花選びの章17 過去 ――呪と邂逅 ――
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花選びの章17 過去 ――呪と邂逅――
愛してもいない男に無理矢理孕まされた子。
この望まれぬ子に天の加護が授けられたと知った時、自分の心を占めたのは苦悩だった。
――何故。
生まれたばかりの嬰児。
何も恐れず、何も疑わず、腕の中ですやすやと眠る赤子。
――何も知らず。
天から全てを授けられた子供。
けれど引き換えに失ったのは、無心に求めてやまぬ筈の父母の愛。
誕生を望まれなかった――我が子。
この子一人が生まれる迄に、一体どれだけの血が流されただろう。
まるで、生れ落ちた瞬間から屍に君臨する王の様。
死者の血で産湯を使い、死者の骨の揺り籠で眠る、死を司る者。
誕生と天秤に掛けられた、甚大な犠牲。
母性と理性の間で、憎悪が揺れる。
理不尽への瞋恚が燃える。
分かっている。
千々に裂けた心の先に、真の暗黒が口を開けている事を。
一度囚われたら決して逃れられぬ永劫の闇、骨まで溶かす狂気の澱がある事を。
けれど。
憎悪と愛情。
全てを狂わせた男への怨嗟と、受け入れねばならぬ運命への諦観。
残酷な仕打ちへの憤激。
未来への懊悩。
抱え込む、混在する、全てが。
――殺せ。
生かせ。
――憎め。
許せ。
――恨め。
愛しめ。
囁く。呪う。悟らせる。慈しむ。
身が裂ける思いだった。
どの声に身を任せても、必ず、反する思いが、忘れかけた激情を揺り起こした。
もう、限界だった。
――視える。
そこは狂気の淵。
踏み止まれば、この世の地獄。
堕ちれば――彼岸の住人。
女は片手に我が子を抱いた儘、全てを憎む男に指を突き付けた。
そう。
これこそが示された未来。
たとえ、それが、自分の望みではなくとも。
我が子に茨の道を示すものでも。
――それが、天の意思。
「吾子には我が神の加護が授けられた……」
視える。
告げる。
この男には裁きを。
真実此岸で屍の上に君臨する男に、流した血への贖いを。
紫電閃く瞳が見据えるのは、残酷な未来。
――子には加護を。父親には罰を。
どちらも下すのは、女の信じる天の神。
――それが定めというのならば。
永劫の苦痛を。
不変の罰を。
己に繫がる血を持つ者に因って終えられる未来。
そして始まる地獄それこそが。
「己が血に連なる者の手に掛かり」
――呪え。
「我が神に喰われよ」
狂気の世界で、せめて願おう。
――ただ願う。貴女が笑顔でいる事を。
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網膜に焼き付いているのは、闇と光。
期待と気恥ずかしさで、その日は朝から落ち着かなかった。部屋を抜け出したのは気を紛らわせる為の筈だけれど、今にして思えば、呼ばれていたからかも知れぬ。――彼女に。
探しに来る大人達の目を掠めながらだと、慣れた庭園も一風変わって見えて愉快だった。植え込みの隙間に潜り込んで、追手が行過ぎるのを待つ間は、笑いを堪えるのに苦労した。
そうして、散策の果てに辿り着いたのは来客用の別館で。
ふと見上げたのが、不穏な気配を察したからか、何か物音を聞き付けたからかは覚えていない。
振り仰いだ空、視界を埋める、滅多に使われぬ高楼を有したその邸、三層からなる高楼の最上階の朱塗りの勾欄の先にあったのは、突き出した二本の腕と、
――それに首を摑まれた、小さな体。
一瞬、何が起きているのか理解出来なかった。だが驚愕が過ぎた刹那、自分は咄嗟に小さな両掌で口を押さえ込んでいた。叫ばぬ様に。
その時の自分は僅かに三つ。だが、幸か不幸か、その光景の意味が解る教育を受けていた。
あの小さな体はぐったりとして動かない。既に息絶えているのやも知れぬ。今ここで自分が叫んだら、目撃された事を悟った凶行の主は、あの小さな体に止めを刺し、そうして目撃者の口を封じんと、間違いなく自分を殺しに来るだろう。
逃げなければならなかった。
――逃げて、人を呼んで。
口を押さえたまま後退る。
視界から惨い光景を消したら、後ろからあの禍々しい腕に襲われる様な気がした。
だから、目を逸らさなかった。睨んだまま、ゆっくりと、後退った。
だが数歩後退した辺りで、二本の腕が細い足首を摑んだ。逆さに持ち替えた小さな体を。
「!」
頭から遥か下の地面に叩き落したのである。
激突の瞬間、自分は流石に固く目を瞑って顔を背けた。
耳を塞いだ。
それでも響いた。重い物が大地に叩き付けられる、鈍い音が。
地を這って伝わる衝撃にしゃがみ込んだのは丁度植え込みの影で、だから凶漢が下を覗いたかは分からない。顔も見ていない。
凍りついていた時はどれ程か。
がくがくと震える膝で不幸な子供に躙り寄ったのは、万一の可能性を捨てていなかったからだと思う。
人を呼ばなければという思いよりも、上から非情な腕の主が下りてくるのではという恐怖よりも、生死を、出来れば無事を、確かめたいという気持ちが強かったからだろう。
赤子が這うよりも遅々たる進みで、血の気の引いた指先で芝を摑んだ。心臓が半鐘の様に喧しく鳴り響き、突っ張った腕が鉛の様に重かった。足に絡んだ服の裾は鎖に変じ、一寸進むのにもどかしい程時を要し、哀れな子との距離は一向に縮まらなかった。
何故、という思いが漸く湧いて、それが更に混乱を生んだ。それでも前に進むのを止めぬ自分の前で。
真珠色の光が、生まれた。
それは、淡い奇跡の煌めきだった。
狂気と憎悪の闇と、優しくも眩い奇跡の光。
覚えているのは、ただこの二つ。
心に強く残った相反するもの。
たった三つの幼子に過ぎぬ自分に残されたのは、鮮明な記憶と、そして。
この時こそが、全てが始まった瞬間――。
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全く別の世界観ですが、お時間がございましたら、
星を掴む花
天に刃向かう月
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