そのとき彼は、想いを抱いた(8)
この学校の多目的室は少しわかりにくい場所にある。生徒たちの教室がある東棟、職員室や音楽室などがある西棟、西棟から体育館を経た先にある部室棟の中にはない。一度校庭に出て、中庭をすぎると独立した旧棟という建物があり、その中に存在している。
もともとは旧棟で生徒たちは授業を受けていたのだが、人工の集中に伴って建て増しに次ぐ建て増しを繰り返した結果、今のような複雑な形に落ち着いているのだと、入学案内に書いてあったことを思い出す。
かつて若人が学んでいた旧棟は倉庫や資料室など、普段使われない部屋として利用されており、多目的室もその中の一つだ。
人目が少ないことから告白スポットとしても有名である。だからこそ俺も戸上から待ち合わせ場所として多目的室と聞いて違和感は覚えなかったのだが、今はその逆だ。『人目が少ない』というのが、俺の中の嫌な予感を助長させる。
「何も、起きてないよな……」
旧棟の昇降口まで駆けつけた俺はそのまま階段をのぼる。多目的室は三階にある。途中息の上がった俺は、三階までたどり着いてから足を止めて息を整えた。
「なんで必死になってこんなことしてんだろうな……」
言いながら、それでも俺は後悔はしていない。
ユウスケには助けられた。ユウスケは友人だ。そんな彼の想い人が危うい状態になっているかもしれない。それは、自分が必死に動くのに充分な理由だと思う。
漫画やゲームの物語では主人公が『誰かのため』という想いを掲げて艱難辛苦に立ち向かう。他人事として物語の主人公たちを眺めているときは『くだらない』とさえ思ったことはあるけど、自分ごとになったら違うものだ。
「ふう……」
息を整え終わった俺は古臭い木製の廊下を進み、多目的室の扉を見つける。いざ手をかけようとした時、女性のくぐもった小さな悲鳴と物音がした。
「まさか……!」
嫌な予感が、当たってしまったか――。
「――失礼します!」
俺は勢いよく扉を開けて多目的室へ踏み入る。
目に入ってきたのは机一つ無い教室。窓には黒いカーテンが引かれ、窓からの光の代わりに蛍光灯があたりを照らしている。
そして、その黒いカーテンにより掛かるようにして男子生徒が一人。携帯を弄っている。更にその左へ目を向けると、教室の隅で二人の男子生徒が屈んで何かをしている。金髪の男と短髪の男。教室の外で聞こえた小さなくぐもった声や物音はそこからしている。
「あれ? 久喜、ちょっと早いな」
黒いカーテンに寄りかかっていた男子生徒が携帯を閉じて俺に微笑みかける。……戸上だ。彼は屈んでいる男子生徒二人組の方へ視線を向けると「主賓が来たぞ。急げ」と命令を飛ばした。
「ちょっと待ってよ戸上くん。こいつ結構力強くてさ」
二人組の片方の男子生徒――金髪の方――が戸上を振り返りながら言った。俺は言葉を発せないまま、男子生徒の方を見る。
必死に何かをしているその二人組の隙間から、男のものではない肌色の足が見えた。……いや、足だけではない。布のようなもので猿ぐつわを噛まされている茶髪の女生徒の泣き顔。そして、顕になっている、上体。
「前田さん……? ……こ、れは」
俺は身震いした。直後、拳を握っていた。
「今すぐやめろ! 何やってんだよ! お前ら!」
俺は前田さんを組み敷いている男子生徒に向かって駆け出す。だが、横から脇腹を突き飛ばされて横転。強かに打ち付けた頭を抱えて、俺は起き上がる。
そして俺を突き飛ばした犯人の方を睨みつけた。
「戸上! こんな……! 何を……! どうして……!」
「おお。怖いな。まあ落ち着け、久喜。すぐ準備出来っからさ」
「準備って……!」
俺は組み敷かれている前田さんを横目で見る。普段きちんと着こなしている制服は乱れていて、その肢体を床に投げ出している。抵抗は続けているが、それは名前も知らないような男子生徒が二人がかりで抑え込んでいた。
「準備は準備さ」
いつもの微笑みを浮かべて、戸上が歩み寄ってくる。彼はズボンのポケットに手を突っ込んだまま、にじり寄ってくる。
「久喜。俺は反省したんだよ。お前、全然『カラオケ』に来なかったからさ。お前にはイイ思いをさせてやれなかったな、って。だから俺に不満があったんだろうな、って。じゃなきゃ――」
彼の顔から微笑みが消え去る。不気味なまでの無表情で、ただ、俺を見る。
「――お前自身じゃない、どこぞの誰かのために、俺に楯突くなんて。……そんなふざけたことが出来るなんて、おかしいもんな?」
「ふ、……ふざけてるのはどっちだよ!」
「だから落ち着けって。……久喜、童貞だろ? 前田さん、結構可愛いし、こんな可愛い子で卒業出来るなんて羨ましいぞ」
話が通じない、と直感的に思った。
そして、話で通じないのであれば、俺がすることは一つ。今も自分の骨が軋んでしまうくらいに握り込んでいる拳をぶつけるだけだ。
ゆっくりと、両腕を上げる。喧嘩慣れしていない人間の、自分でも下手くそに思えるファイティングポーズだ。
「前田さんを離せ!」
叫ぶ。しかし戸上の無表情は変わらない。代わりに彼は俺に近づいてくる足を止めた。
「本気か……?」
冷たい声で聞いてくる。『本気で抵抗するつもりなのか?』と聞いてきているのだろう。もちろん俺は退くつもりなどない。勝てる自信はなくとも、掲げた両腕だって、下ろすつもりは……ない!
