すれ違うジェラシー
汐里は夜の街でホステスとして働いている。仕事を終えマンションに帰るのはいつも早朝だ。同棲中の恋人、陽介とはすれ違いの寂しい生活を送っている。
ある日、二人が暮らす愛の巣に、見知らぬ女が訪問してきた……。
5分で読める短編小説です
汐里は部屋のある十階でエレベーターを降り、外廊下を歩いた。部屋は突き当りの角部屋だ。食材が詰まったレジ袋を肘にかけ、汐里はマンションの鍵を開けた。
時刻は朝の六時半。仕事から誰もいない家に帰宅したが、出勤前にシャワーを浴びて陽介が出掛けるので、いつも部屋には彼の残り香がある。シトラス系のシャンプーの香りだ。
汐里は目を閉じ深呼吸した。それで陽介の面影を感じ、一緒にいるような気になって、すれ違いの寂しい生活も我慢できた。胸に張り付いた孤独感が緩和し、また頑張れる。それは汐里にとって、毎朝の儀式になりつつあった。
部屋着のラフな恰好に着替え、長い髪は後ろで束ねた。それから、さて、といっててきぱきと動く。買い込んだ食材は冷蔵庫にしまい、部屋の窓を開けて空気を入れ替え、洗濯機を回し、家中掃除機をかけた。汐里は働いていることを言い訳に、家事を疎かにしたくはなかった。
同棲して一年が過ぎた。籍はまだ入れていない。
半ば汐里が押し掛けるようなかたちで暮らし始め、とにかく汐里は陽介にぞっこんだった。
エプロンをかけ、シンクを覗く。汐里は顔をほころばせた。きれいに食べられた食器が置いてある。
料理の腕には自信があって、彼の好きな物もよく知っている。献立を考えてると幸せな気持ちになり、夜勤明けの疲れも飛んでしまう。早速、冷蔵庫を開け食事の支度を始めた。家事はぜんぜん苦にならなかった。
それでも汐里には、いくつか不満がある。
すぐにでも結婚したいのに、せがんでも陽介は、なかなか山形の両親に会わせてくれない。
自分が水商売の女だから、親族によく思われていないのは薄々気付いてはいるが、しかしそれは古臭く田舎じみた偏見に過ぎないと、迎合し自分らしさを失いたくはなかった。
陽介が仕事の接待で、汐里の店にやってきたのが二人の出会いという経緯もある。この仕事をしていなかったら陽介に出会えなかった。
店を辞め、良好な関係にあるママやスタッフ始め、運命の神様を裏切るような真似はしたくはないし、クラブの仕事は、自分の天職だとも思っている。
そして何より一番の懸念は、陽介の元カノの存在だ。
女は陽介の会社の上司で、結婚に踏み切れないのは、関係がまだ続いているのではないかと疑心暗鬼になっていた。
陽介は容姿端麗な好男子なうえ男っぷりがいい。モテないはずがなく、毎日顔を付き合わせていると思うと、自分でも嫌になるぐらい嫉妬に駆られ、物に当たることも珍しくなかった。
汐里は女の顔を知らない。それが想像を掻き立て、目に見えない不吉な影となって胸を差した。
陽介にはふと考え込んで、話を振っても上の空の時がある。問い詰めると、またその話かと、露骨に嫌な顔を見せるし、仕事が忙しい彼を煩わせてはならないと、あまり深く追求もできなかった。
◇
一通り家事を終え、汐里はシャワーを浴び就寝した。
それからまだ一時間も寝ていないのに、LINEが入り起こされた。
「もう……誰……」
ぼーっとしたままスマホに顔を合わせた。
「あっ」
といって、汐里は一瞬で頭が冴え、あどけない少女のように破顔した。陽介からだった。
しかし仕事中の昼間、陽介からLINEが届くことは滅多にない。汐里の胸に期待と不安がよぎった。
「なんだろう──?」
スマホをタップしようとしたところで、思いがけず画面がシャットダウンに切り替わった。
「あっ、あ、いけない、バッテリーが」
汐里は慌ててコードに繋いだ。
その時である。家のチャイムが鳴った。
汐里は、なぜそう思ったのか分からないが、自分にとってとても大事な来客のような気がした。女のカンというべきか、特に汐里の場合は、夜に生きる女の如才ない気配りが敏感に働いて、自然と体が動いていた。ベッドを出て身支度を整え、直ぐに玄関に駆けつけた。
ドアを開けると、「あなたが汐里さんね」いきなりそういって、女が上がり込んできた。
見たこともない知らない女で、パンプスを脱ぎ捨てると、どいてと、汐里を押しのけた。呆気にとられているうちに、女は我が物顔で廊下を進んだ。
