天女の息子
一条天皇の御世、夏も近い午前、京へ向かう街道を若い遊行僧が歩いていた。
この僧侶、裕福な貴族の三男坊だが、母親は妾、正妻の息子たちとの跡目争いを厭い、位階の叙位を待たずに出家した。しばらく寺で修行をするも性に合わず、嵯峨にある父の別荘の離れに草庵を営み、日々経文を唱え修行に励んでいた。
そんな僧侶の草庵を、時折訪ね来る男がいた。京の塾で一緒に学んだ幼馴染のその男、京で官職に就いているが、嵯峨に遊びに来ては草庵に立ち寄った。
幼馴染は常日頃、性善説を信じる僧侶に異論を唱えていた。
「この世は魑魅魍魎が跋扈している。善人ぶる人間もひと皮剥けば悪鬼羅刹となんら変わらぬ」
「では貴公も私も魑魅魍魎の仲間か。もしそうであったなら、私は仏の法力で救ってもらおうと考える」
「高名な寺の僧侶を見たか。今や自分たちの利得権益を増やすばかりで、人を救おうなどしていないではないか。所詮人間は性悪だ。どんなに良いことを言っても人間は自分本位であるのだ」
「いいや、どのような悪人であっても、根本には良心が宿っている。悪の道に染まるのは事情があってのこと、衣食住が満ち足りてさえいれば、本来、人は悪の心を持たないもの」
「そなたは父御の威光によって周りの人間から大事にされているから、他人の悪意を知らないのだ。俺のように下級貴族に生まれてごらん。人より出世しようと足の引っ張りあいさ。そなたは世間知らずなのだ」
この僧侶、幼馴染に世間知らずと言われたことがよほど悔しかったか、見聞を広めるために遊行を始める決心をしたのがつい一ト月ほど前。
確かに自分は鈴鹿の関を越えたこともなく、京に住む人々しか知らぬ。これを機に、自分の知らぬさまざまな土地、さまざまな階級の暮らしを見て回り、幼馴染にあのようなことを言われない僧侶になろう。
そうして支度を整え日を選び、意気揚々と出立した僧侶だったが、旅は大層難儀だった。なにしろ草の枕が体に合わない。
一日目の夜、日が暮れて、泊めてくれる家はないかと民家に声をかけてみたが、どの家も戸を開けさえしてくれなかった。
遊行に出ると件の幼馴染に告げたら「今時は偽の修行僧も行き交っているから、易々信用してはくれないぞ。僧の格好をした追い剥ぎなんかもいるそうだからな」と進言されたのだが、実にその通りだった。
仕方なく街道脇の木の下に草枕を置いた。
「然もありなん。この暗がりでは偽僧と本物の区別などできぬもの。物盗りと疑われたとて、無理もない。日暮れて戸を叩く私が無思慮であった」
二日目は、昨晩のこともあり祠の軒でも借りようと、明るいうちから人に聞いて探した。そうして街道から獣道を進んで入った古びた祠に辿り着き、扉を開けたら先客がいた。緋色の着物を肩にかけた白髪頭の老婆が、入り口近くの筵に座っていた。
「ここは夜になれば盗っ人たちが集まる。身ぐるみ剥がされたくなくば立ち去りな」
老婆が手で追い払う仕草をした。
「盗っ人たちとは。なぜ他人の物を盗るのでしょうか。働いて稼げごうと考えないのですか」
「いくら働いても貧しさは変わらない。ならば働いても無駄じゃあないか。坊さんたちは托鉢で他人から物をもらってる。わしら盗っ人とどこが違うのだね」
遊行僧は言葉に詰まった。
「説教しようとしても無駄さ。元来神仏をありがたく思ってはいない。坊さんといえど、いいカモには変わりはない。わしらを一生養ってくれる気がなければ、さっさと行きな」
それでもぐずぐずしていると
「どうしてもここで休みたいと言うならまず、その衣と頭陀袋をよこしな。そしたら一晩置いてやる。まあ、朝になったらその身がどこぞに売り飛ばされているかもしれないがね」と、しゃがれた笑い声をあげた。
遊行僧は震え上がり、慌てて祠から逃げ出した。
盗人の影を恐れながら暗くなりかけた道を歩き、ようやく橋下の草むらの中で震えながら横になるが、物音に怯え、休んだ気がしなかった。
この遊行をずっと続けていくのかと思うと、遊行僧は気が重かった。
慣れぬ野宿と徒歩の旅で体の節々が痛む。乾飯にもうんざりだ。温かな食事が恋しい。そんなことを思う自分が未熟なのはわかっている。しかし、かの釈尊もただ肉体を痛めつける苦行は無意味だと悟ったではないか。
「京へ帰ろう」
三日目の朝、遊行僧は踵を返し、京への道を選んだ。
嵯峨の草庵を発って四日目の朝、今日中には京の門に入れるだろうと、遊行僧は山間の街道を進んでいた。辺りの畑には村人らが、遊行僧の姿も目に入っていないように農作業に勤しんでいる。
遊行僧はこの四日間でずいぶん世間を知った気がした。
世の中には、目の前の生活に精一杯で他人を思いやる余裕を持てないほど貧しい人がいる。しかし、わずかな食糧の中から施してくれる人もいた。神仏を尊ばない盗っ人でも自分から何も取らずに逃してくれた。根底には善心が宿っている、全ての人間は生来善人である。貧困がその心を荒んだものにしているだけなのだ。
それを知っただけでもこの遊行を行った価値はあった。
「これでもう幼馴染に世間知らずと言わせない」
昼近く、集落に差し掛かったところでポツリと雨粒が落ちたと思うと、雨は急に激しくなり、そこいらの人々が慌てて片付け走り去る。
遊行僧は網代笠を被り歩いたが、雨足は強くなるばかり。ふと目の先にあった掘立て小屋、一寸雨が弱まるまでと軒下に駆け込んだ。