不意に、足を止めていた戸上の無表情に変化が起こる。口の端を吊り上げて、笑ってみせたのだ。
「へえ。……面白いな。ここでお終いにするのは勿体ないね……」
呟いた彼は俺を見ていた目を二人組の男子生徒に向けた。未だ藻掻く前田さんを押さえつけるのに躍起になっている彼らを一瞥して一言。
「おい。お前ら、もう引き上げるぞ」
意外な言葉だった。だが、戸上の言葉に反して男子生徒たちは前田さんから離れる様子はない。そのまま、金髪の方の男子が戸上を振り返る。
「ここまで来てそりゃないよ戸上くん。俺たちだけでもヤるぜ」
「……ふっ。自分のために楯突いてくるのは分かりやすくて良いよ。……ただし、俺は手を引く。今回俺は手を出さない。責任は自分たちでしっかり取れよ。『わかってるね?』」
戸上が『わかってるね?』の部分に含みをもたせて言う。しかし、二人組は彼の言葉を無視している。時折くぐもった前田さんの声が聞こえてくる。
「聞いちゃいないな」
戸上は大げさにため息をついてみせた。そして、教室の出口へ向き直ってから俺を振り返る。
「……あ、久喜はどうする? 俺は帰るけど」
何もなかったかのごとく聞いてくる戸上。その声色は普段の部活終わりのものと何ら変わりのないもので、それが俺には不気味に感じた。
だけど、不気味以上に気持ちが焦る。
俺は前田さんの方を一瞥してから戸上に対して怒鳴りつける。
「止めさせろよ!」
「さっき止めてみたけど?」
「……くそ!」
戸上に話したところで埒が明かない。俺のこの握った拳は、今前田さんを襲っている男子生徒二人にぶつけるべきだ!
「やめろ!」
俺は戸上に見切りをつけて、金髪の方に向かって駆け出し、羽交い締めにして引き剥がそうと試みる。しかし、体格が良いせいで上手く引き剥がせない。
それでも必死に掴みかかっていると、金髪は強引に振り払ってきた。
「んだコイツ! 邪魔だ!」
「ぐっ」
振り払われた勢いで教室に転がる俺。起き上がろうとするより早く、金髪が前田さんから離れて俺の方へ顔を向けた。
「おい佐藤くん。一旦抑えといてくれ。先にこいつ黙らせるよ」
「わかったよ斉藤くん。早めに頼むわ。我慢できねえ」
短髪にお願いされて金髪は「了解」と短く返す。そして俺の前に仁王立ちで立ちはだかる。
俺は拳を握ってそれに対峙する。身長差が大きい。俺よりも二十センチ近く高いんじゃないか。その威圧感に内心怯えながら俺は構えた。
「あ、あんたら、自分たちが何やってるのか、わかってるのか?」
「暴行だね。まあ、起訴されなきゃ大丈夫だよ。あの娘も君も、起訴なんてしたくなくなるしね。これから」
「何を――」
瞬間、目の前に蹴りが飛んできて俺は顔面で受けた。頭が真っ白になりながらも何とか倒れずに踏みとどまり、上げていた両腕の間隔を狭めて頭の前に置く。
「――ぐうっ」
何が起きた……。金髪に蹴られたのか……! 全然捉えられなかった……!
