羽撃く影(3)
家々が密集するヒュルー中心部から外れるとわずかばかりの田畑があり、さらにその外には防衛用の柵がある。しかし柵は昨晩の戦いによってところどころ壊されており、代わりに木材が幾らか並べられていた。
白いローブマントの少女はその木材に近づいていき、それから彼女の耳元についている緑色の宝石が嵌ったピアスに触れる。ピアスからは緑色の光が溢れていき、その光は彼女の手のひらにまとわりついていく。
少女は光を帯びた手を木材に掲げる。すると木材は緑色の光りに包まれながら形を変えていき、ものの数秒で木製の丈夫そうな柵へと成っていった。この世界に存在する『魔法』という技術だ。
「これで最後」
彼女はつぶやき、気合とともに手をかざし続ける。壊れた柵のあった場所に新品の防衛柵が出来上がると、大げさにため息をついた。
「疲れたあ……」
ポニーテールを揺らして彼女は振り返る。その視線の先には彼女と同じ設えの白いローブマントを身に着けた青年が一人。彼女と少しばかり距離をおいて立っていた。
「これで良いかな、速人」
少女に『速人』と呼ばれた青年はその手に持つ紙に何かを記載してから頷いて、ずれた眼鏡を人差し指で直す。
「はい。お疲れ様です。綾香。……村の守りはこんなところでしょう」
速人はポニーテールの少女……綾香を労うように微笑みながら彼女に近づいていく。綾香は、自らが作ったばかりの柵を横目に見てから自身のなさそうな表情になった。
「これで、何とかなればいいけど……」
綾香の作った柵は大人の男の身長よりも高く、『返し』もついている立派なものではあるが、いかんせん木製だ。火をかけられてしまえば心もとない。そんな不安から来た、自身のない言葉だった。
だが、速人は首を横に振る。
「充分ですよ。……もちろん、ラルガが全兵力をもってして攻めてきたら守り通せないでしょうが、この柵で時間は稼げます。逃げるための時間は作れるはずです」
「逃げるって……」
更に声に不安を交える綾香に対し、速人は「必要なことです」と厳しく言い切る。
「絶対の守りなんていうものはありません。あとは、指揮官が状況を見極めることが重要です。我々に出来ることはここまでです」
毅然とした態度の速人。柵から速人に視線を移してから綾香は、気の抜けたように笑った。
「速人は随分と冷静だねえ……助かってるよ」
そんな言葉を向けられて、速人もいくらか口の端を緩めた。
「ええ、そうですね。あなたやソラと比べれば冷静なのは間違いないです」
「ぬけぬけと……」
茶化し合い、緩んだ空気を再び引き締めるように速人が柵に近づいていき、何度か叩く。びくともしない様子に満足しつつ、速人は綾香を振り返った。
「こちらも助かってますよ。特に、あなたの樹を操る魔法は素晴らしい。こうやって大規模な戦闘にも備えることが出来ます」
急に褒められて気恥ずかしくなったのか、綾香は頬を人差し指で掻く。
「まあ、限界はあるけどね。元になる材料がなければ、ここまでのことは出来ないから」
彼女は自らの魔法の制限に気づいていた。
樹を操る魔法ではあるが、実際に命を生み出しているわけではない。彼女が作り出した樹は成長することもなければ、実をつけることもない。彼女の魔法はイメージした木製のもの――言うなれば、樹の死骸――を作り出したり、形を変えるだけである。
さらに言えば、なにもないところから樹を作り出すのは負担が大きく、あまり多用は出来ない。明日の出発を控えている状態で消耗するのを避けるために、柵の材料になる木材を午前中のうちに他の義勇軍の手で運んできてもらっていた。
もちろん、そのことは速人も知っている。だが、速人は綾香に対する称賛を改めることは無かった。
「それでも、助かっているのは事実ですよ。……それに、もう一つ助かっていることもあります」
「……へ?」
何のことだかわからない、という様子で綾香は首を傾げる。対する速人は真剣な眼差しで小さく息を吐いた。
「ソラのこと、ですよ」
速人の言葉を聞いた綾香は、みるみるうちに表情を曇らせていく。重たい空気が二人の間に流れ始める。
これまでどれだけのことがあっても、――たとえ『月の精霊』にとりつかれた少年に命を脅かされても――踏みとどまり、人を殺すことのなかったソラ。彼がその一線を踏み越えてしまったのは、綾香が戦いの中で殺されかけてからである。
速人は静々と話し出す。
「……あの時から彼は変わってしまった。壊れかけたといってもいいくらいです。あなたが倒れた後のソラは自分を失っていました。それこそ、『何か』に乗っ取られたかのように」
