キス……2。
俺は今、とある友人の話を想い出している。
数年前に結婚して、代行運転サービスの会社を奥さんと二人で立ち上げた友人だが、会社が軌道に乗り始めたころ、漁村というのだろうか? とある浜辺に面した集落へ酒に酔った客を乗せ帰ることが多くなったと言う。
酔っ払た客を無事家まで送り届け、友人の奥さんがお客の会計を済ませている間、友人は車内で待機していたらしい。
タバコを吸いながら待つ車内。
真夜中の海辺。
急カーブの多い峠を越えた先にあるその漁村は、海辺には面しているものの、後ろには真っ暗な山林が広がっていた。
(ガチャ……バタン……)
友人の車の後部座席の扉が開き、すぐさま閉まる音がした。
「お疲れー……」
タバコを吸い終わった友人が、車に戻って来たはずの友人の奥さんに声を掛けた。
返事が、無い。
ふと、友人がルームミラーを覗くと、そこには……。
誰も、いない。
恐ろしくなった友人は、車を置いて慌てて友人の奥さんのいるお客の家へと駆け寄ったと言う。
その後、友人は無事友人の奥さんと再会し、帰宅した後も何も無かった。
しかし、その後もリピーターとなったその漁村のお客を送り届けるたび、同じような出来事が度々重なったと言う。
背筋の凍るような想いを、幾度となくするハメになったので、その漁村のお客から代行運転の依頼が入る度に、ギョッとしていたと友人が、話していた……。
それが、である。
まさか、俺の身にも同じような出来事が起こるとは。
よくよく考えてみると、アレなはずの存在が、2体。
いや、そんな風には考えたくはないな……。
2人。
そう……。
俺の運転する車の助手席に、1人。
そして、後部座席に、1人。
乗っている……。
「ちょ、もう! なんで、黒音が、乗ってんのよー!!」
「別に、良いじゃん。夢葉には、関係ないし?」
「は!? 何、その言い方? 黒音を乗っけても良いって許可したのは、この私なんだからっ!」
「は? 運転してるのは、楓くんなんだけど? それに、夢葉自身が私に乗って良いって言ったじゃん?」
にぎやかだ。
にぎやかすぎる。
さっきから、ふたりとも、そんな調子で言い争っている。
アレなはずの存在とは、念えないほどにドンパチやり合っている。
ヒーターはつけたが、まだ、温まっていない車内。
寒いので窓を閉め切ってはいるが、コチラのお二人は、狭い俺の軽四の車内で、ヒートアップ。
迫熱した口喧嘩が、繰り広げられている。
窓が、ビリビリ震えている。
しかしながら、助手席の夢葉、後部座席の黒音ちゃん。
俺は、左隣とルームミラーを横目に、チラリチラリ。
ふたりの「たゆんたゆん」が、揺れている。
車の揺れも、あいまって。
たゆんたゆん……。たゆんたゆん……。
「「楓っ!!(カエデくん!!)前マエッ!!」」
ソリの合わない二人の声が、ふたり揃って、俺の耳もとに同時に届く。
「おぉっふ!!?」
(キキーッ!!)
車のタイヤと路面の擦れるブレーキ音。
寸でのところで、車が止まる。
危うく俺の車が、前の車に、ぶつかりそうになった。
「危ないよー! もう!! 楓!! 私らは平気だけど、楓に、もしものことがあったら、心配だよー!! あ、それはそれで……」
「そうだよ? 楓くん。怪我は、無い? 大丈夫? 私は、夢葉以上に楓くんのこと心配だけど、楓くんに、もしものことがあったなら……。あ、それはそれで……」
夢葉も黒音ちゃんも、俺のことを心配してくれているのは、有り難いことなのだが……。
隠しきれないアレな性質?
