1. アカウント "mina"
日常が突如非日常になると、人の思考とは停止してしまうものらしい。
「じゃあ、これからよろしく」
「はい…… ん?」
高校最後の卒業式で、今まで全く接点のなかった一つ年下の後輩から「付き合って欲しい」と言われた。
「ちょ、ちょっと待って……」
恐ろしくドクドクと波打つ心臓の音に反して、私の声はそれはそれは弱々しい。
よろしくと言って教室から去っていくその後輩男子の背中を見送りながら、私はなすすべもなく頼りなさげに伸ばした片腕を、するすると引っ込めた。
手を引いた後、その後輩男子が「ああ」、と何か思い出したように廊下から顔を覗かせた。
「これからは先輩じゃなくて "天音" って呼んでいいすか?」
「は? はあ……」
「後でLINEします。あ、する」
「は、はあ……」
何だ。その殿様にひれ伏す時に発する掛け声のような言葉は。
間抜けな表情で、同じく間抜けなたった三文字の言葉を繰り返すことしかできないこの状態。
だめだ。脳内で口を開けば、
どういう状況? か、どちら様でしたか?
の二言しか出てこない。
「あの子の名前すら、私知らないんだけど……」
では、何故付き合うことになったかだ。
遡ること一日前。
明日へと迫った卒業式のため、私たち卒業生 (予定)と在校生代表の2年生たちは、前日に式典の最終確認を行なっていた。
そして体育館に入場し、前方に設けられている3年生の席に着くために皆で行進している途中、事件は起こった。
その時は、本当にたまたま、偶然に、いつもならしないであろうミスを私は犯していたのだ。
「先輩、ポケットからハンカチ飛び出てますよ」
そして、その何とも恥ずかしい助言をしてくれたのが彼だった、という訳である。
「…………どうも、です」
もちろんそそくさとハンカチをポケットの最奥に仕舞い込んだ。
周りがクスクスと笑う中、何ともいたたまれない気持ちになりながら、前日の予行演習を終えた。
……という、苦い、と一言で片付けられる一場面の思い出。
正直、学年が違う彼とはその一場面の接点しかなかったはずだ。
なのに、時は戻り今日。
本番の卒業式が終わり、最後のホームルームも終わり。
代議委員だった私が最後の仕事として、担任の先生へ皆からの手紙を届けに職員室へと赴いた際、事件は起こった。
無事に手紙を届け職員室を出ると、何故だが昨日の後輩男子が引き扉の横に立っていた。
そして、スカートのポケットを目線で確認されながら、「ちょっと来てもらえます? 」と、一階の階段下すぐの教室へと連れられたのだ。
三階は3年生、二階は2年生、一階は1年生の教室やら職員室があるという、分かりやすい造りのうちの学校。
だが、今日は3年と2年しか登校していないので、一階の教室には当然だが誰もいない。
……何だろう。何を言われるのだろうか。
昨日の私をやんわりと笑いの対象へと持っていったこの彼。その時に家族しか知らないような、本来の間抜けさを見破られていたとでもいうのだろうか。
三年間、成績優秀で品行方正、どちらかというと優等生の部類に振り分けられていたというのに。
本日の本番中、今度は靴下でもずり落ちていたとか?
いやいや、身だしなみもチェックしていたし、それはあり得ないと思いたい。
が。そう思っていた矢先。
誰もいない教室で、何故だが突然、「付き合って下さい」と言われてしまった。
そしてたった今。
彼が去った後もなお、私は一人、1年生の教室にて頭を悩ませている、というわけである。
(いやいやいや。そもそも、お付き合いってこんな簡単にスタートさせるものなの?
……いや、違うな。
卒業前日に、ちょっとおっちょこちょいな先輩を偶然見つけて、よし、高校生活最後の記念にからかって卒業させてやろう的な?
……あ、もしやこっち?)