彼は脳裏に、王都で我を失った『久喜輝』という少年を浮かべ、目を開閉。まばたきのうちにその残像を消し去る。
「ただ、ソラは帰ってきました。……それはひとえに、綾香、あなたがいたからです」
具体性のない言葉ではあるものの、綾香には伝わっていた。
心を失いかけたソラが拠り所としている存在が自分だということを、彼女は悟っていた。
「そもそもが、あたしのせい、だから」
「……そうですね。そこに間違いはありません」
容赦のない速人に、「うわ。はっきり言うなあ、速人は」と苦笑する綾香。速人は「誤魔化したほうが良かったですか?」と冗談めかして切り返すものの、綾香は「ううん」と首を横に振った。
「そう。あたしのせい。……だから、あたしだけは絶対にソラの味方で居なくちゃいけないの」
そう言った彼女の顔には決意と誠意が込められている。それを示すかのような強い目と、固く結んだ唇。
速人は僅かに圧倒されて、目を伏せる。
「……あなたも、ソラも、真っ直ぐだ。正しいかどうかは分からないが、嘘がない……」
それから彼は顔を上げる。
「昨夜の久喜に対する言動も、それが原因ですか」
問われて即座に綾香は「そうだよ」と認める。
「逃げ続けた久喜に、戦い続けているソラのことをとやかく言う資格なんて無いと思うから。……仮に、もし万が一そんな資格なんてものがあったとしても、あたしだけはそれを許さない。ソラの味方だから。……そう言うあんたはどうなの」
質問を返されて、速人は目を閉じて腕を組む。
「……私も、同じかも知れませんね」
彼はそう答えを出してから目を開き、綾香からヒュルーの中心部へと視線を送る。
「ソラは、背負いすぎている。私たちの分ですら背負っている。……そんなものは、理屈として通りません。だから、もう、これ以上背負わせたくないと思っています」
「……何か、意外。速人はそういうこと言わないと思ってた」
綾香は素直に驚いた表情で、物珍しそうに速人を眺める。視線に気づいた速人は綾香に向き直ると、照れたように目を細めた。
「そうですね。そういう……感情任せに判断することは私も少ないです。しかし、私もまた、人間です」
組んでいた腕を解き、ゆっくりと拳を握りしめる。
「ソラの苦しみを知っているからこそ、彼の……久喜の自分勝手さには、怒りを覚えています」
「同感だよ。あたしも」
怒気を孕んだ声色を出して、それでも綾香はすぐにそれを引っ込める。
「……これから久喜は、どうするのかな」
「心配ですか?」
「まさか。……ただ、ふと思っただけ」
綾香はヒュルーで遭遇した輝のことを思い出していた。
王都でソラを超えるほどの無類の強さを誇った彼は、自分が向けた弓矢にひどく怯えていた。
力を失ったのだと聞いて、同情してしまう気持ちも彼女の中には存在していた。
そんな彼女の心情を知ってか知らずか、速人はため息をつく。
「そうですか。……私から言わせてもらえば、久喜がどうなるのかは私たちには知ったことではないですね。とはいえ……」
「そうだね。ソラは、気にするのかもね」
「ええ。変わったとはいっても……どこまでいっても彼は、お人好しですから」
そして速人は「困った人です」とつぶやき、それでも微笑んでしまうのであった。
○
日が傾き始めたころ。黒いショートヘアの少女、ミアは一人でヒュルーをぶらついていた。
彼女といつも一緒にいるエレックという青年剣士は側にいない。成瀬速人と明日以降の行動について相談をしている。
同席を勧められてはいたものの、少し一人になりたかった彼女はそれを辞退して抜け出してきている。あまり話の内容を理解できていなかったというのも理由の一つだったが。
服従の魔法になどかけられず、貴族の娘として勉強していたら理解できていたのだろうか。と、彼女は考えてみたものの、もしそうだったらこんな状況にはなっていないんだろうな、と自分を納得させる。
――そもそも、輝とだって会うことは出来なかったかもしれない。……それは、いやだ。
ミアは短い歩幅で歩き続ける。
何も考えずに歩いていたつもりが、彼女はいつの間にか昨日の野営地点――つまり、ヒュルーの外れの方――にまで辿り着いてしまっていた。
そして、彼女は視線の中に見覚えのあるものを見つけた。
「……これ、は」
丈夫な布で出来た、汚れた荷袋だった。
それ単体はこの世界のどこにでもあるようなものだったが、ミアにとっては二つと無いものでもある。何故ならそれは――。
「荷物も、持たずに……輝」
――今はここにいない、『久喜輝』の荷袋だったからだ。
ミアはふらふらと荷袋へ近づいていき、大事そうに拾い上げる。野営道具や食料の重みはミアの持っていた荷物よりも重たく、それに気づいた彼女は荷袋を抱きしめてしまう。