どうしても、アレな存在というものは、住む世界の次元が異なるせいか、生きている俺たちとは違う視点で、物事を考えてしまう視てしまう傾向があるようだ。
アチラ側視点……。
あまり、そんな風に考えたくは無いが、まぁそれも悪くはないかと俺は想う。
ふたりの言った台詞「それはそれで……」の後に続く言葉は、「良いかも?」だろう……。
とは言え……。
急ブレーキをかけた俺は、シートベルトに守られたが、夢葉はシートベルトに座ったまましがみつき、黒音ちゃんは、咄嗟に自ら俺の車の天井をすり抜け、車外上空へと避難。すぐさま、もとの後部座席に戻っていた。
信号が、青に変わる。
「それは、そうとさ? 楓って、何の仕事してるの?」
「あ、それ。私も聴きたい。楓くんは、何のお仕事してるのかな?」
車の発進と同時に、夢葉と黒音ちゃん、二人が続け様に口を開く。
「んー……。えーと。介護だよ? お年寄りのお世話。うだつの上がらないヒラ社員さ。」
「「ふーん……」」
夢葉と黒音ちゃん。二人が口を揃えて言う。
息ピッタリに。
俺のこと、エリート会社員とでも期待してたんだろうか?
まあ、俺も、そう言いたかったんだけど。
一番なりたくなかった大人。
平凡なサラリーマン。
非凡な人生を生きたかった俺は、ビビりなもともとの性格もあって、結局たいした冒険も出来ず、一番なりたくなかった大人になっている。
けど、もう……。
それも、良いかと思う。
なるべく、無難なほうが良い。無理はしない。楽して生きたい。それなりの苦労は、あっても。
それで、良い……。
そんな風に想う。
「あ、ちょ、楓! 車、停めて!!」
近道をするために、河原の土手沿いの道を走っていたが、夢葉が、河川敷の公園の方を向いて叫び、車の中から誰かに向かって手を振っている。
「ん?」
俺は不思議に想い、目を凝らして公園のベンチのあたりを見ると、一人の老人がコチラを向いて、薄ボンヤリと浮いている。
「あ、アレは……?」
「アレだねー。楓くん?」
「お、お爺ちゃん!!」
「「お爺ちゃん!?」」
車内から不思議そうに目を凝らしていた俺の後ろから、黒音ちゃんが俺に声をかける。
夢葉が「お爺ちゃん!!」と叫んだので、俺と黒音ちゃんは、ふたり顔を見合わせた。
(ブーン……)
夢葉が霊力を解放した時の独特な振動音が車内に響き、夢葉には重たいと思われた車のドアが、難なく開けられた。
ホテルのラウンジの扉だって、本当は簡単に開けられたんじゃないだろうか?
しかしながら、火事場のなんとか力とも言うし、夢葉のイメージ力次第では、重たい鉄の扉だって開けれるんじゃないかとも想った。
夢葉自身が、開けれるものと信じて疑いさえしなければ。
逆に言うと、出来るものも出来ないと夢葉が信じ込んでしまったなら、夢葉にだって、出来なくなってしまうのかも知れない。
夢葉の意志力次第で、夢葉自身の霊力は、変動する。
とかなんとか、夢葉の霊力について考察を重ねた俺は、夢葉の揺れる後ろ姿に見とれている。
お、お尻……。
見事な夢葉のヒップラインが、メイド服に張りつくように揺れているのである。
しかし……。
公園のベンチに薄ボンヤリと佇んでいるのは、「お爺ちゃん」?
夢葉の?
それにしても、見事な夢葉のヒップラインだが、やはりアレなせいか、一歩一歩「お爺ちゃん」に駆け寄る夢葉の歩幅が、「スー……スー……」と、宙に浮くように大きい。
何やら、「お爺ちゃん」と夢葉が話し込んでいる。
出勤までには、まだ時間がある。
「ウフフ……。楓くん? ふたりきりだね?」
「えっ?」
黒音ちゃんの声が聴こえて……。
俺が、後ろを振り向くと──
──黒音ちゃんが、俺に、キスして来た……。
2秒間。
約2秒間ほどだった。
刹那のタイミングで、黒音ちゃんが、俺の口唇の中へと、何かを押し込んで来た──