床に赤い雫が落ちる。鼻のあたりが生ぬるい。鼻血が出てしまっているんだ。
「ふうっ……!」
ふらつく頭を無理やり起こし、視線を床から金髪へ。彼は蹴り足を戻してから驚いたような表情になった。
「君、丈夫だなあ……。仕方ない。僕もさっさとヤりたいし、君は適当に縛ってから他所で潰しちゃうかあ」
「はあ……はあ……」
痛い……! じんわりと蹴られた痛みが顔から広がってくる。俺は両腕のガードを更にきつくした。
この金髪は、『何か』やってる人だ。昔、知り合いに見せてもらったことがあるからわかる。蹴り足を戻してからの立ち方や、暴力に手を染めた後の冷静さは、慣れた人間特有のものだ。
……逃げ出したい。ここまでの目に遭うなんて思っていなかった。甘かった。俺が誰かのために何かをしようだなんて……!
金髪が右足を引いたのが見えた。
「とりあえず立てないようにはしておかないとね……」
また、来る! どうしよう! 逃げようにも、恐怖のせいか足が動かない!
「ひいっ! や、やめ――」
「――うああああああ!」
割って入ってきたのは男の悲鳴のような叫び声。この場にいる誰のものでもないが、よく知っている声だった。
教室の入口から聞こえてきたその声は一足飛びに近づいてきて、その声の主は思い切り金髪へと体当たりをかます。
跳ね飛ばされた金髪。体当たりの男も反動でその場に尻もちをついている。天然パーマの、男子学生――。
「――ユウスケ!」
現れたのは赤田ユウスケその人だった。
彼は即座に立ち上がると、「ユミは!」と教室を見渡した。俺は「そこに!」と前田さんと、それを押さえつけている短髪の男子生徒がいる教室の隅を指差した。
「ユミに、触んなあああああ」
ユウスケが前田さんのいる方へ向かって猪突猛進していく。だが、その横から金髪が邪魔しようと蹴りの狙いを定めているのが見えた。
「させるか……!」
さっきまで石のように固まりきっていた俺の両足が動く。両腕のガードを上げたまま、俺は金髪の前に立ちはだかって本日二度目となるその蹴りを受けた。
「ぐえっ……!」
ガードしていた顔ではなく、腹部に衝撃。しかし、俺は根性でその足にしがみつく。バランスを欠いた金髪と一緒に俺は地面に倒れた。
「急になんだ! 何だよ!」
背後では短髪の男子生徒の声が響いている。ユウスケと取っ組み合いになっているのだろう。俺はものの数秒で金髪の足から剥がされて教室の古い木製の床パネルに突っ伏した。
「お友達か?」
金髪が、短髪と組み合っている赤田を見てから俺に視線を向けた。俺は腹を抑えて立膝をつく。
「そうだよ……。今日ずっと俺をシカトしくさってた友達だ……!」
言いながら、俺は嫌な汗をかく。
ユウスケが来た。それは良いことだ。横目で見る限り彼は短髪の男を相手に負けていない。だけど問題は俺の方だ。この金髪は俺より全然強い。でも、何とか止めないとユウスケが危ない。
「……く」
俺は脇腹を押さえる。
……痛みの程度からしてちょっとした打撲だろう。でも、呼吸がしづらい。喧嘩なんて出来るような状態じゃない。
……万事休すか……!
「カズト! ここだ!」
また、第三者の声。次いで複数の足音が廊下の地面を叩いて駆けてくる音。
教室の入口を振り返り見ると、山吹さんを先頭に、藤谷と……新山さんもいる。
「久喜君……!」
新山さんが、彼女にしては珍しい声の大きさで俺の名前を呼んだ。……ああ、そうか。結構な量の鼻血が出てしまっているから吃驚したのだろう。
山吹さんが一歩前へ出る。普段の凛々しい様子以上に厳しい表情の彼女が、さっきの新山さんとは正反対に、小さく、静かに呟いた。
「……カズト……」
「わかってる」
藤谷が山吹さんの言葉に答えて、ゆっくりと金髪の方へ足を向けた。
……それからは一瞬の出来事だった。
ものの数秒で金髪と短髪を暴力で黙らせて、金髪が持っていた縄――おそらく、前田さんか俺を縛るためのものだったのだろう――を使って二人の男子生徒を捕縛した藤谷。山吹さんはそんな彼をねぎらってから男子生徒二人組を冷たく睨んだ。
「貴様らは、然るべきところで処断してもらう。大人しくついてこい」
それから藤谷と山吹さんは金髪と短髪を連れて教室を出ていった。
俺はというと、藤谷による見事なまでの捕物に驚きつつも、自分の不甲斐なさに放心していた。