彼は、たくさんの荷物を抱えてきていた。その中には自分のものだけではなく、仲間の分の荷物もあった。……しかし、今はそれを捨てていった。ミアが最後に見た輝は、魔法の槍『グングニル』と、闘技大会で使っていた小刀のみを持っていた。
それが今の彼の気持ちを暗示するように感じられて、ミアは塞ぎ込みそうになる。
だが、彼女はそうしなかった。それは、自分に近づいてくる足音が一つあったからだ。
「……誰」
荷袋を抱えたままで足音の方を向くミア。そこには白いローブマントの少年が立っていた。明るい茶髪。憔悴した顔つき。身の丈もあるほどの白い大剣を背に負っている。
「王都の時とは装いが違うから、全然気づかなかった」
「……狛江、ソラ……」
ミアは彼の名前をつぶやいた。
近づいてきたのは狛江ソラ。白いローブマントを身に着けた少年少女たちのリーダー格だ。
ミアの目の前まで来ると、「久しぶりだな、デミアン・ダグラス」と挨拶をする。しかしミアは微動だにしない。荷袋を抱えたそのままの姿勢で、口を開く。
「……その名前は、ボクの名前じゃない。ボクは……ミアだ」
抗議の視線を受けて、ソラは痛々しく笑む。
「そうだな。悪かった。それで……ミア。それは、輝の荷物か?」
あくまでも友好的に話しかけてくるソラ。ミアは複雑な気持ちになりながらも、努めて冷静に返す。
「うん。置いていっちゃったみたい」
少女に抱かれたぼろぼろの荷袋。それに視線をやったソラは「拾う人もいなかったんだな」と呟く。そして、ミアに向き直って微かに首を傾げた。
「……なあ、ミア。今、忙しいか」
ミアは少し考える。
王都では力づくで協力を迫ってきた挙げ句、エレックと輝を傷つけた少年。ここヒュルーでも、この少年が『話をしよう』などと言い出さなければ、今ここに輝はいたかもしれない。
それでも彼女はソラを邪険にすることは出来なかった。
自分も輝と離れることを選んでしまったから。そして、目の前にいる少年が、困ったような笑顔だと言うのに、今にも泣きそうな表情をしていたからだった。
ミアは首を振る。「忙しくない」と言い、「何か、用」と聞き返す。
「少し、時間をくれないか」
ソラはそう言って、豪快にミアの目の前で座ってみせた。
「話がしたい。……久喜輝が、どんな風な旅をしていたのか、聞きたいんだ」
そして、彼はミアから、その抱えられている荷袋へと視線を向ける。
「他ならぬ、あいつの荷物を拾った人から」
「……ボクが知っているのは、ほんの少しだよ」
ミアは荷袋を抱えたまま、ソラと並ぶようにして地面に座る。
そして、彼女は思い出せるだけの輝の話をゆっくりとし始めた。
「……輝は、いつも悩んで、いつも迷ってた。そしてその迷いの中で、ずっと戦っていた」
湖の町で開催された闘技大会。その頃は『服従の魔法』によって記憶が曖昧になっていた。覚えているのは、何度切りつけても諦めずに立ち向かってくる輝の姿。最後には、自らの左手を犠牲にしながら、逆転されたこと。
そして、その翌日。服従の魔法から開放された後。改めて『服従の魔法』をかけるためにいたぶられていたが、隙を見て逃げ出したハリアの路地裏で再会した。輝は怪我を魔法で治療しただけではなく、ダグラス家の支配から逃れるための手伝いをしてくれた。その時に『ミア』という名前をもらったこと。そして、サターンを前にしても逃げずに戦ったこと。
次は王都。自らの危険も顧みずに戦ってくれた。そのせいで『精霊』という存在に身体を明け渡してしまい、我を忘れてしまった。それでも、最後には戻ってきてくれたこと。
それからは輝への恩返しのつもりで王宮に乗り込んで、この戦争にも参加した。ただ、それを迷惑だと感じて後悔することは無かった。むしろ、すぐに一人になろうとする彼を支えたいと素直に考えていたこと。
そして、昨夜。
「……分かってたのに……。ボクは……。それでも追いかけられなかった……」
それからミアは、彼女が意図的に考えないようにしていたところへ踏み込んでいく。
――輝に無理矢理にでもついていかなかった? 違う。本当に考えるべきは、どうして『ついていけなかった』のか。
「……ボクは、これ以上輝に、拒絶されたくなかった……」
ミアの耳に残っているのは『俺は誰も殺しちゃいない! 一緒にするな!』という輝の言葉。それは輝による明確な拒絶の意思だった。
彼女は気づく。自分が拒絶されるのが怖いから、輝を追うことをしなかったのだと。
「……それだけ」
思考を遮るように、今まで黙って話を聞いていたソラが口を開いた。
