政策になったわけです。」資料を見せながら三田先生が説明してきたが、最後に
「今日の授業をまとめてみましょう。幕藩体制を強化するための政策としてどんなことがわかったかな。」と問いかけるとたくさんの手が上がった。
「大名の国替えや減封などで大名は弱体化させられたことがわかりました。」とか
「テレビで出てくる大奥は次の将軍を作るためだと思っていたけど、姫を嫁入りさせて大名にお金を使わせるのに効果があったことがわかりました。」などの意見が出た。それらの意見を黒板に書いて授業は終了した。
職員室に戻って杉下先生と三田先生が反省会に入った。三田先生は
「山田君が秀康は長男じゃないと言った時には焦りました。あれはどういうことですか。」と杉下に聞いた。杉下は
「あれは大河ドラマなどでは有名な話なんです。徳川信康は信長の信と家康の康を一字ずつを取った徳川家の長男でしたが、織田信長と武田信玄が争っていた時に三河の岡崎城主として母の築山殿とともにいたんですが、武田軍と内通していたと織田信長に名指しされ、信長は家康に対して2人を殺害するように命令を出したと言われています。やむなく家康は妻である築山殿と長男である信康を殺害するしかなかったんです。家康の信長に対する気持ちは想像するに余りあるでしょうね。だから、信康亡き後は秀康が長男ですが、山田君が言うこともあながち間違いとも言えません。それに私もこの間違いを生徒から指摘を受けたことがあります。教科書や参考書には載ってませんから仕方ないですよ。戦国時代は生徒の中にマニアックな子がいるので、その子をうまく利用して進めていくといいと思いますよ。」と慰めた。三田先生は
「国替えなどの資料はどうでしたか。」と質問すると
「とてもよかったですね。秀忠は関ケ原の戦いで中山道を進んで戦いに臨むはずだったけど、信州上田城の真田氏との戦いで足止めされ、関ケ原の戦いに間に合わなかったのです。そして、家康にひどく叱責されたと言われています。それからは家康に対して頭が上がらなかったらしいです。また、2代将軍になったことも、それまでは秀吉と家康の約束で秀頼が成人するまでのつなぎとして家康が将軍になったが、突然家康が息子の秀忠に将軍職を譲ったことで、周りの大名たちから反感を買ってしまっています。家康が存命の間はその威光が通用しますが、家康の死後は諸大名が幕府のいう事を聞かなくなることが予想されました。しかし、大坂の陣の後、家康が死亡してからは、逆に強大な権力を使って、秀忠は大胆な国替えと減封などで有力大名を弱体化させることに取り掛かるわけです。福井を例に説明しましたが身近な例なのでよかったと思います。ただ、越前松平家の忠直のことについては謎が多く、今でも多くの説が飛び交っています。慎重に説明する必要がありそうです。今度、ほかのクラスで僕がやってみますから見に来てください。それから珠姫と勝姫の御輿入れについては面白かったですね。御輿入れのために準備した銘品や姫が婚礼品として持ってきた品などの写真を見せるともっと良かったかもしれませんね。」といろいろ褒めてもらった。
「でも福井松平藩が68万石から25万石まで減らされてしまったのは納得できませんね。親藩大名という事は親族という事でしょ。25万石になったのは1686年ですから綱吉の時代なので秀忠の思いが綱吉まで続いていたんですかね。」
杉下は
「何とも言えないけど、越前福井藩が特別な存在として、御三家に準ずる形で江戸城に登城するときに、御三家と同じ部屋に入ったことなどは、秀康1代限りになるはずだったともいわれています。しかし実際にはその後も家康の直系の家柄として大切にされたようです。しかし2代将軍の秀忠は秀康のことを、兄ですが敵対していたようです。秀康は関ケ原の戦いでも活躍しています。武人としての能力は高かったようですが、秀忠は何かにつけて比較されたのかもしれません。秀康にとっては、豊臣家に人質として養子に出ているので、豊臣家の一族でもあったこと、母の身分が低かったこと、幼少時代家康が武田との戦いに忙しく秀康に会うこともできなかったこと、幼いころに容姿が醜かったとされたことも運が悪かったと言えるでしょうね。早くに家康は後継者を秀忠に決めていたようです。明日、2年3組の授業で秀忠と秀康を比較しますから見に来てください。」と言ってその日の反省会は終わった。