21。彼を取り巻く環境は
男子主人公達の章、最後の1人です。
朱 太霧 は、ごく平凡な平民の子として、生を受けた。 彼の両親は一般的な平民であるものの、彼が8歳になる頃までは健在で、農家として稼業も順調であった。その日の食べ物に困る生活とは無縁で、彼は両親の愛情をたっぷりと受け、素直で優しい子供に育っていた。
しかし、その幸せは長く続かなかった。彼が9歳になる直前で、その年に大流行した流行病により、彼の両親は呆気なく儚くなった。その後、親戚に当たる叔父伯母の家をたらい回しにされ、彼は最悪な人生というレール上を、歩んでいく。
たらい回しにされた自体は、彼にはまだマシな扱いだと言える。何故ならば…躾という嫌がらせや、若しくはイジメと言える酷い扱いを、各家庭で受けることになったからだ。兄妹が残した大切な甥っ子とは扱わず、唯のお荷物だと捉えて労働もさせた、親戚達。引き取られた先の伯父叔母達の子供達と、従兄弟関係の彼とが喧嘩すれば、何方が先に悪口を言ったとか、何方が先に手を出したとか全く関係なく、彼が一方的に怒られることとなる。
また躾と称しては、何かしらの罰を彼に与えた大人達。食器洗いや掃除、他にも雑用を押しつけることは、日常的である。最終的には罰とか全く関係なく、彼が自分達に逆らわないようにと躾る目的で、日常的な手伝いを余儀なくされていく。大人の仕事を手伝うことは当たり前とされ、彼本来の仕事となっていったのだ。
各家庭で母親や父親が担う大人の仕事を、彼にメインで任せた。…否、強制的に押し付けていた、と言うべきであろう。彼の両親が彼の為に残した財産も、彼らは全て搾取していたというのに……
そして、彼が居候することさえも邪魔とし、他の親戚へとたらい回しした。この状況が数年繰り返され続けた結果、彼は心を完全に閉ざしてしまう。偶然にも朱家の当主が太霧を見つけた時には、彼の身体はガリガリに瘦せ細り、誰にも心を開かない状況となっていた。
この事態を重く見た朱家当主は、彼に残された財産を全て返還させようと、彼の親戚へと圧力を掛けては、その一方では朱家で彼を保護しようと、決意した。彼の保護を優先する必要があるほどに、彼への扱いは真面ではなかったのである。
彼の親戚達は彼と同じく平民で、身分上でも上位となる朱家には、流石に逆らうことは許されない。彼の両親の遺産も渋々ながら、返還を了承するしかなく。この時はまだ、彼は朱家の養子になるかは決定しておらず、彼の身の振り方の1つになればと、朱家当主は取り敢えず武術を教えることにした。
意外にも、彼はメキメキと実力をつけ、あっという間に基礎的な武術を身につけていく。然も、目を輝かせ楽しそうに…。但し…それでも、彼は未だ無言だ。泣きもしない代わりに笑いもせず、一言も話そうとしない。朱家当主は読み書きが出来ないと考え、彼に教育を受けさせることにした。すると、簡単な勉強を学んだ形跡も見られ、勉学も直ぐに基礎を身に着けた。
彼は、声が出せない訳ではなかった。親戚に裏切られ酷い扱いを受け、声を出すのを諦めただけ…。剣を振った時などに、「…やっ!」などと短い小声の掛け声に、当主も漸く気付く。耳を澄ませないと聞こえない、小声だが。
…太霧を朱家の養子として、正式に迎ようではないか。そうなれば、娘は他家へ嫁ぐことにも、なるやもしれぬが……
朱家当主は、一大決心をする。妻は既に故人で、彼の家族は娘だけだ。朱家は商家としても有名だが、元々は武術系の家柄であり、娘にも武術を教えている。彼女はまだ10歳になったばかりの少女で、朱家の子ということを抜きにしても、十分に素質を持っている。将来、未来の王妃の護衛に選ばれるやもしれぬと、当主は自慢に思うほどに親バカぶりなのだ。
…もう1人子供が居れば、悩むこともないのになあ。我が家の武術を任せられるような養子を、何処かからもらい受ける必要が、あるかもしれぬ…。
当主は常々、頭を悩ませた。後妻を迎えることが手っ取り早いが、妻一筋の彼にその選択肢はない。自分が再婚することで、最愛の妻が残した大切な一人娘を、傷付けたくなかった。後継者ほしさの為だけに婚姻する必要はないと、周りから勧められる縁談を断り続けた。
それが思わぬ形で、養子を取ることになった。農家の子供と言えども、元々それなりに良い暮らしをしていたらしく、最低限必要な知識を得ていた太霧。親戚達から酷い扱いを受けていなければ、朱家当主の目に留まることもなく、今も平々凡々の生活を送っていたかも知れない。武術も勉学も優秀すぎるほどで、平民には勿体ないほどの実力だと、嫡男としても申し分なく。
良い人材を見つけたとご機嫌な父親に対し、蓬花が乙女ゲー通りの朱家の娘であったなら、太霧に嫉妬して虐めたかもしれない。実際の彼女の性質はやや違い、母親の分の愛情をも父親から十分に受け、初対面の時から太霧に対して、同情的な心情を持っていた。
その一方で、唐突に裕福な商人の養子となった太霧は、困惑した。朱家当主からだけでなく、1歳年上の当主の娘である少女からも、世話を焼かれて大切に扱われ、あまりにも良すぎる待遇に、恐れた。まるで…夢のようだと。
…この生活に慣れた俺は、今後1人で生きていけるのか?…あの子にも、いつか会える日が来るだろうか……