男女間の駆け引きという名の経験が無さすぎて、何が正解なのかが全く分からない。
そもそも、あの後輩男子と話したのは昨日の一度きり。
高校三年間 (彼は二年間だが)の中で、あんな一軍にいそうな後輩と接点があったことなど一度もない。女の子ですらない。
訳が分からなすぎて、もはや卒業生の誰でもいいから告って付き合えば勝ち、みたいな罰ゲームでもやっているのではとすら思えてきた。
いや、思えてきた、ではない。
それだ。それしかない。
私は何とか廊下まで出て、後輩男子の後ろ姿をしばらく呆然と眺めていたのだが、そう結論付けると何だか急に心が軽くなった。
……うん。よしよし、忘れよう。
LINEを交換してしまったが、今後これを使って連絡し合うことなどない。
放っておけば彼のアイコンも遥か彼方の下方へと追いやられて、いつかそれこそこの人どちら様? 的な感じになる。
その時に何の申し訳なさもなく、そのアイコンを消せばいいのだ。
何だ何だ。一瞬フリーズしてしまったがどうってことはない。
私は高校三年間を、ひたすらに学校規則に忠実に従います精神で過ごしてきた。実に平和だった。
仲の良い友人とは今後とも付き合いがあるだろうし、先生たちともちょこちょこ連絡を取れたらいいなと思っている。
心置きなく卒業したいのに、最後の最後でかき乱されてはたまらない。
(…………よし。とりあえず、私も家に帰ろう)
私は彼とは逆側の方角に向かって歩き出した。高校最後に校内をぐるりと一周してから帰るのも悪くない。
……というか、今 靴箱で顔を合わせたくはない。
なので、私は少し時間をずらしてから向かうことにする。
そういえば、あの後輩男子の名前は結局何だったのだろうか。
LINEを見れば分かるのではと思い、恐る恐る、先程交換したばかりのLINEを見てみた。
ページトップに躍り出ていたそのアイコンには「mina」と書かれていただけで、本名などは全く分からなかった。
というか、これは女性の名前?
彼女かどちら様かの名前をアイコン名にしている感じでしょうか?
という疑問と共に、私の表情は一気にスン顔になったのだった。
……やはり、関わらない方が良さそうだ。
そして。私と言えば、この後に旧友たちとの打ち上げがあることがすっかり頭から飛んでいた。
それで、家に着いた時に友人から連絡が来て慌てて引き返した。
今日は何だか色々と焦ってしまっていた。
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「…………やーべえな。超可愛い。
はあ、しんど」
大きな目を何度も瞬きさせながら、「ははぁ」、と殿様にひれ伏す家来のような声を上げた天音のことを思い出し、彼女に交際を申し込んだ男はため息をついた。
後ろを振り返ってみたが、彼女はこちらの方角には歩いて来なかったようだ。
教室に引き返し、こっそりと中を覗いてみたが、やはり彼女はもういなかった。
同じ靴箱へと向かえると思っていたのに、少し残念だ。
しかし、色良い返事をもらったわけだし連絡先も交換出来た。
緊張の糸が溶けたとばかりに、男がその場にしゃがみ込むと、
「よーう、お疲れ湊。最後にちゃんと告れたんか?」
と、男を "湊" と呼ぶ別の男が背後から声をかけてきた。
「最後じゃねえよ。付き合うことになった」
「え?! マジで? お前とあの真面目そうな先輩が?」
湊はこくりと頷いた。
「でっかい目が点になってて死ぬほど可愛かった」
「お前ずっと好きだったもんなー。あの人好きになってから一度も彼女作ってねえんだろ? 湊なら選びたい放題なのによ」
「先輩に遊んでる奴って思われたら死ぬ」
「いや、実際遊んでただろうがよ。よく一年半も禁欲したな」
「おい、禁欲とか言うな。今は薔薇が飛び交ってんだぞ」
「キモいなお前。せいぜい振られねぇようにな。何たって相手は4月から花の女子大生だぞ。
入学式からもう、サークルの勧誘やら飲み会の誘いやらで男がうじゃうじゃ先輩に群がるだろうな。
お前には一生なれねえ年上の男たちがな」
「…………」
「何だよ。浮かれすぎてそこまで気ぃ回ってなかったんか?」
「……高校の制服着て大学の前で待ってたら、ガキなん丸出しだと思うか?」
「いや、その前に待ち伏せとかやべーわ。約束してんならともかく」
「それだ」
「お、早速デートにでも誘うんか? 俺ら在校生ももうすぐ春休みだしな」
「それだ!」
湊は立ち上がり、パンツのポケットからスマホを取り出すとLINEの画面を開いた。
"早川天音"
フルネームなアイコン画面が、いかにも真面目な彼女らしい。
湊はにやけそうになるのを必死で堪えつつも、慣れた手つきで文字を打ち込んでいくが、
「いや、浮かれてんのが文面に表れててイタすぎる。もうちょいちゃんと考えよう。夕飯食った後でも送るか」
と、スマホを再びポケットへと戻した。
「……湊。お前、そんなキモいキャラだったか?
お前が女に送るメッセージは、「りょ」か既存スタンプしかねえんじゃねえの?
ま、何でもいいか。今日はせっかく昼上がりなんだしゲーセンでも行こうぜ」
「天音が彼女。嬉しすぎて死ねる」
「聞け」
湊の周りには相変わらず薔薇が飛び交っていたので、今日はゲーセンでも何でも付き合ってやろうと思えた。
天音が激しい誤解をしていたのをつゆ知らずに。