「ふーん、わりと綺麗にしてるじゃない。家事はこなせるようね」
リビングの真ん中まできて、そういった。カーテンは閉めきっていたので、汐里は部屋の照明を点けた。
化粧っけはないが、接客業の汐里から見ても、隙がない流行の身なりをしていて、小股の切れ上がったろうたけた女だ。年恰好から年齢は一回り上のように思われた。
「いったいなんですか、あなた。いきなり入ってきて」
女のペースに飲まれ、そこでようやく咎めた。だが女はバレリーナのようにスーッと足を運び、室内を物色している。
「あら」
そういってキッチンカウンターのさくらんぼを手に取った。
「陽介の好物ね」
汐里を見つめながら口に含んだ。そして、美味しいと意味深に笑った。
汐里は、じっと肌着が汗ばむのを感じていた。
社交的で人当たりがよく、笑顔で接するのが天賦だと思っていた自信が大きく揺らいだ。職業柄、人見知りしたこともない。どんな相手にもそつなく対応してきた。
しかし今は冷静さを欠き、心拍数がぐんぐん上がっていくのが分かる。
女はティッシュをとって口から種を出すと、さらっといった。
「別れて頂戴」
一瞬めまいがして視界がぼやけた。
「ねえ、聞こえた? 陽介と別れなさい」
まさかこの女が──と、気の高ぶりが止まらない。
「陽介から聞いたわ。あなたホステスなんだって。冗談じゃない、あなたなんかに陽介を渡せるもんですか」
カッと頭に血が上った。汐里は柳眉を逆立て女を睨み付けた。職業を差別されたことが許せなかった。
「出てって、今すぐここから出てってよ!」
自分でも驚く程大きな声で、また怒りに声が震えている。
「はあ? 出て行くのはあなたの方でしょう」
女は勝ち気な性格をしていた。こんな小娘に指図される謂れはない。無性に腹が立ってきて、いよいよ敵意を剥き出しにした。溜め込んでいた鬱憤を一気に吐き出した。
「いい? あんたなんかより私の方が陽介のことはよく知ってるの。だって私の方が付き合いは長いんだから。どうせ色仕掛けで迫ったんでしょ。汚らしい娼婦。この盛りのついた売女!」
汐里は女に飛びかかった。
出会ってまだ五分と経っていない──にもかかわらず、取っ組み合いの喧嘩が始まってしまった。
互いに服や髪を掴み合い、リビングからキッチンへと暴れ、それは理性や分別のタガが外れた、まるで狂犬同士の争いだった。部屋にはどちらともつかない女の悲鳴が飛び交い、ガラスや食器が割れる音が響いた。
突き飛ばし足が滑って転んだところを、女が馬乗りになって汐里の頬を張れば、汐里も負けじと女の腹に当て身を入れた。やられたらやり返す──そんな原始じみた本能によって、暴力はますます苛烈さを増した。
汐里は床に後頭部を打ちつけ首を締められた。息が詰まり苦しく喘いだ。記憶が飛び、その後のことはよく覚えていない。
正気を取り戻した時には、血まみれの女が横たわり、胸には果物ナイフが刺さっていた。
呼び掛けても、揺すっても女は動かない。死んでるとわかった時から、また汐里は気が遠くなり、家の物が散乱した床に座って、ぼーっと宙を見つめたきり、夜を迎えていた。
◇
「ただいま」
同棲している恋人が帰ってきた。
陽介は、部屋に明かりがあるのを知って、昼間送ったLINEの内容を頭の中で諳じていた。汐里を信頼し、また彼女の立ち回りの上手さは高く評価している。
──きっと初対面で驚いたかもしれないが、お互い女同士、顔を見て話した方が上手くいくことだってある。
陽介は、そう安易に考えながらリビングに入り、目の前の惨状に凍りついた。
「な、なんだよ、これ。いったい何があった、汐里ー!?」
陽介の叫換に放心から覺めた。
汐里は恋人の顔をみて、どっと涙が溢れだした。取り返しのつかないことを犯し、罪悪感から胸が押し潰されそうだった。
「ごめんなさい……私、あなたの会社の人、殺しちゃった……」
しゃくりあげながら、ぽろぽろと大粒の涙をこぼした。
陽介は悲しみの淵に落ちた。震える手で女を抱き、そして号泣した。
「なに言ってんだ汐里、これは俺の姉さんだ」
「おねえさん……」
そう呟いて思考は途切れた。濡れた瞳に、二人の姉弟が映っていた。
結婚に反対な山形のお姉さんが上京して来ました
途中、この女の正体は見抜けたでしょうか?
しいて言えば、さくらんぼがヒントでした