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太霧がまだ幸せであった頃、実は…とある少女と出逢っている。その少女はどう見ても、何処かの高貴な貴族令嬢という言葉が相応しく、上品な仕草を振る舞うにも拘らず、心優しい少女でもあった。
太霧は7歳になったばかりの頃で、少女は彼より幾つか年下と思われたが、実際に少女と会話を交わせば、少女の方が年上に感じるほどに大人びていた。大人とも対等に会話が成立し、年齢以上にしっかりしたというよりも、随分と大人っぽく感じてしまう。甘えん坊な少年には、余計にそう思えたのかもしれない。
その当時から少女は年齢以上に賢く、慈悲深い存在だと感じられた。成り行きで貴族の馬車の前方に飛び出し、もう少しで馬車に轢かれそうになった彼を、他の馬車に乗る少女が偶然にも目撃したことが、発端だ。少女が助けてくれなければ、彼はこうして今でも元気でいられなかった筈だ。転んで怪我をした程度で、済むこともなかっただろう。
麓水国だけでなく世界全体に共通することだが、貴族が平民を馬車で轢き殺す結果となろうとも、悪意がなければ罪に問われないことも、多々ある。実際に例の馬車に乗る貴族はそう捉え、御者もその命に従った。
要するに、飛び出して来たのは子供の方だと、太霧を轢き殺そうとした。それに気付いた貴族令嬢と思われる少女は、それなりに豪奢な馬車に乗り、家族と共にとある場所に移動中であった。少女の高らかな声音は、今にも少年を撥ねようとしていた例の馬車を、止めさせたのである。
「そこの馬車、止まりなさいっ!!…赤家を侮辱されますのっ!!」
少女の声はザワつく騒がしい街中に、朗々と響き渡る。少女の叫んだ言葉は、貴族ならではの命だ。身分の高い者を無視する貴族に向けた、高貴な者からの命令でもあった。例の馬車の馬が驚いていななき、御者が手綱を引き寄せる前に、前足を大きく上げ身体を逸らし、まるで少年を避けるようにし、ピタリと走りを止めた。
馬は本来、非常に臆病な生き物だ。例えどのような小さな生き物でも、突然目の前に現れたことに驚き、避けようと行動を取りつつも、結果的に馬上の人間を振り落としてでも、避けようと行動する。それなのにスピードを緩めず、少年を轢きそうになっていたのは、御者の所為でもあった。日頃から馬は御者に叱られ罰を受け、御者を怖がるあまりに麻痺していたとは、人間達は誰も知らない真相である。
馬にも様々な理由はあったとしても、自らと関係のない人間の死に、人間のような悲しみや苦しみ・後悔などの感情は、持ち得ないことだろう。馬自身も知らない人間を撥ねたところで、犯した罪の大きさに気付かない。特に子供に対しては、馬にとって命令される相手ではないと、馬より下に位置付けることもある。
馬より上だと認識させるならば、馬も他の動物も人間の子供に対し、命令を受け入れることだろう。実際に少女を、命令を聞く必要のある相手だと、認識したのかもしれない。本能で少年を避けるべきだと、理解して。
まだ7歳の太霧は、少女によって助けられたとは気付いても、また少女が平民の自分より高貴だと気付いても、少女の命じた言葉は理解していない。赤家という家柄や侮辱というものを、まだ何も知らずにいたあの時の彼には、迫ってくる馬車に恐怖を抱いていたことで、少女の言葉もうろ覚えで殆ど覚えていなかった。せめて赤家だと思い出せれば、彼女の正体が直ぐにでも判明しただろうに。
太霧は元々体育系のタイプだが、それほど頭が悪い訳ではない。他にも赤家を表すものを彼は見ていたが、単なるマークや飾りにしか見ておらず、彼女に繋がる要素は覚えていない。それほど恐怖を感じていたと、言えるであろうか。
この時の少女は勿論、言わずもがな…怜銘であった。彼女は赤家の両親・兄姉と共に外出中で、赤家家紋入りの豪奢な馬車に乗っていた。皇帝からの正式な招待を受け、皇居に向かう最中として。流水という皇太子の遊び友達として、表向きは赤家の子供達全員を、皇帝が招待した形だ。実際には皇太子妃候補として、怜銘を呼び出す為の皇帝の策略でもあるけれど…。
そういう事情から、正式な家紋入りの馬車に乗っていた。そうでなければ…普段用の質素な馬車で、出掛けていただろう。高貴な者と命を出したところで、赤家の威厳は通じたかどうか……
実は…怜銘はその後、流水と愁水の双子に出逢うこととなる。昼間は皇太子・流水と出逢い、夜は…秘匿されている愁水との、運命の出逢いを。
太霧の章、始まりました。彼は生い立ちが複雑で、怜銘との出逢いをどういう風に描くかが、今回の焦点でしたが…。この頃の怜銘には、前世の記憶はありませんでしたが、前世の彼女らしい性格が最も影響した頃で、こういう展開もありかと思いつつ、気が強くてお転婆で破天荒な部分を、描いてみた次第です。太霧と蓬花に関しては、以前にも本編で触れているので、多分…次回で終わるかと。
本文補足説明ですが、太霧が怜銘より年上の表現が見られますが、実際は同い年の誕生日が多少早いだけ、という状況です。背が低く童顔の怜銘を年下だと、太霧が勝手に勘違いしただけでした。
※本編終了後の番外編では、人物により話数が異なります。男子主人公が終わった後は、まだ恋愛が成就していない人物、他の人物視点などを交えて、書いていこうかと考えています。主人公達のその後も、書きたいですね。




