宿る場所
皆が同じであることがいいことだという日本の社会の考え方は、今の時代には負の遺産となってしまったのではないでしょうか?
閉じ込めたものを無理に開けることはない
傷ついたことを無理に話すこともない
ただ
自分の気持ちをごまかさず
ただ
素直な心を偽らず
そのためにここがある
ひとと交わるのが大変ならここに来ればいい
ここは無理に交わらなくていい
話したいことだけ話せばいい
何処にも居場所がないと感じるならここに来ればいい
ここでは自分の好きな場所に居ていい
席なんか決まってはいない
名札なんかいらない
君がどこのだれで幾つであろうと
ここにいる君が君なんだから
それさえわかれば何もいらない
ぼくはただ笑っているよ
君が泣くのだったらそばにいて
一緒に泣いちゃうかな
ぼくはいつでもここにいるよ
それだけはここでの約束にする
ぼくは君の苦しみや悲しみや辛いことはたぶんわからない
でも、君のこと、一緒に考えることはできる
君のこと、わかりたいと思う努力はできる
君は決して一人じゃない
でも君の道は君自身が決めるんだよ
一緒に考えることはぼくにでもできる
だから
話したくなったら話せばいい
歌いたくなったら歌えばいい
泣きたければ泣けばいい
怒りたければ怒ればいい
自分に素直になれるのならばそれがいい
絵を描くのなんてのは僕のおすすめ
音楽と一緒にね
多数決の社会は多数決で勝ったものが生きやすいルールをどんどん作っていきます。そして負けたものをうわべでは救うようなふりをして、実際には排除しようと生きずらくしていきます。でも結果がこの停滞した疲れた社会です。かたちには様々なものがあっていいと思います。それが当たり前です。同じであろうとする方が無理があります。互いを認め合い理解しようと努力することこそ今すべきこと、ずっと以前からすべきだったことではないでしょうか?