「それだけ、ミアは輝に嫌われたくなかったんだ。……輝のことが、好きだったんだろ? ……きっと、今も」
「……好、き」
彼女にとってあまり耳馴染みのない言葉。繰り返して言いながら、最後には「分からない」と付け加える。
「でも、ボクは、輝が大切だ。それは事実なんだ」
「……そうか」
ソラは簡単な相槌を打ってから、拳を握った。
「人に好かれる人間が、悪いだけのやつなわけ、無いよな」
彼は自分に言い聞かせるように言って、それからおもむろに立ち上がった。
「教えてくれてありがとう、ミア。聞きたいことは、聞けた気がするよ」
「……話は、終わり?」
ミアも倣うように立ち上がる。いつの間に日が落ち始めて、赤色の夕日が差し込んできていた。
その夕景の中で、ソラは言いにくそうに視線を逸らした。
「いや……。まだ、……ある」
そして、逸らしていた視線をミアに戻して、まっすぐ身体も向き直った。
「王都でのこと、謝りたいって思ってたんだ」
彼は真剣な眼差しでミアを見据えた。
「俺は、ラルガを倒すことをシュヘルで請け負った。……輝とはそれで袂を分かった」
彼の記憶の中には、周囲と対立して、追い詰められてしまった輝の眼差しがまだ残っている。
それを思い出しながら、彼は話を続ける。
「シュヘルにはラルガの部隊が来て、手下になれと命じてきた。それに従わなかったシュヘルは滅ぼされた。ラルガの軍勢には、その時の俺の魔法じゃ全く歯も立たなかったよ」
ソラは悔しそうに、拳を握る。
「辛うじて逃げ出した先のウートという港町で一樹と出会って、船に乗って王都まで向かった」
そして、目をつむった。
「俺は焦っていた。シュヘルでの惨劇を繰り返させてはいけないと思っていた。だから、……人を一人痛めつけてでも、ラルガを追い詰めようと思ったんだ」
ソラは勢いよく頭を下げる。そして、そのまま言葉を紡ぎ出す。
「本当に、悪かった」
数瞬の沈黙。夕焼けのヒュルーの外れで時間が凍る。それを打ち壊したのはミアだった。
「ボクは、もう何も思っていないよ」
すでに怒りを感じているわけではない、というのがミアの気持ちだった。しかしここで許したところで、彼の中の罪悪感が消えるまでには時間がかかるのだろうとも思っていた。
ソラは頭を上げてから、もう一度「済まなかった」と言う。
「勝手すぎるよな……。勝手に攻撃して、勝手に謝って。理由を話したのも、言い訳だと思ってくれて構わない」
「だったら、どうして謝ったの」
意地悪をするつもりでもなく、素直に気になったミアは率直に問う。するとソラは真っ直ぐな目で答えた。
「綺麗事と言われようが、何と言われようが、俺は『誰かのため』に行動することをやめられない。一人でも多い『誰かのため』を、求めてるんだ。何もなかったふりをするよりも、謝ったほうが、『誰かのため』……ミアのためになると、思ったから」
そして、続ける。
「その欲望が……『強欲』と言うのなら、俺はそれでもいい。それでも俺は、これからも『誰かのため』になる答えを求め続ける。『誰かのため』になるというのなら、奪うことですら厭わない」
「……『強欲』」
ミアは繰り返す。ソラは自らの胸元にあるペンダントを握り込んだ。
「そうだ。それが俺の、原動力だ」
その様子を見たミアは、目の前の少年が、輝と重なって見えてしまう。魔法を使う前にペンダントに触れていた輝。彼もまた、ソラの言う『強欲』のような『何か』を原動力にしていたのだろうか。
「輝は、どうだったのかな」
つい口をついて出てきてしまった言葉にうろたえるミア。だが、ソラは自信あり気に口元を緩めた。
「あいつの原動力が何なのかは、俺にははっきりとは分からない。それでも、まだミアにはあいつに直接聞く機会があると思う。……あいつは、まだ終わっていない」
「どうして、そう思うの」
「ミアが話してくれた輝という人間が。いや……。『ミアを通して聞いた』輝という人間が、ここで終わると思えなかった。えっと……つまり、ミアも信じてるんだろ? 心のどこかで、輝のことを」
根拠のないソラの発言。だが、ミアは思い切り頷く。
「……うん。信じてるよ」
それは、願望に近いものなのかも知れないとミアは思う。
そして、願望を持ち続けるというのは、もしかしたら『強欲』なのかもしれないとも考えた。
あれが欲しい。これが欲しい。拒絶されたくない。話がしたい。立ち直ってほしい。一緒にいたい。もう一度、会いたい。
自分勝手で、歪んでいて、弱々しく、それでも捨てられないその『強欲』を胸にいだいたソラとミア。二人に降り注ぐ太陽の光は、逃げ出した少年がかつて浴びていたものと同じ色をしていた。