教室に残された俺、新山さん、ユウスケ、前田さん。四人の中に一瞬沈黙が訪れた後、新山さんが口を開いた。
「赤田君。救急箱はここに置いていくから使ってね」
そして、ユウスケの返事を待たずに彼女は俺の手を取って立たせた。
「そして、君はこっちだよ。久喜君」
○
新山さんに連れられて、俺は保健室まで来ていた。保険の先生は非番なのか、それともどこかに行ってしまっているのか、部屋には誰もいなかった。
俺は顔にこびりついた鼻血を洗い流し、ベッドに仰向けに横たわる。側のパイプ椅子には新山さんが座っていて、俺の方を見ていた。「恥ずかしいので一人になりたい」と伝えたものの、彼女が「保険医が来るまで」と言うので受け入れた形である。
「カズトくんには保険医を呼ぶように伝えているから、すぐ来ると思う」
「……怪我人を放っておいたなんて評判立ったら、生徒会にも入れないもんな」
何となく憎まれ口を叩いてから、俺は目を閉じた。真っ暗な視界の中で疑問をつぶやく。
「ユウスケと前田さんを残してきて良かったのか?」
「むしろ、二人には話す時間が必要なんだと思ったけど。赤田君の様子を見る限りだと」
「……さすが、よく見てる」
目を開く。真っ白な天井にはシミひとつ無い。
……ユウスケと前田さんの間に何があったのかはわからないし、きっとこれから先、尋ねなきゃ知ることもないだろう。でも、俺と話していた時あれだけ意固地だったユウスケが前田さんと話そうとしている様子だったのなら、何かが変わったのかもしれない。
それは多分、喜ぶべきことだ。
「……多目的室、どうしてわかったの?」
また、疑問を投げた。
俺は多目的室に行くことを誰にも話していない。カーテンもしまっていたし、前田さんの声も猿ぐつわと旧棟の立地のせいで、どこにも届かなさそうなものだ。
「赤田君から連絡があった」
新山さんが答え始める。
「彼から、前田さんが多目的室にいるということを聞いた。それから、どうしてか、久喜君がどこにいるのかを気にしてた。私も、今日の久喜君は怪しいと思ってたし。それで、カズトくんたちにも声をかけて」
「怪しいって……酷いな」
「今はそんなこと、思っていないけど」
新山さんが呟くように言った。
「え?」
俺は思わず聞き返し、彼女の方を見る。新山さんは相変わらず無表情だった。
「久喜君が、こんなに凄い人だと知らなかったよ」
「あ……いや、そんなこと」
俺は褒められて嬉しくて飛び上がりそうになりながら、辛うじて返事を返す。新山さんは無表情で前を見ながら続けた。
「初めて久喜君と話した時、昔の私と似ているなって思った」
「昔の……?」
「そう。不平や不満があっても、努力もしないし、立ち向かうこともない。流れに身を任せるだけの、その他大勢の一人」
俺は苦笑した。この娘ははっきりとものを言う。そして今日みたいにしっかり行動もする。彼女がいなかったら今頃もっと酷い有様だったのかも知れない。
今の新山さんと、彼女の言う『昔の私』とは似ても似つかない。
むしろ、彼女の言う通り、今の俺は昔の新山さんの特徴によく似ていると自分では思う。今日だって、結局なにも出来なかった。
「ひどい言われようだ。事実だけどさ」
新山さんは今度はふるふると首を左右に振った。
「今は久喜君がそんな人じゃないって知ってる。体育祭では努力してた。今日は友達の為に立ち向かってた」
そして「ふふ」と軽い笑みを見せる。俺は何となく恥ずかしくなって、視線を天井に戻した。
そして同時に、自らの胸の微かな痛みに気がつく。
俺はこの痛みを知っていた。中学生の頃、『柏崎燕』という人にも同じような感情を抱いたからだ。
……でもこの想いは、気づかないほうが良かったのだろう。
「……まるで、カズトくんみたいだった」
新山さんのその言葉で、俺の胸にはもう一つの想いが湧き上がってくる。
「藤谷、か。……同じ、中学校だったんだっけ?」
「そう。私、中学の頃、ひとりぼっちだった。それを救ってくれたのがカズトくんだった」
藤谷の話をする新山さんの声色は、輝いている。
「私もカズトくんみたいに他の人の力になってみたかった。今日も、私には何も出来なかったけど」
楽しそうに話す新山さんに、思わず目を向ける。彼女はうつむいていて、それでも微笑んでいる。話題に出るだけで、こんな顔をさせてしまう。
――この胸の痛みが、想いが、産まれてきてしまったこと。それが始まりだったのかも知れない。