村の貧弱な畑を、雨の簾が包み込む。
修行僧が軒先から滴る雨粒を眺めしばらく佇んでいると、突然戸が開いて、中から盛年の男が顔を出した。
「おや、これはお坊様、難儀でしょう。よかったら中へ入りませんか」
穏やかな物腰のその男は遊行僧を土間へ招き入れた。
家の中は粗末だった。土間の奥の狭い板敷にはせんべい布団があるだけで、これといった家具も物もない。小作農だろうか、男の薄汚れた着物も襟袖が擦り切れ、貧しい暮らしを物語っている。
ただ、男の身なりや家の様子に反して、土間のいろりに吊るされた鍋からは湯気が立ち上っていた。
「ちょうど昼飯に粥を炊いていたところです」
男はそう言って鍋をかき回した。
男は、遊行僧を上がり框に腰掛けさせると、托鉢碗に粥を注いだ。
米粥がたっぷりと入った椀を見て、遊行僧は驚いた。今朝、農民の家で托鉢を受けた粥は、米がほとんど入っていない、湯に幾らかの雑穀と草が入った汁だった。
遊行僧は不思議に思った。決して豊かな暮らしぶりには見えないのに、何か特別な日だったのだろうか。
「貴重な米を、いただきます」
「どうぞ、米だけはたくさんありますから」
男は屈託なく言った。
男は遊行僧の足元の筵に座り、粥を食べ始めると語り出した。
「お坊様は天女と会ったことがありますか」
「天女……。まだ私は修行中の未熟な身なので、会ったことも見たこともございません」
「実はね、私の母は天女なんです」
遊行僧は何と答えればいいか分からなかった。
「信じられませんか。そうでしょう。天女の子だと言うと、子供の頃はよくいじめられました。でもね、本当らしいんです」
遊行僧はとりあえず男が話すままにさせてみた。
「父が若い頃、たまたま山道で足を挫いて困っている女を助けたのだそうです。それで家に連れ帰り怪我の手当てをし、その足が治るまで面倒を見てやったとかで、何日か一緒にいるうちにお互い情が湧き、やがて二人は結婚し、そうして私が生まれたのです」
「私が一歳になった頃、母の元に天から迎えがきました。母は天女だったのです。それで母は父と私を置いて泣く泣く天へ帰っていったのです。以来、母と二度と会うことはなく、私は父ひとりの手で育てられ生きてきました」
「数年前、父が病に倒れました。その時、父は両手で持てるほどの壺を見せ、この壺はお前の母が天に帰る時に置いて行ったものだ、と言いました」
「幼い我が子を置いていくのは心残り、せめてこの子が食べる物に困らないように、と米のぎっしり入った壺を置いて行ったのだそうです」
「不思議なことにその壺は、毎日米を食べても一向に空になりません。いくら食べても、次の日に蓋を開けるとまた壺はいっぱいの米で満たされているのです。父は木こりをしていましたが、特に儲かっていたわけではありません。なぜ私たち親子はこんなに毎日米が食べられるのか、疑問に思っていましたが、ようやくわかりました。そうして父は、壺を私に託し、亡くなりました」
僧は碗を置き、丁寧に手を合わせた。
「父の言った通り、壺の米はいつまでも無くなりません。ご覧の通り、家の前にわずかな畑があるだけの暮らしですが、父が死んだ後も、その壺のおかげで私は飢えることなく暮らしています」
そう言うと男は立ち上がり、僧の碗に柄杓で水を注いだ。
「これって母が本当に天女である証なのでしょうか」
遊行僧は碗を大事そうに両掌で包み持った。
「私もそのような話は聞いたことがございません。貴方様の母御が天女であられるかどうか、確かめる術も知りません。ですが」
「私が思いますに、おそらく壺の米は、母御の貴方様への愛情の表れなのではないでしょうか。どんなに遠く離れていても、貴方様を思っていますという母御の愛情。そう、いつまでも減らない壺の米のように、母親の愛情は永えに子に注がれるものなのです」
遊行僧の言葉に男はしんみりした。
「私は幼い頃に母に置いていかれ、母に一目会いたいとどんなに祈っても、会いに来てはくれなかった。母は私のことなど愛していないのかと思っていました。今、お坊さんの話を聞いて、たとえ離れていても、会えなくとも、母は遠くからずっと愛情を注いでくれているのだと知り、嬉しく思いました」
男はそういって涙を流した。
「ええ、ええ、母親とはそういうものなのです」
遊行僧も胸が熱くなり、思わず目に涙を浮かべた。この話、京へ帰って皆に伝えよう、子を思う母の愛は尊く無尽蔵だということを。
遊行僧は無性に自分の母親に会いたくなった。
そうだ、嵯峨の草庵に戻る前に、京へ入り母上の屋敷に立ち寄ろうか。母上は好物を仕度してくれるに違いない。冷し瓜でも食べながら旅の話を聞かせよう。
気がつくと外は明るく、雨は上がっていた。
遊行僧は湯を飲み干すと、立ち上がった。その心は雨上がりの空のように晴れ晴れとしていた。
「仏のご加護がありますように」
遊行僧を戸口で見送る男は、ふと何かに気づいたように言った。
「もし母が死んだら、どうなるのでしょう」
「は?」
「母が死んだら、もう米は出てこないのでしょうか。そうしたら私は何を食べて生きていけばいいのでしょうか」
男は真顔だった。
遊行僧は何も答えず一礼をし、重い足を京へ向けた。
過ぎたる情けは人を怠惰にする。(了)